第2章/黒き軍団 第5話/敵陣の副司令官

   一


「アサド……アサドの軍はどうした!」

 ファラシャトの甲高い怒声が、戦場に弾けた。

 彼女が陣取る右翼もまた、大混乱の中にあった。

「左翼の兵は囮部隊、全滅していましょう」

「全滅? きさまは確認したのか!」

「いえ…ですが、ほぼ全軍の半数からなる右翼の陣がほぼ壊滅した今、傭兵と農民兵で構成された左翼が、健在である可能性は万に一つもありますまい」

「憶測で物を言うな!」

「は……申し訳ありません」


 近衛部隊の副隊長が必死にファラシャトに問いに答えるが、彼とて確信はない。

 当然だ、自分の命すら危ないのだから。

 いや、彼に限らず今やウルクル軍全体の状況を把握している者など、どこにいよう。

「砂塵が巻き起こっている。左翼はまだ交戦中のようにも見えるが……」

「しかし姿は見えませぬ。あの傭兵隊長の巨馬なら、目を引くはず」

「アサドめ、逃げたか……?」


 ファラシャトの疑問も当然であった。

 どれほどの絶技を持とうとしょせん、彼らは傭兵は傭兵でしかない。

 名誉と命を天秤に掛ければ自分の命のほうが重い。

 敵前逃亡など当たり前、逃亡ついでに自軍の金品を持ち逃げする連中も珍しくはない。

 彼女自身、屈強な近衛部隊に守られてはいるが、防戦一方の事態に変わりはないのだ。

 敵軍に向かって必死で矢を放つが、矢柄の中の残りは少ない。


「くっ!」

 突進してくる敵兵に向かって、ファラシャトは必死に矢の狙いを付けた。だが、矢を放とうとした瞬間──連射の酷使に悲鳴をあげていたつるが、ついに切れた。

 抑えを失った弦はファラシャトの頬を叩き、一筋の赤い傷を刻む。

「危ない!」

 ファラシャトの部下の怒号が飛んだときには、アル・シャルクの戦車が一両、陣を突破して突進してきていた。

 ───やられる!

 ファラシャトが覚悟した瞬間、

「ぬが……ああ?」

 敵戦車の屈強な兵士は、間抜けな絶叫を残し、仰け反って倒れた。

「な…?」



   二


「おねえちゃん、大丈夫だったぁ~?」

 戦場には、およそ不似合いな子供の声が、ファラシャトの耳に届く。

「大…丈夫だ。それよりミアト、おまえの傭兵と農民の混成部隊はどうしたんだ? まさか……」

「傭兵部隊なら大丈夫だよん。農民兵がけっこう役に立ってさ。それにおいらがいなくても、サウド副官とジャバー補佐官が指揮を執ってるから、アル・シャルク軍も押されっぱなしさ」


 ミアトの言葉に、ファラシャトは我が耳を疑った。

 押されっぱなし?

 アル・シャルク軍が?

 まさか!

 ウルクル軍の主力である右翼でさえ壊滅に近い惨状なのに、傭兵と農民兵からなる左翼が敵軍を押していると!?

 だがミアとはハッキリと、アル・シャルク軍も押されっぱなし言った。


「ほら、お姉ちゃん、おいらの弓を使いなよ。これならアル・シャルク軍もいちころだよ」

「これは玩具の弓ではないか? こんなものでは戦えない!」

「違うよ、これは小さいけれどさ、左翼の兵がみ~んな使っている弓だよ!」

 ファラシャトの言葉に、ミアトは耳まで真っ赤にして怒った。

「こんな弓でアル・シャルク軍を圧倒していると? 冗談じゃない」


 ファラシャトの疑念も当然であった。

 ウルクルの正規軍からなる右翼の陣が総崩れになっているのだ、農民兵と傭兵がほとんどの左翼が無事であるはずがないではないか!

 しかもこんな子供の玩具のような弓で?

 だが、ファラシャトは知らなかった。

 この小振りの合成弓が、彼女の長弓の5倍の射程を持つことを……。




   三


 そしてあの日の朝、農民兵がアサドの言葉どおり槍を上下に振り回すだけの戦法で、ヴィリヤー軍師の用意した正規兵を、半数の農民兵で圧倒したことを…。

 そして今、この混乱の渦中にある戦場において、アサドの指示どおり動いた農民兵と傭兵の混成部隊は、超遠距離からの弓の速射と、接近しての長槍の槍ぶすまと殴打によって、アル・シャルク軍の侵攻を完全に阻止していたのである。

