カフェ・クラムジイ7~もう一度、ここから~
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もう一度、ここから
六月、朝から蒸し暑く額に汗がにじみ出る中、冬樹は長谷部とともに立川駅から続く繁華街の中を歩いていた。颯爽と歩く長谷部の後を、冬樹は申し訳なさそうな顔をしながら後をついていった。
居酒屋での長谷部との会話を通して、自分が心から好きだと言えるのがコーヒーであることに改めて気づいた冬樹は、勤めていた中古住宅販売の会社を退職し、もう一度カフェを始めることを決意した。冬樹から決心を聞かされた長谷部は心から喜び、自社物件の一つをカフェとして賃貸したいと提案してきた。
雑居ビルが立ち並ぶ通りを住宅街に向かっていくと、やがて二人は「貸店舗」という張り紙が貼られた小さな店にたどり着いた。
「ここ?」
「はい、ここです」
長谷部はカギを開けると、十畳ほどの広さの店内には長いカウンター机と厨房があった。コンクリートの壁に覆われた店内は、灰色と黒色のシックな内装が印象的で、天井に取り付けられた暖色系の灯りが温かみのある雰囲気を作り出していた。
「昔はスナックだったんです。でも、この程度の広さがあればカフェでも十分通用すると思いますよ」
「そうだね。雰囲気もいいし、カフェには十分すぎる物件だよ。ここに決めたいけど、駅に近いから、それなりの値段はするよな? また賃料が支払えなくなるんじゃないかって心配でね」
「そういえば、以前のお店の返済もまだ続いているんですよね?」
「まあな。正直言うと、サラリーマンを辞めて安定した資金源がなくなるわけだし、返済が滞りそうで頭が痛くてね……」
「そうだろうと思いましてね。はい、これ。返済の足しに使ってください」
長谷部は一枚の小切手を手渡した。
「百万円……!?」
「はい。僕から曽我部さんへの餞別だと思って受け取ってください」
にこやかにほほ笑む長谷部の目の前で、小切手を持つ冬樹の手が震えていた
「お前、いくらうちの会社で契約獲りまくって稼いでいるからといってもさ……自分の生活だってあるだろ? 自分の稼ぎは自分のために使えよ」
「私はこう見えても独身だし、結婚の予定もないし、いくら稼いでもそんなに使い道がないんですよ。それに私、曽我部さんがもう一度自分の夢に挑戦することを選んだことがすごく嬉しくて。だから私、自分ができる精一杯のことをさせていただきますから。さ、何も言わずに受け取ってください。建て替え払いじゃないので、後で私に返済してくださらなくても結構ですからね」
冬樹の目には、自然に涙がじわじわとあふれてきた。
「今度のお店は上手くいくといいですね。あ、そうそう。生意気ですが、最後に一つだけお話していいですか?」
「も、もういいよ。もうこれだけで十分だよ」
「いえ、ここが一番大事なことですよ……新しい店が上手くいくために何が必要か、私なりに感じたことを伝えたいと思いまして」
「え?」
「それは、曽我部さんが自分にしか出せない色を出してほしいということです」
「何だよ色って。僕がやろうとしているのはカフェなんだぞ。余計なことはせず、美味しいコーヒーを提供できるかどうかが一番重要なんだ」
「確かに味も大事ですが、今、個人開業のカフェは大手カフェチェーンに押されていますから、大手には出せない独自の色を出せるかがもっと大事だと思いますよ」
長谷部の言葉は、以前の店が失敗した理由をまる知っているかのようだった。
チェーン店には出せない本格的コーヒーにこだわりを持っていたが、それ以外には何も特色が無かった。
「自分しか出せない色とはいったい何なのか?」と聞かれても、今の冬樹には、全く思いつきもしなかった。
「ごめん。自分だけの色が何なのか、今はまだ思いつかないよ」
「アハハハ、すぐ見つけなくてもいいですよ。いつかきっと見つかると思います。それを自分の店のアピールポイントにすれば、きっと道が開けると思いますよ」
「ありがとう。君に会えただけでも、この会社に来てよかったと思うよ」
「とんでもないです。開店したら、ぜひ曽我部さんのお店に立ち寄らせてもらいますから。さ、これから職場に戻って、西田課長に退職の挨拶に行きましょうか。課長、ああ見えて曽我部さんのこと結構心配してるんですよ」
長谷部が背中を見せて店を出ようとしたその時、冬樹は申し訳なさそうな顔で首を振った。
「悪いけど、先に職場に戻ってくれるかな? 退職する前にどうしても会っておきたい人がいるんだ。課長にはあとでちゃんと挨拶に行くからさ」
「どちらへ?」
「僕が唯一契約にこぎつけた人の所だよ」
それだけ言い残すと、冬樹は早足で店を出ていった。
行き先はただ一つ……自分の手で唯一獲得した顧客である堀金英二の家だった。
英二は冬樹を気に入った様子で、契約後もたびたび自宅に呼び出していた。新居への引っ越しを手伝わされ、時には呼び出されて音楽やウイスキーの談議に付き合わされるなど、色々気疲れすることが多かったものの、お互いに心が通じるものがあるからか、いつの間にか友達のような間柄になっていた。
立川駅から離れた住宅地に佇む洋風の中古住宅にたどり着くと、冬樹はインタホンを押した。
「こんにちは」
「おお、曽我部さんですか。どうしたんですか、急に」
「実は、会社を辞めることになったので……」
「本当ですか? せっかく色々世話してもらったのに、残念だなあ」
