序之章/赤き砂塵 第3話/瀝青の丘の妖魔

   一


 あの男、一直線に向こうに見える瀝青れきせいおかへロバを走らせている。

 逃げるのであれば、大昔の神殿の廃虚とナツメの林がある、左手に逃げるべきだ。

 その方が追手の目をくらませ、逃げ延びる確率は大きくなる。

 確かにいい目印になるとはいえ、何故あんな砂漠の真ん中の、人目につく丘を目指す?

「…ああッ!」 

 ここまで考えた時、ファラシャトの心に恐ろしい予感がわき上がった。


「止まれぇい! 全員止まるんだ!」

 前を逃げる間者の姿が瀝青の丘の陰に消えた瞬間、ファラシャトは手綱を引き絞り、勢いのついた驢馬を無理矢理止まらせた。

 とっさの急停止に、後方の戦車の何台かが勢い余って、横転しかける。

「隊長、どうしたんですか!? このままじゃ奴に逃げられますぜ」

「罠だ! 奴は最初からここに、我々をおびき寄せるつもりだったんだ!」

「な…?! まさかそんな」

 ファラシャト達は瀝青の丘を、凝視していた。


 それは丘というにはあまりに不自然な形をしている。

 平地に無理に盛り土したかのように、急勾配の斜面を持つ台形の丘。

 それだけではない。

 巨大な岩や古い時代の遺構らしきものが、そこには幾つも転がっている。

 それだけに背後は死角になりやすい。

 もし、この丘の向こうに伏兵が潜んでいたら……自分達に待っているのは、確実な死である。


「横に、横に丸く広がれ!」

 ヴィリヤー軍師の声が響いた。

 敵の急襲に備えるため、ファラシャト達は横に大きく隊列を広げた。

 一ヶ所に固まっていては、敵の兵力がこちらに倍するものであった場合、一気に包囲され一網打尽である。

 陣形を広くとれば、個々の兵に敵兵力が分散するため、誰かが生き延びる可能性が生まれる。

 彼らの兵士としての第一義は、此処で敵と雌雄を決することではなく。

 敵の間者と大部隊が近づきつつあることを、伝えることであった。



   二


 そうしなければ、ウルクル自体が全滅しかねない。

もし、敵の兵力が近衛師団の戦力でも充分に対応できる程度のものであれば、戦端を開いてもかまわないが。

 それでも、この内の誰かが戦闘開始と同時に戦線を離脱し、伝令に走らなくてはならない。

 はたして敵の兵力は……

 ファラシャト達は息をひそめて、敵の出方をうかがった。


「うぐあっつ!」

 突然、商隊の長が消えた岩陰から、くぐもった悲鳴が聞こえた。

 その悲鳴に一瞬、身を固くしたファラシャト達の眼前に、何か丸い物がはずみながら転がって来ると、石に当たって止まった。

 それが何かを見定めた彼らの目が、大きく見開かれる。

 首──

 丘の背後に消えたはずの長の首。

 その後ろから、胴体が驢馬の背に乗ったまま、ふらふらと現れた。


 ウルクルの兵達は息をのんだ。

 まだ動いている心臓の鼓動にあわせて、動脈からドックン……ドックン……と血が吹き出し、白かった長のマントがみるみる赤く濡れてゆく。

 何か鋭利な刃物で、一撃のもとに首を落とされたのだ。

 おそらく本人は、自分の首が落とされたことすら、気づかなかったのであろう。

 その両碗はいまだ、手綱を握っていた。

 至近距離からファラシャトの抜き打ちを受け止め、まんまとウルクル近衛隊の正面を突破した男が、である。

 この男なら、たとえ一瞬でも早く相手の攻撃が予測できたならば、何らかの形で反撃したであろう。


 それが予兆として感じられる程度には、彼の体が変化しているはずだ。

 それが手綱から、手さえ放していない。

 いったい何に? 

 いったい何にこの男は殺されたというのだ!

 男の首と胴体が現れた岩陰をファラシャト達は凝視した。

 クトルブか?