 それは、誰もが予想できなかった事態であった。

 否、アサドと彼の赤獅団以外は。……


 自らが属するアル・シャルク軍の優勢で推移する戦況を、バルート副司令官は見つめていた。

 日に焼けた顔のこめかみに一筋、青黒い血管が浮かんでいる。

 黒い髪にも眉にも重苦しい、どこか狂気を含んだ容貌であった。

 アル・シャルク北方方面軍・総司令官イクラース将軍が率いる本隊の到着まで、あと3日。

 小国のウルクル攻略など、赤子の手をひねるよりも簡単なこと。

 イクラース将軍の到着を待つまでもなく、俺の隊だけで一息に捻り潰してやる──北方方面軍の副司令たるバルートはそう考えていた。


 三十そこそこの若さでアル・シャルク最強軍団の副司令官の地位にあるのはよほどの戦功があるのか、家柄の良さか…あるいは、その両方か。

 彼はウルクル戦のために、わざわざ本国から派遣された援軍の将であった。

「転戦に転戦を重ねる本体が、動くまでもない。生きの良い援軍の部隊だけで、小国のウルクル攻略など、造作もないこと。そうであろう?」

 バルート副司令官の言葉に、彼の側近が慇懃に答えた。

「まったく、そのとおりでございますな」


「だいたい、伯父上…ではない、ディフィディ国王も何を考えておいでなのか。イクラースのような老い耄れ将軍ではなく、この俺に北方方面軍全軍の、指揮を任せれば良いものを」

 この若い将軍は自分が老将の下にあることが、不満で仕方ないようだ。自らの器量に対する吟持が溢れんばかりの言葉であった。

「まったく、そのとおりでございますな」

 側近が再び、慇懃に答えた。


「本来ならばイクラース将軍は、とうの昔に殺されて然るべき人物。それを……西征の重大な任務を申しつけるとは。これではまるでアル・シャルクに人無きようではございませぬか」

 側近が追従をあらわにして答える。

「しかし、今日この日の戦果を持ってすれば、北方方面軍の実権はバルート副司令官、あなた様の物に…」



   四


 北方方面軍の本隊には、今日の開戦は知らされていない。

 この戦いは先発部隊であるバルート軍の、単独行動であった。

 もちろん、勝算があっての独断専行である。

 援軍の兵力は、本隊の四分の一ほどでしかないが、精鋭を持って知られた兵達で構成されている。

 下手に息の合わない本隊と共同で戦うよりも、バルート将軍単独で指揮した方がむしろ、命令系統が混乱しなくて良いぐらいだ。


 二人のやり取りを、かたわらで聞いていたラビン准将の濃い眉が、微かにひそめられた。

 北方方面軍の中でバルートの次位にある彼は、今日の戦いには始めから反対していたのだ。

 いかに小国のウルクルが相手とはいえ……いや、小国だからこそ、万が一にも緒戦で負けるようなことがあれば、アル・シャルク北方方面軍の威信が大いに傷付く。

 あくまで総司令であるイクラース将軍の到着を待ち、一気にウルクル軍を殲滅せんめつすべき……という彼の進言は、バルート将軍と取り巻きに退けられた。

 国王ディフィディ1世により直接、派遣されたバルート将軍の作戦に反対する事は、すなわち勅命に反するも同様である──という、強引な言によって。


「見ろラビン准将、ウルクルの腰抜けどもめ、こちらの罠にどんどんはまっていくぞ。こんな簡単な戦さ初めてだな。つまらん、実につまらん戦いだ」

 面白くなさげにバルート将軍は鼻毛を1本むしった。

 思いの外、長い。

「砂漠に永くいたせいだな……すっかり長くなっちまった」

 ふとアル・シャルクの都の華やかさが頭をよぎった。

 早く、凱旋したいものだ。ウルクルを落とせば、西征も一段落である。

 そこときは、間違いなく北方方面軍の将軍はになる。


「戦況はどうだ? そろそろウルクルの太守の、皺首しわくびは上がったか、ああん?」

「敵陣は既に大きく崩れております。それも直のことでしょう」

 バルートの腰巾着たちが、卑しい笑みを浮かべた。

 己の総司令官推戴の姿を、思い浮かべたのだろうか、バルートの口の端にも僅かにほころびかけた。

 が、それは斥候の怒号で一瞬にして凍り付いた。

「伝令ェ! 伝令ェ~いッ! 我が軍の右翼、防戦一方にして被害甚大! 至急援軍をお願いいたします。バルート副司令官、ご指示をっ!」

「なにぃ?」

 アル・シャルク軍に、驚きの声が上がった。


■第2章/黒き軍団 第5話/敵陣の副司令官/終■

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