英二は顔を曇らせながらも「上がりなさい」と言ってスリッパを用意し、冬樹を手招きした。
部屋の中には英二が国内各地で買いあさった陶器の数々が、そして壁際に置かれた棚の中には世界中からかき集めたというウイスキーがぎっしりと並べられていた。
冬樹は部屋の中で座って待っていると、バンドネオンを両手で抱えた英二が出てきた。
「親友であるあなたのために、はなむけの曲をプレゼントするからね」
英二はそういうと、白い歯を見せて茶目っ気のある笑顔を見せながらバンドネオンの蛇腹を左右に動かし始めた。
明るくも哀愁を帯びたバンドネオンの音色は異国情緒に溢れ、聞く者をまるでダンスホールやヨーロッパのカフェにでもいざなうかのようだった。
その時、冬樹の脳裏に突然何かが閃いた。
海外から取り寄せた豆を使ったこだわりのコーヒーを飲みながら聞くバンドネオンの音色……それは忙しい日常を離れ、海外を旅する時のような特別な時間になるに違いない。
演奏が終わった途端、冬樹は立ち上がり、バンドネオンを手にした英二の目の前に立った。
「すみません。それ、僕にも演奏できますか?」
「ああ。コツさえ掴めばね」
「月謝払ってもいいので、教えてください! 僕……今度カフェを開くんですけど、コーヒーを淹れるだけじゃなく、そこでバンドネオンを演奏してみようかと思いまして」
冬樹は深々と頭を下げると、英二は腕組みをしながらしばらく考え込んでいたが、やがて頷くと、冬樹の前にバンドネオンを差し出した。
「……まあ、あなたとこのままお別れしてしまうのは悲しいですからね。わかりました、受けましょう」
「あ、ありがとうございます!」
「月謝は要りませんよ。練習後の一杯に付き合ってくれればね」
英二は棚の中からウイスキーの瓶を取り出すと、冬樹に目配せしてニヤリと笑った。冬樹は苦笑いを見せたが、英二の心意気を嬉しく思った。
冬樹が会社を退職してから二か月後の八月、長谷部と契約した物件の入り口に「カフェ・クラムジイ」と書かれた看板が掛けられた。
厨房の中には、使われることなく箱の中で眠っていたコーヒー用の道具と、世界中から集められたコーヒー豆がずらりと並べられていた。
「さ、今日からまた頑張ろうかな」
シャツの腕をまくり、窓から差し込むまぶしい光を浴びながら大きく背伸びをすると、コンロで湯を沸かし始めた。
開店時間を過ぎても、なかなか客が入ってこなかった。
冬樹は退屈しのぎに、英二から譲ってもらったバンドネオンを手にすると、蛇腹を動かしながらタンゴを演奏した。バンドネオンの軽快でいてどこか哀愁漂う音色は、シックな内装と相まってどこか違う世界にいるかのような錯覚を覚えた。
その時、誰かがゆっくりと入口のドアを開ける音が耳に入った。冬樹は慌ててバンドネオンを下ろし、直立不動で入口の方を見つめた。
「い、いらっしゃいませ……」
ドアが開くと、中年の女性二人組が店内を見回しながら、店内に入ってきた。
「今、アコーディオンの音がしなかったかしら?」
「ええ、僕が演奏していたんですが」
「とてもいい音色だから、ずっと店の外から聞いていたのよ。もっと聞かせてもらえるかしら? コーヒーも注文するからさ」
「は、はい。喜んで」
冬樹ははやる気持ちを抑えながら、コーヒーを淹れ始めた。
淹れたてのコーヒーをテーブルに置くと、コーヒーを味わう二人の前でバンドネオンの演奏を始めた。二人はカップを手に目を閉じながら、冬樹の演奏にじっと聞き入っていた。演奏が終わると、二人から「ブラボー」の声と拍手が沸き起こった。
「ここ、すごくいい雰囲気ね。コーヒー飲みながら生演奏を聞くなんて、贅沢よね」
「ありがとうございます」
「お友達にも宣伝しとくからね」
女性たちは満足した顔で店を去っていった。
初めて迎えた客から上々の感想をもらい、冬樹の顔は上気していた。
午後になると、先ほど訪れた女性たちから噂を聞いたという別の女性グループがやってきた。彼女たちはさらにその友達にも情報を拡散し、狭い店にはいつの間にか入りきれないほどの客が詰め掛けていた。
冬樹は次々に出されるオーダーをこなしつつ、客のリクエストに応えてバンドネオンの演奏もこなしていた。
そして閉店時間を迎え、最後の客を見送った後、冬樹は疲れ果ててカウンターの椅子に座り込んだ。
「僕、夢でも見てるのかな……」
冬樹は天井の照明を見つめながら、今日のことがいまだに信じられない様子で首をひねっていた。そして、一人でコーヒーを淹れ、食器を洗い、バンドネオンの演奏をこなしていたせいか、激しい疲労感と強烈な肩の痛みが残っていた。
このまま肩の痛みをこらえながら、明日以降の営業が出来るのだろうか? 誰かもう一人店員がいれば良いのだが、アルバイトを雇って給料を払える余裕は今の冬樹にはなかった。
コンコン、コンコン
閉店間際だというのに、誰かがドアを叩く音がした。
冬樹は肩の痛みをこらえながら、ドア越しに大声で呼びかけた。
「あの、もうすぐ閉店なのですが……」
「もうおしまいですか? 美味しいコーヒーを飲みたくて来たんですけど」
あれ? この声、どこかで聞いたような……
冬樹はまさかと思い、ゆっくりとドアを開けた。
「こんばんは」
そこには、にこやかな表情で手を振る緋色が立っていた。
(了)
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