石衣くもん

🎨

 この世界に溢れるたくさんの色の中から、一番好きな色を選ぶなら、私は一体何色にするだろう。


「俺、実は紺色が一番好きなんだよ」


と、私がプレゼントしたネイビーのネクタイを見詰めながら、彼はそう言った。

 一番好き、なんて軽々しく言える彼が疎ましい反面、羨ましかった。

 百や千、下手したら網羅することすら不可能な数のものを対象にして一番を決めるなんて、きっと私にはできやしない。まあ、適当に見繕った嘘に違いない。


 この前もひと月前は犬派だったのに、突然猫派に寝返っていたし。そもそも、この人が紺色のものを身につけたり、選んだりしているところなんて、ほとんど見たことがない。ああ、だから「実は」という枕詞をつけたのか。突っ込まれても言い逃れできるよう、その辺りは抜かりない。犬派猫派の件も、


「今猫派って言ったのは君の描いたイラストとか、こう描かれた方でさ。犬は実物が好きなんだよ。つまり二次元は猫、三次元は犬が好きなんだ」


なんて、もはや屁理屈ですらない言い訳を自信満々に言われて恐れ入った。

 しかし、如何にもその場しのぎと言わんばかりの台詞を、私が喜ぶだろうということだけで発する軽薄さに辟易しながらも、一方で私を喜ばす為に選ばれた言葉だということに満ち足りた気持ちになる。


 ただ、さすがに彼も紺色が一番好きという、あからさまな嘘に突っ込まれたくなかったのか


「そう言えば桜は何色が一番好きなの?」


と、すぐさま話題転換を行われた。

 桜だから、やっぱりピンク? なんて、詰まらない軽口付きで。


「そんな安直な」


とか


「そもそも桜色とピンクは違う色だ」


とか


「それなら名字の卯花だって、卯の花色という列記とした色なのよ」


とか。

 言いたいことはいくつかあったが、どれ一つとして喉の関所を通さなかった。それは勿論、私がこの浅はかな男のことを愛してやまない、愚かな女だからだ。

 自ら進んで、嫌われるような嫌味を言うつもりもない。だから、口から発することなく誰の耳にも届かないまま眠らせた言葉たちを、一つ一つ黒く塗り潰して自分の中に積もらせた。


 これはここ最近、自衛として行っている悪しき慣習だ。状況を悪化させたくない一心で我慢を重ねて、飲み込んだ言葉の数だけ、人から本音を隠した。

 黒く塗り潰すのは、どんなことを我慢したのかわからなくさせるため。


 そうでないと自分の身が持たないのだ。「王様の耳はロバの耳」に出てくる、王の耳がロバの耳に変わったことを知ってしまった理髪師のように、秘密を一人の身の内に押さえ込むのは辛く苦しい。

 だから、私はその秘密とも言える本音を見えないようにする。そうすれば、溜め込んでも苦しくなくなった。だから、溜め込み続けている黒い言葉たちは、ずっしりと確かに自分の中に積もっている。


 彼は本当のことだけでなく、適当な嘘でも簡単に吐き出す。私は嘘どころか、本当の言葉すら黒く塗り潰して隠してしまう。正反対な私たちだから、上手くいってるのかな。歪な関係には違いないけれど。


「仕事の一環として捉えるからかな、考えたこともなかった。私、何色が一番好きなんだろ」


 たくさんの本音を塗り潰して、選ばれた無難な言葉を、困ったように笑って口に出せば、彼もこれ以上この話題は続かないと判断し、安心したのか


「桜らしいな」


と笑った。


 私、卯花桜は、イラストレーターだ。普通の人よりも、少しだけ色に触れる機会は多いと思う。というよりも、色に関わる仕事をしたくて、イラストレーターになったという方がしっくりくるかもしれない。


 おかしなことを言うけれど、少し前から、私は言葉の色が見えるようになった。言葉の色というか、感情の色が見えるというか。本音を黒く塗り潰す、というのもこの色が見えるようになってからできるようになったことだ。


 例えば「ありがとう」と言った人は、その時、その人の周りが暖かみのあるオレンジに光って見える。「さよなら」と言った時に、悲しそうな人は暗い青色、群青のようで、笑っている人は明るい青色、ターコイズ。たぶん、青系は寂しい感情なのだと思う。恐らく、その気持ちの重さが明暗として出ているものなのではないかと認識している。重ければ暗く、軽ければ明るい。


