やぶ医者の娘③

ハマハマ

 あたしがどうしてこんな子供になってしまったのか、ご存知ですか?


 産まれて大体半年と少し過ぎた、「あー」だか「ばー」だか口にする様になった頃。


 あの頃あたしはお父様の背にぶわれて過ごす事が多かったのです。

 そのお父様がひっきりなしに野巫三才図絵やぶさんさいずえをご覧になるものですから、否応なしにあたしの目にも入る訳です。


 最もよくお読みになってた『人の部』の質実な図柄。

 かんなぎを流す事で読む事が可能な『地の部』の優美な図柄。

 巫戟ふげきを使えないお父様では読む事が出来ない『天の部』の複雑で華美な図柄。


 それらを目にして何故だかあたしの全身に、根から水を吸った植物の様に、野巫の全てが染み渡っていったのです。


 野巫もしくは野巫三才図絵自体に不思議な力があるのでしょう。

 当然産まれながらに巫と戟――巫戟の力を身に宿していたことが大前提でしょうけれど。


 「あー」だか「ばー」だか言っていたあたしの自我は急速に成長し、それからふた月ほど、ずり這いの頃から今の様に喋り始めておりました。


 さて。

 あたしはそんな風にして出来上がっていった訳ですが、ひとつ上の葉太お兄様はいたって普通に成長されました。


 きっと混乱された事だろうと思います。

 ご自分より後に産まれた小さな妹が、父や母と同じ様に喋るんですもの。


 けれど、葉太お兄様は凄いお方だったんです。


 そんな薄気味悪い妹に対し、ニコリと微笑んで言ったのですもの。

「りょーこはね。兄ちゃんもがんばるよ」


 葉太お兄様はちっともクサることなく、今のご自分に出来ることを精一杯にやる、そんな素敵な男の子に育っていったんです。


 数えで六歳の葉太お兄様。

 あたしも五歳になりました。


 よそ様の六歳に較べれば幾分も流暢ですが、あたしに較べれば当然子供らしく喋る葉太お兄様。

 ある日二人っきりでお庭で遊んでいた折、どこから迷い込んだか大きな犬が低く唸りながらやってきたのです。


 お兄様は震えつつも胸を張り、あたしを背に回して言いました。

「この子には指一本ふれさせないよ」


 野巫三才図絵の『天の部』に載るまじないをも使い熟せるあたしです。

 たかが大きな犬なぞ何するでもありはしませんが、その葉太お兄様の凛々しさが半端じゃなくって何ひとつ口にできませんでした。


 そして、やはりおかしな子供はあたしだけじゃなかったのです。

 元六尾の妖狐のお母様、お父様は巫を操る剣の達人。そんな二人の血を引くお兄様も、只の子供ではありませんでした。


「大人しく帰って、ワンちゃん」


 色で言えば純白の、比類するものなき美しくも巨大なかんなぎを全身に巡らせ大きな犬を威圧して見せたのです。


 本能的に感じるものがあったのか、大きな犬はすごすごとお庭を出て行ってくれました。

 ふぅぅ、と深い吐息をひとつ。

 葉太お兄様は振り向いて、すこぶる可愛い笑顔で言ったのです。


「怖かったね、りょーこ。もう大丈夫だよ」


 ――ずきゅん。


 感極まって葉太お兄様のお胸に飛び込みぎゅっとしがみつき、これでもかとぐりぐり顔をうずめます。


 ――いけません。そんな、兄妹ですもの。


 でも葉太お兄様がいけないんです。そんな優しくてカッコ良くって素敵な笑顔で、そんな、そんな――


「ちょっと! 今の犬なに!? 葉太! 良子! 大丈夫だった!?」


 賑やかなお声と共にやってきたのは叔母様です。

 彼女は妖狐の一族が住まう黒狐こっこの里の里長夫人をやってらっしゃる、お母様のお姉様。深紅の戟を持つ七尾の妖狐。


 あぁ、こういうものだったのですね。

 菜々緒叔母様のお気持ちが今ならよく分かります。


 叔父様にひと目惚れした叔母様のお気持ちが……


 ごめんなさい。

 これまで叔母様のこと、ただのだと思っておりました。


 人に恋した妖狐を笑えませんね。

 あたしなんて実のお兄様がお相手なんですもの。

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