第2章/黒き軍団 第7話/疾風迅雷の魔物

   一


 バルートの表情が一瞬曇る。

 自分の戦法は相手にも十分予想できるはずだ。

 当然相手は左に回り込まれるのを嫌って、彼の動きに合わせて左回りをするはず──実はこの瞬間こそがバルートの最大の勝機なのである。


 敵の攻撃に備えるために、それまで爪先にかかっていた重心が僅かに踵に移るその瞬間に、飛び込む。

 重心が再び踵から爪先に移る一瞬の時間差をして、機先を制するのである。

 だが、アサドは動かない。微動だにしない。

 バルートの唇に嘲りの笑みが浮かんだ。

 所詮、コケおどしか!ならば遠慮する必要もあるまい。

「フンッ!」

 右足で地面を蹴ると、バルートは一気にアサドとの間合いをつめた。


 己の左手で左耳を塞ぐようにして半身の体勢で飛び込む。

 前腕の盾が、自然に頭部から肩口を防御する姿勢になる。

「きえええええいっ!」

 大きく振りかぶった右手の半月刀は、しかし途中から軌道を変えて真横へと薙ぐように動いた。

 それと同時に、バルートの上体は大きく下に沈み込む。

 彼は狙っていたのだ。

 アサドの左のすねを!


 馬上での斬撃を主としてきた刀法としては、常識外れの一撃であった。

 同じ直立した姿勢であれば、アサドの長剣は遠い間合いからの斬撃を加えられる分有利である。

 だが、このような地面を這うような低い姿勢で攻撃を加えられた時、肩に担いだ姿勢からでは敵の身体までの移動距離が長すぎる。

 しかも剣が最も威力を発揮する打突部位は、切っ先から僅かの範囲でしかない。

 剣の半ばから鍔元まででは、たとえ一撃を加えても、致命傷は負わせられないのだ。

 勝った!