 屍肉喰いグールの中でも特に凶暴なあの怪物ならば、人間一人ぐらい簡単に殺せるだろう。

 その体高は人間の二倍を超え、巨大な口蓋は人間の頭など一口で呑み込む。

 砂漠を旅する商隊にとってクトルブは、しばしば盗賊よりも恐ろしい存在となる。



   三


 だが、違う。

 たしかにクトルブの牙は鋭利だが、ここまで鮮やかに人間の首を切断できはしない。

 しかも、食いちぎった首を地面に落とすことなどありえない。

 彼らなら、すぐさま呑み込むはずだ。

 低級な妖魔であるクトルブに、首だけ切り落とすなどということは出来ない。

 こんな芸当が出来るのは……

 ファラシャト達の間に緊張が走った。

 カサリ…と小石が砂を滑る音がしたその時、不意に岩場から巨大な赤い影が現れた。


 異形。

 夕日の逆光に照らされて細部はよく分からないが、そのシルエットはあきらかに人間のものではなかった。

 影は大小含めて五つ。

 それぞれの手には、何か杖のような物を持っている。

「──おい」

 低い声が呼びかけた。

 妖魔ジン

 その場の誰もがそう思った。

 兵達の間に、緊張と微かな恐怖が走る。

 戦車に乗ったファラシャト達よりも、さらに倍以上も高い背丈。

 上半身は人間に似ているが、下半身は巨大な四本足。

 そのような異形の姿をしていながら、人語を解する高い知能。

 この世界に、そのような異形の生き物はいない。

 妖魔を除いては……


 ザシャアッ!

 ファラシャトを守るように、部下の男たちは円形に陣を敷いた。

 太陽神シャムスの護符を握りしめて、ファラシャトは身構えた。

 最下級の妖魔である屍肉喰らいグールくらいならば、ファラシャトも今までに何度か見たことはあるし、二匹ほど切り伏せたこともある。

 たとえ凶暴なクトルブであっても、この手勢なら対処できる。

 だが、これほど巨大な体躯の妖魔など、初めて見る。

 しかも、こいつらはかなり妖力も強いはずだ。

 人語を解する妖魔は、最低でも中級以上の妖力を持つ。

 太陽神の護符ごふを持つファラシャトの左手が、じっとり…と汗ばんできた。



   四


「あのさァ、太陽神の護符なんか、オレらには効かないよォ。それは妖魔に使う物でしょ?」

「……え?」

「ねえ、ねえ、あんたら、ウルクルの兵隊だろ?」

 狼狽するファラシャト達に向かって、まだ幼いとすら言える少年の甲高い声が響いた。

「ちょうど良かったよ。暑いんで岩陰で休んでいたら、あんたらのもめてる声が偶然聞こえてさ。それでね……」

 声はファラシャト達の頭よりも遥か上から聞こえてくる。


 突然の言葉に、ファラシャトはもう一度赤い影を凝視した。

 さっきよりは西日の斜陽に慣れた彼らの目は、その影が四つ足の怪物などではなく。

 何か巨大な生き物に騎乗した、人間であることを確認した。

 中央に、ひときわ大きいその生き物に乗った男と、周囲には一回り小さな生き物……ファラシャトの戦車を引く馬に似ている。

 これは、この地ではまだ珍しい馬だろうか? だとすると目の前の一団は妖魔では無いかもしれぬ。

 妖魔では無い…それだけで、近衛師団の面々に安堵の表情が浮かんだ。

 もちろん兵士である彼らは、相手の正体がはっきりするまで、戦闘態勢を崩すようなまねはしない。


 依然として、ファラシャトの剣の切っ先は、赤い影の方にピタリと向いている。

「何者だ? この男の首を切り落としたのも、おまえらか」

 ファラシャトの全身から発する殺気に、まるで気付かぬように、赤い影の一つが歩を進めて来た。

 一歩近付くごとに、たった今相手が妖魔では無いかもしれぬと考えて安堵の表情を浮かべたはずの近衛隊士の間に、奇妙な空気が漂い出した。

 かすかな怯え…何に対するのか、しかとは分らぬが。

 押さえきれぬ恐怖。


 近付くにつれ、その影が頭から足先まで全身を、緋色のマントで包んでいるのが分かった。 

 マントはだいぶ色が落ちてはいたが、目の細かい木綿で作られた、しっかりとした丈夫そうな物であった。

 そのマントから、目だけが覗いているが。

 一段と濃い陰になっているので、表情は全く分らない。

 マントの裾から、ガッシリした長靴が見える。

 全体の姿は、辺境の遊牧民の服装に似ていた。


 手には長さ9キュビット弱もある杖。

 1キュビットはおよそ、肘から指先までも長さである。

 先端には『く』の字型の金属が、結び付けられている。

 羊を遊牧するときに使う物であろうか?

 武器らしき物は背中に背負った長剣だけ。

 刃渡り5キュビット、全長7キュビット弱の、大剣である。

 刀身は鞘ではなく、布でぐるぐる巻にしてある。

 これでは咄嗟の時に使えない。

 それに……


■序之章/赤き砂塵 第3話/瀝青の丘の妖魔/終■

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