太陽が映した色は、鮮やかだった KAC20247

ミドリ

僕の世界の色は

 僕が生きる世界には、色なんてない。


 毎日がモノクロで楽しみもない。言われたことを淡々とこなすだけ。


 それが、僕の知る世界の全てだった。


 母さんは、所謂教育ママってやつだ。


 大学入試も無事終わり、ほっとして息抜きに兄さんの部屋に残されていた純文学の文庫を読んでいたら、突然部屋に入ってきた鬼の形相の母さんに本を奪われて床に投げ捨てられた。


「あ、それ、兄さんの――」

「何かの当てつけ!? 貴方も私を馬鹿にするのね!」


 突然の奇声に固まってしまった僕は、何も言い返せなかった。読んでいた本の作者は、兄さんのお母さんだ。そこそこ有名な小説家だったけど、もう何年も前に亡くなっている。


 母さんは、兄さんの母さんにも兄さんにも、酷いコンプレックスを持っていた。


 母さんは後妻だ。父さんと最初の奥さんである小説家の間に生まれた兄さんは小さい頃から優秀な人で、今では現役のT大生だ。兄さんのお母さんは身体が弱い人で、兄さんが小さい時に亡くなってしまったけど、聡明で優しい人だったんだそうだ。


 短大卒の母さんのプライドは、大いに刺激されてしまったんだろう。僕に対する躾けという名の教育虐待は、僕が物心ついた頃には当たり前のものになっていた。


 兄さんは、後妻に入った母さんが生んだ半分だけ血の繋がった僕にも最初は優しくしてくれた。だけど母さんは、何をしても完璧で優秀な兄さんに対抗して、もしくは兄さんを通してどうしたって勝てない小説家の彼女の幻影を見て――僕を厳しく躾け続けた。


 お兄ちゃんを見習いなさい。お兄ちゃんみたいな成績がどうして取れないの。お兄ちゃんはできたのに、お兄ちゃんは――。


 兄さんは、そんな母さんを冷めた目で見始めた。次第に、僕に手を伸ばしたら面倒なことになるのが肌で分かってたのか、助け舟を出すこともなくなり。


 そのまま上京していって、もう滅多に帰ってくることもない。見捨てられたのだと、長年兄さんを心の拠り所にしていたぼくは悟った。


 兄さんがいた頃はセピア色だった世界は、今では完全なモノクロだ。何の為に生きているのか、最早僕には分からない。考えることすら億劫だった。


「お腹空いたな……」


 罰として部屋から出るなと言い渡されたので、夕飯も食べていない。仕方なくお腹をぐうぐう言わせながら何時間も勉強していたら、小学校の時から使っている子供用の勉強机の上でいつの間にか寝てしまっていたみたいだ。ガチガチに固まった身体を伸ばして、目の前の参考書をパラパラとめくる。


 大学受験は終わってる。後は結果待ちだけだけど、本は取り上げられて勉強以外何をしたらいいか分からないから勉強をしていた。


 壁掛けの時計を見ると、午前三時。母さんは寝る時に耳栓とアイマスクをして寝るので、一旦寝てしまったら振動する目覚ましが鳴るまで起きない。


 こっそり家を出て、コンビニで何かを買って食べよう。お腹が空き過ぎて、これ以上寝られる気がしない。見咎められたらまたご飯を抜かされるけど、この時間ならきっと大丈夫だ。


 高校にも着ていっている紺色のダッフルコートを羽織ると、コートのポケットに財布と家の鍵だけを突っ込み、静かに部屋を出る。


 そろりと階段を降りて玄関まで辿り着くと、細心の注意を払って玄関のドアを通り鍵をかけた。


 真っ暗な外に出ると、ホッとして肩の力が抜ける。


 僕も兄さんみたいに上京できたら母さんの呪縛から逃げられるかなと思って、東京の国立大学を受験した。でも、滑り止めの私立は家から通える範囲にしろと言われてしまって、逆らえなかった僕は母さんの要望に従っている。