 バルート将軍は心の内で絶叫していた。だが……



   二


「あ……ああ……」

 アル・シャルク軍の兵達から間の抜けた声が上がった。

 彼らの視線の先には、血刀を無造作に払うアサドの姿があった。

 左肩から右の腰骨まで両断されたバルート将軍は、赤黒い臓物をむき出しにして地面に前のめりに倒れている。

 彼の自慢の盾も真っ二つに両断されていた。

 いったい何が起こったのか、アル・シャルク軍の兵には理解できなかった。

 一部始終を見ていたはずのラビン准将も同様だった。

 バルート副司令官の剣先が、アサドの左臑に触れようとした瞬間──


 アサドの左の爪先から一瞬砂ぼこりが立ったように見えた。

 アサドの剣の切っ先は地面にめり込んでいた。

 バルート将軍は死んでいた。

 ただ、それだけであった。


「ウルクル軍傭兵部隊隊長アサド、アル・シャルク北方軍バルート副司令官を討ち取ったり!」

 アサドの声がアル・シャルク軍の全兵士に向けて発せられる。

 それでもなお呆然としたままのアル・シャルク軍を後目に、アサドは赤馬に飛び乗り砂塵を上げて疾走を始めた。

 その手にはいつの間にか切り落とされた、バルート副司令官の首が握られている。

 神速の逃げ足であった。


「お…ううう……おっ! 追撃、ぜ…全軍追撃! あの男を生かして帰すなぁ!!!」

 我に返った兵士が、ひっくり返った声で下知すると、戦車が数台猛然とアサドを追撃し始めた。

 その速さと機動性を“疾風”と謳われたアル・シャルク軍の戦車部隊。

 だが、必至の追撃にも関わらずアサドの赤馬との差はどんどんと広がってゆく。

莫迦ばかな……なぜ追いつけん! 奴の馬は妖魔か?」

 掌に冷たい汗をかきながら、それでもアル・シャルクの戦車の御者は必死に鞭をくれた。

 だが、差は一向に縮まらなかった。

「……あああ!」

 ついには、戦車兵達はそのまま一気に城まで逃げ切ったアサドを、呆然と見つめるしかなかった。

 さらに追撃しようとしたアル・シャルク軍の左手側から、白い影が飛んだ。

「ヒュッ? なんだぁ?」



   三


 それは、泡黄色を帯びた白。

 アサドの愛馬よりも高速なそれは──

 子牛ほどもある体格ながら、飛燕のように速く。

 戦場を疾走する二体の影。


 グルルル……


 低い唸り声が響く。

 それは犬だった。

 二頭の統率役らしき犬と、それに付き従う数十匹の犬。

 統率役は、人間の胸ほどの高さに頭がある。

 後肢で立ち上がれば、人間の身長を遥かに超える。

 二頭に付き従う犬たちは、一回り小さいが、それでも大型の狼と同等か、わずかに大きい。

 咬合力は弱いのか頭骨は小さく、長い口吻マズルは細く長く、大きな垂れ耳が目立つ。

 細く長い脚は優美で、前肢の脇には長い飾り毛が揺れる。

 優美でさえある。


「サルークだ……」

 アル・シャルク軍の兵が、呟いた。 

「サルーク? それは西方の魔犬の呼び名か?」

「魔犬じゃねぇよ、砂漠の名犬だよ。その速度は原羚ガゼルを遥かに凌ぐと讃えられた、幻の犬だ!」

「原羚より速いだと? そんな犬、いるわけねぇだろうが」

「じゃあ、今目の前にいるのはなんだ? バルバロ族の門外不出の犬として千年、脚の速い子だけを掛け合わせたって言われてる。俺ぁ西方の牧童が連れてるのを、一度だけ見たことがある。あれより速いのは、猟豹チーターだけだ」

「そんな莫迦な……」

 

 犬部隊の後方、黒衣の男がいた。

 アサドの馬よりも遥かに小柄な、しかし俊敏そうな芦毛の馬にまたがっていた。

 戦場に鳴り響く指笛を吹くと、犬たちがいっせいに男の周辺を回りだした。

 黒衣の男が、1キュビットほどの長さの、金属製の何かを投げた。

 それは独鈷杵ヴァジュラと呼ばれる、東方の武具であった。

 槍状の刃が柄の上下に付いている。

 投げた独鈷杵を空中で口に咥えると、二頭の大柄なサルークは猛然と駆けだした。

 他の犬達は、統率の取れた動きで列を組み従う。


 アル・シャルク軍の戦車をく驢馬の横を、サルークがスッと横切ると──皮膚が切り刻まれた。

 致命傷にはならない、浅い傷だ。

 だが、アル・シャルク兵の驢馬を、恐慌パニックに陥らせるには充分であった。

 牧羊犬に追われる羊の群れのように、アル・シャルクの騎兵は容易に御されてしまった。

 従う他の犬達は、驢馬に向かって吠え、蹄に噛みつき、時にその背後に飛び乗って首筋に噛みつく。

 咬合力は強くなさそうだが、なにしろそんな攻撃を受けたことはない。

 それだけで暴れ、御者の兵の制御が効かなくなる。

 アル・シャルク軍の御者をしても、慌てふためく驢馬を制御はできなかった。




   四


「ふむ、慌てておるな」

 サウド副官は、戦況を見つめながら、口元に笑みが浮かんだ。

「西からきた疾風の部隊──彼らが来たおかげで、瀝青の丘で生き埋めになって死なずに済みました」

 サウド副官の顔が、わずかにほころんだ。

 突然の地震と土砂崩れで、半ば埋もれかけたサウド副官とジャバーを、見つけて掘り返したのは犬部隊を率いるサグと呼ばれる男だった。

 瀝青の丘でサウド副官が「#あいつら__・__#が来たようだのう」と言ったのは、まさにこの犬部隊のことであった。


「これで傭兵部隊の戦力は一気に上がる。いにしえの覇王が3万頭の犬を率いて西征をしたという伝説があるが……なかなかどうして、30頭足らずのサルークでも、充分に大隊並みの戦力となっておる」

 アサドを深追いして、ウルクルに近づきすぎた一団が、分断され、包囲され、削らえた。

 数にまさるアル・シャルク軍であっても、分断されてしまえば、各個撃破の数で圧倒できる。

 赤獅団の精鋭が高速な騎馬で次々と矢を射かけ、近づいては長槍や鉄戈で次々と首を狩る。

 予期せぬ攻撃で、アル・シャルク軍は翻弄され、果実の皮を小刀でくように、外側から削り取られていった。


「驢馬は多めに殺しておかんとな。サルークたちの大事な餌になるし」

「犬部隊は、この緒戦のみの投入、ということですか? 籠城戦に犬は荷物ですからね。食料にはなるが、サグが許すはずもない」

 奇襲のために用意した、犬部隊の活躍を見て、サウド副官がジャバーに命じた。

「そろそろ、アル・シャルク軍の中堅部が体制を整え直す。銅鑼を叩いて撤兵を指示せよ」

「はッ!」

 5キュビットはある巨大な銅鑼に、棍棒ミリィのようなばちでジャバーが三度、叩いた。


 グゥワァン…グゥワァン…グゥワァアアアン……

 撤退の会津である。

 その音を聞くと、赤獅団の面々はさっと馬を引き、一斉に撤退に入った。

 追いかけてくるアル・シャルク軍の兵もあったが、その瞬間上半身を真後ろに捻り、矢を射かけてくる。

 サグの犬部隊は四方八方にバラバラに、駆け出してしまい追いきれない。


 こうしてアル・シャルク軍とウルクル軍の緒戦は、大敗と小さな圧勝が混在する、不思議な戦闘となった。


■第2章/黒き軍団 第7話/疾風迅雷の魔物/終■

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