最終話 禁煙元年度

 4月1日の朝、2階の階段付近にあった喫煙室は真っ白な壁と化していた。簡易的な扉は設置したままで、空間自体は残っているのだろう。今後は扉もない壁になるらしいが、禁煙2日目の澤田はどうしても喫煙室の姿を思い出し、井達と楽しく話をしていた僅かな時間を回顧する。しかし、後に戻ることはできない。妻に宣言した禁煙を続けるべく、家にあった煙草は全て処分した。煙草に貢いでいた費用が浮くと、昼休みに注文する職場用の弁当もワンランク上の特・幕の内弁当にできる。それでも、自然に溜まるストレスは発散しきず、澤田は食い終わった後に大きく伸びをしながら、溜息を吐いて天井を見上げた。


「いだっちゃん、元気かな」


 空いた弁当箱を入口付近に置かれた大きなトレイに戻し、頭を掻きながらトイレに向かう。頭の中にある煙を払い飛ばし、トイレを出たら自分のデスクに戻ればいい、と暗示(呟き)を何度も繰り返した。しかし、体は勝手に何もない簡易的な扉に向かっていた。

 喫煙室があった前には、同じように煙草に飢えた井達もいた。体を揺らし、彼女も我慢の最中だろう。


「なくなっちゃったか」


 仕方ない、そう滲ませて彼女の傍に立つ澤田。


「嘘じゃなかったんですね」


 微かな期待を持っていた井達は声を震わせながら、澤田の少し青ざめた顔を横目で見る。


「みたいだな。でも俺は、家族と約束したから、一緒だったな」

「やめるんですか?」

「妻や子どもに、苛立っているばかりの情けない父親はみせられないからな」


 家族との約束は、我慢よりも強い力を持っている。負担ではなく、対抗という気持ちを維持させてくれるものだ。澤田は今、体でそう感じている。僅かな笑みを戻しつつある彼の言葉に、少し俯く井達は、そうですか、と笑みを漏らして階段に向かう。


「いだっちゃん」


 澤田に呼び止められた井達は、何ですか、と足を止めて振り返る。


「コーヒー、奢ろうか」

「じゃ、お言葉に甘えて」


 今日から新しい1年のスタートを切るために、井達へのエールを込めて近くにあった自販機で140円の温かい缶コーヒーを奢った澤田は、自分の分を買わずに、がんばれよ、と言って右手を軽く振った。井達は、相変わらず変な部長、と呟いて澤田と同じく禁煙元年度をスタートさせた。







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