 もし国立に落ちてしまったら、この先も縛られ続けることになる。


「どんな地獄だよ……」


 気分ひとつで僕への対応が変わるから、毎日顔色を窺わないといけない。父さんがいる日は機嫌がいいけど、出張にでも出ると途端に機嫌が悪くなる。前に浮気をしてるんじゃないかって大喧嘩をしているのを聞いてしまってから、僕は父さんが不在の日を把握して部屋に籠もるようになった。


 家にいると、苦しくて息ができない。闇に包まれた外の方が、僕にとっては息がし易かった。


 はあー、と息を吐くと、白い息が街灯の光に浮く。一瞬で消えてしまう息を見て、無性に羨ましくなった。


 いなくなりたい。ここじゃないどこかに消えてしまいたい。


 願ってはいても、がんじがらめになった僕には勇気も根性もない。


 毎日、浅く水を張った洗面台に後頭部から押し付けられているように苦しくて辛い。これがこの先もずっと続くのかと思うと、世界はどんどん暗くなっていった。


 俯きながら、コンビニに向かう。五分ほど歩くと、大通り沿いにあるコンビニに到着した。


 夜中だからか、客の姿はない。唐揚げや肉まんみたいな温かいものがほしかったけど、僕が苦手なスパイシーチキンしか残ってない。


 仕方なく、おにぎりをふたつと温かいお茶を買う。


 家にゴミを出すことは絶対できないので、コンビニの外に出てその場で食べ始めた。おにぎりのご飯が冷たくて、悲しくなる。電子レンジで温めてもらえばよかった。母さんが本を投げた時に口の横を長い爪で引っかかれてしまって、口を開くとそこも微妙に痛くて辛い。


 もう嫌だな……疲れた。そんなことを思いながら、もうひと口齧っていると。


「――幸村?」

「え?」


 突然、暗闇の中から声を掛けられ、ギョッとして顔を上げる。コンビニの眩い光の中に入ってきた二本の足が僕の方に歩いてきて、やがて見知った顔が俺に向けられているのが分かった。


「……平山」


 少し長い髪を真ん中から横に流した髪型の、背が高いけどどちらかというと可愛い系の顔をしているからか中性的に見える平山。中学から一緒の、高校の同級生だ。教室では会話をしたことは一度もない。今では、その程度の顔見知り。


 なのに、平山はにこにこしながら俺の前に立った。――なんで。


「こんな時間になにしてんの?」

「あ、腹、減って」


 僕には友達はいない。中学校時代、当時仲のよかった平山を家に連れて行ったら、母さんが家族構成や成績やらを根掘り葉掘り尋ねた。大分引いている彼を前に母さんが「拓人、友達は選びなさい」って言ってから、友達を作るのはやめたんだ。


 平山は母子家庭だった。お父さんとは死別で、お母さんはバリキャリだそうで、別に貧困家庭でもない至って普通の家だ。平山だって真面目だし頭だっていいのに、父親がいないというだけで母さんの中では相応しくないと判断したんだと思う。


 平山には、「母さんがごめん。もう遊ばない方がいい」って僕から伝えた。それでも学校では何度も話しかけてきてくれたけど、僕が無視をするようになるとやがて諦めてくれた。


 まさか高校が一緒になるとは思ってもいなくて、一緒だと知った時は固まってしまった。違うクラスだった一年と二年は避けるだけで済んでたけど、三年生で同じクラスになってしまった時は滅茶苦茶焦った。