 気持ちの重さ、という言葉から、ふと、小学生の頃に流行った心理テストを思い出した。


「赤、白、ピンク、黄色、黒色の五色の中から、好きな色を選んでね!」


 可愛いイラスト付きの、子供向けの心理テスト本は、小学生女子の心を掴んで離さなかった。


「赤を選んだあなたは情熱的な恋をします。

白を選んだあなたは純粋な恋をします。

ピンクを選んだあなたは愛される恋をします。

黄色を選んだあなたは楽しい恋をします。

黒色を選んだあなたは重い恋をします」


 恋すらよくわかっていない少女たちは、私は情熱的な恋をするだの、あの子は純粋な恋をするだの、きゃあきゃあ騒ぎたてた。


 それにしたって、黒色の「重い恋」って子供向けの本に似つかわしくない言葉だったなあ。だって、当時私を含め、重い恋の意味を理解できた子はいなかった。いや、大人になった今でも、正直わかったとは言えない気がする。


 私は彼に対して、重い恋をしているとは思えないのだ。塗り潰した本音が蓄積した、真っ黒な恋ではあるのだが。

 それでも、これから先も何だかんだで彼と一緒にいるだろうと思っていた。思っていたのに。


「ごめん、桜、別れて欲しい」


 一週間ぶりに会った彼から、開口一番別れを告げられたのだ。


「……なんで」

「隠すのは不誠実だと思うから、正直に言うと、俺、まだ結婚とか考えてないんだ」


 先週あげたネイビーのネクタイは、そろそろ付き合って長いし、私も三十代半ばで良い年になってきたので、お互いの両親に挨拶を、という話の中で


「でも俺、ちゃんとした服とか持ってないんだよね、ネクタイとかさ」


と言ったから、プレゼントしたのだ。

 確かに、ネクタイをあげた時に「ありがとう」と言った彼は、オレンジでなく深緑色に光っていた。緑は困った時の色だった。でも、それは適当な嘘を吐いてバレるかもしれないことに困っているのだと思った。いや、思い込もうとした。


 薄々、彼が結婚に乗り気でないことはわかっていた。でも、見て見ぬふりをしたのだ。


「……わかってたよ。結婚したくないんだろうなあって。まだまだ遊びたいんだよね、会社の若い子とかと」


 自分の声とは思えないほど低く、真っ黒な言葉を吐いた。ああ、怒りで本音を上手く塗り潰せなかったのか。違うな、癖で塗り潰そうとして辞めたんだ。


「ええ? ちょっと待ってよ、俺別に浮気とかはしてないって!」


 語気を強めたのは、少しの怒りから。だって周りが赤い。


「浮気じゃなくて遊びって言ったでしょ。相手は何とも思ってない、あんたの片想いみたいだから。ああ、遊びですらないかそれじゃあ」


 どんどんと黒い言葉が吐き出されて、少しずつ蓄積した本音の黒い塊が小さくなっていくみたい。


 彼は、図星をさされたのかますます赤く、そして暗くなっていった。赤黒い臙脂色だ。


「ああ、そうだよ、悪いかよ! こちとら、まだ結婚なんて考えてないのにどんどん追い詰められていくみたいで桜のこと、嫌になったんだよ!」


 重いんだよ、お前。


 その言葉を聞いた瞬間、思わず笑ってしまった。


「なんだよ、何がおかしいんだよ!」

「いや、私、重かったんだと思って」


 自覚していなかっただけで、ちゃんとこの人に重たく思われるほど恋していて、不義理をされたら怒るくらいには愛していた。重い恋を、していたのだ。


「私の好きな色、ピンクじゃないよ、一番好きなのは、実は黒だったみたい」

「はあ? 意味わかんねぇ、何の話だよ」


 気味悪がっている彼を余所に、私はすっきりしていた。溜まった黒は、全て吐き出せたから。


 彼への怒りと別れの悲しみと、吐き出した爽快感と、真っ黒な恋を終わらせられた少しの喜びと。入り交じった私は今、一体何色に光っているのだろうか。

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