第2話 お寺な火曜日

 午前の休憩時間、トイレで行き交う社員たちに目を向けることもなく、澤田は前に曲がった背筋でポケットに手を入れながら喫煙室に入る。気付いた井達が、彼の眼を見て小さく会釈すると、二人で一緒に溜め息を吐く。そして、いつものように紙煙草を咥え、火を付ける。


「何かあったんですか?」

「え? 別に」

「ネクタイ、乱れてますけど」


 誰かに鷲掴みにされたようなネクタイの乱れ様に、井達は少し引いた様子だ。


「あぁ、これか。ちょっと厄介なことで熱くなっちまったんだよ」


 澤田は吸った煙を吐き出すと、15分前の想定不能な現実から逃れようと天井を見上げる。


「また説教ですか?」

「そんなもん日常茶飯事だ。いだっちゃんは知ってるっけ? 嘉祥寺かしょうじ

「あまり会ったことないですけど、部長の同期ですよね?」

「そうそう」

「嘉祥寺さんが何かやらかしたんですか?」

「いや、むしろあいつは被害者だよ」


 澤田が嘆くと、井達は買い直した新品の加熱式煙草を口から外し、顔を顰めて、は、と声を漏らす。


「ったく、なんで最近の若い奴は会社で我が道を突っ走るんだか」


 若いから、を理由に部下のとった行動を否定したくない澤田だが、得意先からの電話で同期の『嘉祥寺』を寺の名前だと勘違いし、不在であると言って電話を切られると説教せざるを得ない。それに、同じ部署にいる人間を把握していないことが問題である。


「ふっ、何それ」


 前代未聞の間違いに思わず笑いが漏れてしまう井達に澤田は、笑い事じゃない、と指摘するが、その目は和らいでいる。心の中では、本気で笑っていたのだろう。得意先が電話で寺の名前を聞いてくるはずが、ないのだから。


「大変だったんだよ? 得意先に謝るのは俺だし、教育がなっていないって課長から言われるのは俺だし、電話応答するなって言ってんのに」

「え、するなって言ったのにとったんですか?」

「反射神経だけは優れてやがんだよ、シューティングゲーム得意とか言ってたから」


 澤田は指で挟んだ煙草のことを忘れ、両手で素早く受話器を上げる仕草をする。井達も手に持っている加熱式煙草のことを忘れ、手を叩いて大声で笑う。


『熱っ』


 お互い指が煙草の先に触れ、肩に力が入った。

 何事もなかったような空気にしようと、澤田は中央に置かれた灰皿に縮まりきった煙草の火をすり消す。


「勝手に暴れるなってことだよ」


 まだチャイムは鳴っていないが、トイレに行こうと部屋を出る。井達はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いて『あきな』と書かれたアカウントと、通話を開始する。


「もしもし? あんた、お寺に間違われたこと、ある? ・・・・・・やっぱり? あ、ごめん、それが聞きたかっただけ。じゃあね」


 通話を切ると壁に凭れ、自分が同じ状況に立たされると間違えるかも、と不安になった井達であった。 

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