 だけど平山は、一度も僕に話しかけてこなかった。だから僕も、知らない人のように接することにした。それだけの、もう関わりのない関係だった筈だ。


 なのに、どうして話しかけてくるんだよ。


「ふは、なんでカタコトなの幸村」

「や、その、うん」


 ケラケラと笑う平山が、引き攣った笑みを浮かべる僕の口許を見て、目を大きく瞠る。


「……どーしたの、その怪我」

「あ、いや、引っかかれて」

「すっごい抉れてんじゃん。なになに、痴話喧嘩でもしちゃった? 見た目によらずやるじゃん、このこの」


 肘で脇腹を突かれても、どう反応したらいいか分からない。


「ええと、ちが、これは親が」

「……は?」


 僕は半ばパニックになっていて、平山が変な顔をしていることに気付いていなかった。


「僕がその、母さんの気に入らない本を読んでたから、取り上げた時に」

「……いや、待て待て待て。え、なにそれ、あり得ないんだけど。なに読んでたの? エロ本?」

「う、ううん、純文学だったんだけど、作者がちょっと、母さんが気に食わない人で」

「は? それでとりあげてこんな傷つけんの?」


 平山は「うわ」とか「ちょっとこれまじ?」とか呟いているけど、そんなに酷い傷なのかな。部屋に鏡はないし部屋から出るなって言われてたから、自分じゃ分かってなかった。


 平山が、屈んで僕の顔を覗き込む。


「……なあ、なんでこんな時間にコンビニにいたの?」

「え? あの、それで部屋から出るなって言われてて、お腹空いたからこっそり抜けてきて……」

「――はああっ!? 信じらんねえ!」

「ひっ」


 突然の大声にびっくりして、身体を縮こまらせた。


「わ、ごめん幸村。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」


 慌てたように僕の肩に手を置く。人に触れられることなんてもうずっとなかった僕は、平山の大きな手の温かさに驚いた。


「わ」

「あ、触っちゃ駄目だった? まさかどこか怪我してるとか……」

「や、ちが、あの、人肌って温かいんだなってびっくりしただけで」

「……」


 僕が余程おかしなことを言ってしまったのか、平山が黙り込んでしまう。は、恥ずかしい。それに聞かれたからってなにをぺらぺら個人的なことを喋ってるんだろう。もう平山には一切関係ないのに。恥ずかしい。


「――幸村」

「は、はいっ」

「俺さ、受験終わってさっきまでオンラインゲームやっててさ」

「う、うん?」


 一体何の話を始めたんだろう。そしてなんで僕の肩を掴んだままなんだろうか。


「アイス食いたくなってコンビニに来たんだ」

「そ、そうなんだ」

「でも気が変わった」

「う、うん?」


 平山が、僕の肩を押しながら空いている方の手で道端に停められた自転車を指差す。


「あれ、俺のチャリ」

「へ、へえ」


 所謂シティサイクルってやつだろうか。車輪が大きくて、ママチャリよりはスマートな感じの自転車だ。でも前カゴが付いてるからやっぱりママチャリっぽくはある。もう少しおしゃれな自転車に乗ってそうなイメージだったから、ちょっと意外だった。


「海に行こう」

「――はい?」

「チャリで行けば二十分くらいだしさ。一緒に日の出見ようぜ」

「な、なんで?」


 どうしてそんな話になるのかさっぱり分からなくてワタワタしていると。


「昔さ、初日の出一緒に見に行こうって話したじゃん。忘れた?」

「……したっけ?」


 平山は、僕と過ごした時間のことを忘れてなかったんだ。そのことが意外すぎて、思わずまじまじと平山の顔を見てしまった。


 平山は、目を逸らさずに僕を見つめている。


「したよ。そのすぐ後にお前んところの母ちゃんが俺に色々聞いてさ、その後お前が俺と話をしてくれなくなってなくなっちゃったけど」

「……ごめん」

「お前は何も悪くないだろ」


 なんと答えたらいいか分からなくて、僕は黙り込んでしまった。すると平山がぐいぐいと僕の背中を押して、自転車の前まで連れて来る。


 鍵を外して跨ると、僕を振り返った。


「あの時は俺もガキ過ぎてどうしていいか分かんなかったけどさ」

「へ、あの」

「俺、今の幸村と話したい。てゆーか、そんな顔してるお前をこのまま家に帰せないから」

「そんな顔って……?」


 抉れちゃった傷がそんなにみっともないんだろうか。でもそれと海ってどういう関係があるんだろう。潮風って傷口に染みそうなんだけど。


「ほら、いいから乗って乗って!」

「え、でも二人乗りは」

「じゃあ俺が走るからお前が漕いでよ」

「ええ、それはちょっと……」


 自転車の持ち主を走らせるとか、さすがにそれはできない。


 平山がニカッと笑った。


「じゃあ決まり。乗れ!」

「は、はい……っ」


 強引だなあと思いながらも、そういえば中学時代に平山とつるんでいる時はいつもこんなペースだったな、なんて懐かしくなり。


 自転車に跨った僕に、「腰にしがみついておけよー! 飛ばすぞ!」て言うので、素直に従った。


 風を切る自転車。前に出ている手は冷たかったけど、平山の背中にくっつけた頬は温かかった。



 真っ暗な住宅街を抜けて、海岸に並行に走る国道の歩道橋を、自転車を押しながら渡る。


 まだ四時前の海岸は漆黒で、どういう顔をしていいか分からなかった僕の顔も隠してくれるから助かった。


 海岸の手前にある自動販売機の横に、平山が自転車を停める。暗闇の中に浮かび上がる自動販売機に違和感しかなくて離れて見ていると、平山に「ほら、お前も来いよ」と手首を掴まれ引っ張ってこられてしまった。


 ポケットから財布を取り出すと、「何飲む? 相変わらずホットレモン好きなの?」と笑いかけられて、本当はもう何年も飲んでなんかいないのに、「う、うん」と答えてしまった。


「じゃあ俺も同じのにしよ」


 平山がホットレモンのボタンを押す。当然のように僕に投げて寄越して、思わず「えっ!?」と言ってしまった。


「あ、お金っ」

「いーよ」

「でも、」

「じゃあ、日の出までの幸村の拘束代」

「へ……」


 平山はもう一本ホットレモンを買うと、「持ってて」と微笑みながら僕に手渡してくる。


「あつっ」


 停めていた自転車を引きながら、平山が笑った。持っていると熱いので、コートの左右のポケットにひとつずつ突っ込む。


「冷えすぎなんだよ。ガリガリだし、脂肪全然足りてないんじゃね」

「そ、そうかな」

「家ではどんなの食ってんの?」

「え、ええと……」


 家での食事の時間は、嫌いだった。予めひとり分ずつお皿に盛られている料理は美味しいけど、量が少なかった。おかわりがほしいと言った時もあったけど、どこどこの誰の子供は食べすぎて太ってみっともないとか延々言われ続けたら、その内言うことも疲れてしまった。だから出された分を食べたら、片付けてさっさと部屋に閉じこもる。兄さんがいた時はこんなことはなかったから、僕に対する当てつけなのかもしれない。理由も理屈ももう分からないけど。


 僕が辿々しく普段の家の食事を説明すると、平山の声が少し怖くなった。


「……そうか。あのさ、弁当も随分小さいのいつも持ってきてるけど、あれはどういうこと?」

「あれは……」


 高校に持っていくお弁当は、女の子が持つようなサイズのお弁当箱がひとつだけだ。平山が僕の弁当のサイズまで把握してたのは驚きだけど、大食い男子の中で小さな弁当箱ひとつだけを黙々と食べている僕は、もしかしたら変に目立っていたのかもしれない。


「少食だと思ってたんだけど……」

「いや、足りてないかな……はは」


 もう少し増やしてほしいと訴えたら、「前に残して帰ってきたじゃないの」と何年も前のことを言われて、黙るしかなかったんだ。


「お小遣いは毎月もらえてるから、足りない分はそこからって感じかな」

「……」


 平山が黙ってしまった。気不味い沈黙は、中学時代のあの瞬間を思い出すから居心地が悪い。


 幸い、海岸沿いの遊歩道は真っ暗で殆ど何も見えない。闇に溶けていくような感覚の中に浸っている内に、次第に無言でいることに苦痛もなくなってきた。


 小さな音を立てている自転車の車輪の音だけが、平山がそこにいることを教えてくれている。もしかしたらさっきから話している平山は実は僕の想像の産物で、闇に溶けちゃってるんじゃないかって変な想像をしてしまった。


 ――いっそのこと、僕が溶けて消えちゃえば楽なのにな。


 ごく自然にそんなことを思って、足を止める。波が打ち寄せる音と、海から吹いてくる冷たい春の風。誘われるように、遊歩道から逸れて砂浜に足を踏み入れた。


「――幸村!」


 ガチャン! と自転車が倒れる音がしたかと思うと、肘を掴まれて後ろに引っ張られる。


「わっ」

「突然隣からいなくなるなよ! 焦っただろ!」


 殆ど暗い海だけど、僕より背が高い平山を見上げると星空の中に平山の輪郭が見えた。平山は僕の想像じゃなかった、なんて考えてみたら当たり前のことを思う。


「ご、ごめん」

「心臓に悪い」


 平山はそう言うと、僕の肘から手首に手を移動させた。そのままぐいぐいと遊歩道の方に戻り始める。


「あ、あの、離して大丈夫だよ」

「信用できない。ていうか俺がもう嫌」

「ええ……」


 余程驚かせてしまったらしい。


 自転車の元に戻っても、平山は片手で自転車を起こした。何がなんでももう僕を離すつもりはないらしい。


 やがて遊歩道を再び歩き始める。


「……何しようとしてたの」


 ぼそりと尋ねられて、僕は返事に窮した。だって、自分でもよく分からなかったからだ。


「ご、ごめん」

「謝ってほしい訳じゃない。何をしようとしてたのかを聞いてるだけだよ」

「何って言っても……なんとなく、あっちに引っ張られたような気がして」


 答えた途端、平山がハッと息を呑む音が聞こえてくる。


「……っぶねえ。すぐに気付いてよかった」

「ごめ、」

「だから謝るな」

「……ごめん」


 それでもつい謝ってしまうと、平山が小さく笑うのが分かった。


「そういうところは変わってないな、幸村」

「そ、そう?」

「ああ。いっつも相手のことばっかり」

「そんなこと……」

「あ、着いたぞ」


 目的の場所があるとは思ってなかったけど、一応平山には目指していた場所があったらしい。


 遊歩道の行き止まりに、円形状になった空間があった。少し錆た白いペンキのフェンスで囲まれている。中心にはベンチがひとつぽつんと置いてあるだけの、ちょっと物悲しい場所だ。


 正面に薄っすらと見える砂浜からは少し距離があって、ジャンプしても怪我はしないだろうけどちょっと足は痺れるかなっていう高さにある。その奥には、細長い波止場の先端で小さめの灯台が光を回転させているのが見えた。灯台の光が当たる瞬間だけ、暗闇の中に物の形が浮かび上がる。


 ぼんやりと灯台の方を見ていると、平山が僕の手首をクン、と引っ張った。振り返ると、思ったよりも近くから平山の顔が僕を見下ろしている。


「ベンチに座ろ」

「あ、うん。手……」

「離さないから」

「ええ……」


 抵抗するのもなあと思って、大人しくベンチに腰掛けた。平山は僕の隣に同じように座ると、「ホットレモンちょーだい」と手を出してくる。ポケットからひとつ出して「はい」と手渡すと、平山は膝の間にペットボトルを挟んで片手で器用に蓋を開けた。そして手首にあった平山の手は、いつの間にか僕の手をしっかりと握り込んでしまっている。指まで絡められて、逃がすもんかという強い意思を感じた。何だか申し訳ない。


「はい、幸村の分」

「え?」

「ほら、これ受け取ったらもう一本頂戴」

「え、あ、はい」


 反射的に、蓋の開いたホットレモンを受け取った。


 まさか僕のを先に開けてくれるとは思わなかった。何年も交流がなかったけど、こういうところは平山こそ変わってない。親切で優しくて、明るくてさ。おどおどしてうまく立ち回れない僕といて何が楽しいのかいつも不思議でしょうがなかったけど、平山が見せる屈託のない笑顔が大好きだった。見ていると幸せになれた。


 だから、笑顔を曇らせたくなくて突き放した。


 高校の平山は、いつも笑顔だった。だから僕は自分の選択肢が間違ってなかったと思っている。


「ほら、次の貸して」

「あ、ごめ」

「謝るなって。それよりありがとって言って」

「あ、ありがと?」

「うん」


 平山の、中学時代より低くなった小さな笑い声が、心地いい。カチッと音をさせて二本目も開けると、平山は「ほら、かんぱーい」とホットレモンを掲げた。


「……うん」


 ぼん、と小さな音を立ててペットボトル同士で乾杯すると、ふうふう冷ましながらひと口含む。隣では、平山がズズ、と飲んでいる音が聞こえてきた。


「あっまー。懐かしいなこの味」

「うん、そうだね」

「あれ、最近飲んだんじゃなかったの」

「実は久々だった」


 平山と遊んでいる時、僕はこれが好きでよく買って飲んでいた。平山とつるまなくなった後も何度か飲んだけど、ただ甘くて酸っぱいだけに感じてしまって、何が美味しかったのか分からなくて飲まなくなった。丁度兄さんが家を出たばかりの頃で、母さんの僕に対する当たりが強くなってきていた頃でもあったから、原因がどこにあるかは分からないけど。


 でも、今飲んでいるこれはあの時と同じで、甘酸っぱくて甘くて、平山みたいに温かかった。


 懐かしさに、気付いたら微笑んでいた。それと同時に、なぜか涙が滲む。


 二人、無言でホットレモンを飲み進めた。


 しばらくして、平山が横にペットボトルをコトリと置く音がする。


 握られていた手が、更に強く握り締められた。


「……なあ、お前んとこ、親は相変わらずっぽいな」

「うん、まあそうだね」


 心が緩んでいたからだろうか。するりと本音で返せた。


「……俺さ、あの時幸村に拒絶されて、実は結構怒ってた」

「うん。それだけのことをしたと思ってる」

「でもさ、あの時の幸村はそうすることで俺を守ろうとしたんじゃないかって後で母ちゃんに言われてさ、目からウロコだった」

「お母さんとそういうことを話すの? いいね」


 僕は絶対にあり得ない。僕の意見なんて、あの人には最も必要のないもののひとつだ。


「うち二人だからさ、反抗期はそりゃちょっとは反発したけど、母ちゃんがどーんと構えてるタイプだから暖簾に腕押しっていうか。抵抗するのも途中で馬鹿馬鹿しくなってって感じ」

「へえ」

「でもさ……分かった時にはもう幸村は誰とも話さなくなってて」

「……うん」


 平山は僕に何を言おうとしてるんだろう。でも、嫌味を言いたくてここまで連れてきたんじゃないことだけは分かったから、大人しく聞くことにした。こうして誰かと会話することも、物凄く久々な気がする。


「高校も、実はどこを目指してるか、周りから聞いて調べて」

「え?」

「追いかけた。幸村頭いいからさ、必死だったよ」


 あははって笑ってるけど、え、それってどういうこと?


「なんだけど、高校に入っても幸村はひとりでさ、近寄るなオーラが凄くて」

「うん……」

「母ちゃんに、今は見守るだけで、本当にヤバそうな時にすぐに手を差し出せるように注意しとけってアドバイス受けて」

「僕見守られてたの?」

「クラス違うからずっとじゃないけど」


 知らなかった。ていうか、いつも下ばっかり見てたから見えてなかったのかもしれない。


「勉強もついていくの大変だし、幸村は淡々と上位の成績を取ってるし、負けるもんかっていやー頑張った頑張った」

「そうだったんだ……」


 平山は上位ではないけど、真ん中よりは上の成績だった筈だ。元々背伸びして入った高校なら、大奮闘だろう。


「三年になってようやく一緒のクラスになってさ。今度こそ話しかけようとしたけど、幸村の目、どこも見てなくて……なんて声をかけたらいいのか分からなくて」


 どこも見てない。周りからもそんな風に見えていたんだ。そうか、それに平山は気付いてくれていたんだ。家族さえも、僕からは目を逸らし続けていたのに。


 平山が、僕の手をぎゅぎゅっと握り締める。


「……俺さ。どうしよう、いつどうやって声を掛けようって思っている内に大学受験になって、それでやっぱり幸村の進路を先生をさり気なく誘導して聞いてさ」

「は?」

「同じところ受験した」

「嘘」

「本当」


 何やってんの。そんな言葉がぱっと浮かんだ。いや本当、何やってんの。平山の意外すぎる告白に、小さな笑いが漏れる。


「いや本当……なにやってんの、平山ってば、ふふ」

「だ、だって……」


 平山はずっと僕を見守ってくれていたんだ。何だかこそばゆくて、でも嬉しくて、ずっと喉の奥に蓋がされていたような感覚が、スーッと消えていくのが分かった。


 誰にも言えなかったことが、当然のように口から紡がれる。


「……僕の世界ってモノクロなんだ」

「え?」

「色が綺麗だとか、もうよく分かんない。色は見えてるけど、何も感じない。もう疲れたなって、それだけ」


 自分の弱さを曝け出してる筈なのに、なんでこんなに清々しい気分なんだろう。不思議だ。


「母さんにがんじがらめにされて、家族はみんな目を逸らしてさ。友達は自分で作らないって決めたから、大学生になったら、もう――色々やめようかと思い始めてた」

「色々……って」

「我慢して生きることとか? いや……我慢してまで生きることを、かな」

「幸村!」


 平山が、突然僕の肩を抱き寄せた。


「俺を意気地なしって罵っていいから、お願いだからいなくなるなよ!」

「別に平山は……」

「俺!」


 耳元で大声を出す平山。うわ、声でかって思ったけど、僕を抱き締める平山の全身が震えていて、突き放すことができなかった。


「俺……っ、もう一度拒絶されたらって思うと怖くて、幸村の表情がどんどん暗くなってるのが分かってるのに二の足を踏んでた!」

「怖い? ……なんで」


 平山が、バッと顔を上げる。暗闇でも分かるくらい、顔が真っ赤になっているじゃないか。


「こ、高校を追いかけて、大学だって追いかけるんだぞ!? わ、分かれよ!」


 そんなことを言われても、ど、どういうこと?


「ええと……罪悪感?」

「ちがーう! 好きだからだろ!」


 怒鳴られた。


「はい? 好き? 好きってどういう……」


 耳がじんじんする中、なんでここで好きって言葉が出てくるんだろう、と首を傾げていると。


 更に大きな声で、平山が言った。


「好きはあれだ! ラブの好きだ!」

「……は?」

「受験結果が出た日に、本当はお前んちに突撃して告るつもりだった! 東京で一緒に暮らそうって!」

「……告る?」


 ちょっと待って、さっきから平山は何を言ってるんだ。おかしいだろ。だって僕は――。


「あの、僕男だよ?」

「知ってるよ! 見りゃ分かる! でもさ、中学の時にお前に突き放されてから、寝ても覚めてもお前のことしか考えられなくなってんだよ!」

「は……」


 寝ても覚めても僕のこと? 僕もかなり平山のことは考え続けてきたけど、それ以上ってこと?


「俺だってまじかよ!? て悩んだよ! 嘘だろって思って女子と付き合ってみたりもしたけど、でもやっぱりお前のことばっかりでさ、これってもう絶対そうだろ! それ以外ないじゃん!」

「え、ええ……」


 平山は大声の告白を続ける。


「結果の日が待ち遠しくてソワソワしてさ、落ち着かないからゲームやって気を紛らわしてたら、夜中にお前がいるじゃん! しかも死にそうな顔してて、もう声かけるしかないじゃん!」

「な、なんかごめ……」

「死ぬくらいなら、俺にお前を全部くれよ!」

「え」


 わ、え、嘘、平山、本気で言ってる?


 平山の手が、俺の後頭部を支える。え、これってまさか。


「……幸村を俺にください」


 あまりにも真剣な眼差しに、僕は。


「あ、はい……」

「――幸村ああああっ!」


 ブワッと涙を溢れさせた平山の目に、きらりと光が映ったなあと思った瞬間。


「――んっ!?」


 僕のファーストキスが、平山に奪われた。


 唇の柔らかさと、段々と明るくなってはっきりとしてきた平山の輪郭を見て、僕はあることに気付く。


 ――あれ、色がある。


 これまで何を見たってどんよりとしたグレーにしか見えなかった筈なのに、ゆっくりと顔を離して照れくさそうな目をして俺を見ている平山が、輝いて眩しい。


 平山が、頬を赤らめたままはにかむ。


「幸村、顔真っ赤」

「へっ、あ!?」


 どうやら僕は、色鮮やかな平山に見惚れていたみたいだ。あ、あれ、なんで俺の心臓はドキドキしてるんだろう。これじゃまるで、僕が平山に恋してるみたいじゃないか――。


「……可愛い」

「ひ、平――」


 眩い朝日が差す海岸で、全身が太陽みたいに輝いて見える平山に、僕は文字通り目を奪われて恋に落ちたのだった。



 それからは、説明し切れないくらい色んなことがあった。


 そもそも二人揃って国立大学に受かってないと一緒に住めないじゃんと気付き、どきどきしながら結果発表を待った。二人とも合格できたと分かった瞬間、僕たちは大喜びで抱きついて飛び上がった。


 母さんは、僕が平山と一緒に住むことに猛反対した。平山も一緒に説得してくれたんだけど、学生寮を探すから駄目だの一点張り。怒鳴って暴れて、そりゃもう大変な状態になった。家の中も滅茶苦茶で、手がつけられなくなった僕が恐る恐る父さんに助けを求めると、仕事中だというのに飛んで帰ってきてくれた。しかも、兄さんも。


「平山くん、呼んでくれてありがとう」って兄さんが平山に挨拶したことで、実は平山が前から兄さんと繋がっていたことが判明する。


 兄さんは僕を見捨てたんじゃなくて、兄さんがいなければ母さんのコンプレックスも刺激されないかと思って距離を置いていたらしい。それで僕の様子を、時折平山から聞いて情報交換してたんだって。全く気付かなかったよ。


 兄さんは、父さんにも僕がもう限界にきていることを話していた。父さんは父さんで、母さんと話し合いの場を持とうと何度も言っていたらしい。だけど母さんは受け入れなかった。


 母さんは、どう考えたっておかしくなってる。兄さんの説得で、今度なんとか宥めすかして精神科にかからせようとしていた矢先の騒動に、父さんはとうとう感情を爆発させた。


「いい加減にしろ! 子供を壊したいのか!」って。


 これまで怒鳴ったことのなかった父さんの怒りを見て母さんは驚いたのか、途端に大人しくなった。この後、父さんと一緒に精神科にいくそうだ。僕は行かなくていいって言ってくれた。


 父さんと兄さんは、僕に頭を下げた。


「拓人。同じ家族なのに、お前を守ってやれなくて本当に済まなかった」

「父さん……兄さん」


 次に、二人は平山に向き直る。


「平山くん、君のお陰だ。これからも拓人のことを頼みます……!」


 え、ちょっと待って、いつから家族公認になってたの? 僕知らないんだけど。平山もさ、なに「必ず拓人さんを幸せにします」とか言ってんの? は? どういうこと?


 僕が知らない間に、外堀はしっかりと埋められていたらしい。


「――幸村、幸せになろうな」


 平山が、頬を赤らめて僕に微笑みかけている。


「は、はい……」


 ぽぽっと僕の頬も赤く染まるのが分かった。


 あの日平山に映った太陽の光は、僕のモノクロだった世界を色鮮やかな世界に塗り替えてくれた。


 この先、色んなことがあるだろう。だけど僕は、あの世界が生まれ変わった瞬間を思い出して、平山と手を繋ぎながらひとつずつ乗り越えていきたいと思っている。

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