杏野屋の響き~いろはにほへと~

水長テトラ

杏野屋の響き~いろはにほへと~




いろにほへと りぬるを

世誰よたれそ つねならむ

有為うゐ奥山おくやま 今日越けふこえて

あさ夢見ゆめみし ひもせす




 一文字ずつ刻まれたタイルを並べてスズさんが解説する。


「まぁざっとまとめると、花の色香いろかもすぐ散ってしまう儚いこの世に執着していないで、さっさと悟りを開きましょうっていう仏教の教えが込められてるんだな」

「へ~、いろは歌ってこんな深い意味が込められてたんですね」


 俺の名前は古里高陽ふるざとこうよう、このアンティークショップ“杏野屋あんのや”で週四のアルバイトをしている。

 店主の杏野スズさんが持ち帰ってくる品物は風変わりなものばかりで、今日のいろはカルタも黒いふちから何かしら不気味なオーラが出ていそうだった。


「で、これが今日除霊する対象のいろはカルタだ。江戸時代以降に作られたいろはカルタはもっと庶民的で、『犬も歩けば棒に当たる』とかいわゆる身近なことわざがモチーフになっている。で、このカルタの文章は……」



『息も出来ずに首絞まる』

『路頭に迷って野垂れ死に』

『墓に引きずり込まれて死ぬ』



「なんか、毒々しいっすね……」

「元は普通のカルタだったんだが、一回使う度に一個ずつ勝手に言葉が置き換わり四つ目の『肉も骨も溶けてどろどろ』で、使用禁止となって長い間物置の隅で封印されていたんだそうだ」


 早速スズさんがカルタの上に数珠を置き、両手で印を結ぶと部屋中に黒いもやが立ち込めていく。天井のシャンデリアも見えなくなり、代わりに三日月のような鋭い眼光が二つ、俺たちを見下ろした。


「ど、どうするんです? やばそうな奴じゃないですか!?」

「落ち着けコヨ君。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってね、弱い霊が見せかけの瘴気で自分の姿を恐ろしく演出するなんてしょっちゅうある話さ。大丈夫、こいつの目星はもうつけてある。コヨ君! さっきのタイルを七文字ごとに並べてごらん!」


 言われた通りにいろは歌を七文字ごとに区切ると、こんな風になった。



 いろはにほへ

 ちりぬるをわ

 よたれそつね

 らむうゐのお

 やまけふこえ

 あさきゆめみ

 ゑひもせ



とが……。つまり無実の罪で死に追いやられた、いろは歌には作者が無実を訴えるために作ったという異説もあるんだ。こいつが成仏できずにいろはカルタにとりいたのは、無実の罪を被せられた怨念ゆえにだろう。それから──」


 せっかく俺が並べたタイルを、スズさんはまた並び替えていく。



 とりなくこゑす ゆめさませ

 みよあけわたる ひんかしを

 そらいろはえて おきつへに

 ほふねむれゐぬ もやのうち


 鳥啼く聲す 夢覚ませ

 見よ明け渡る 東を

 空色映えて 沖つ辺に

 帆船群れゐぬ 靄の中



『クエーーーッ!!』

 

 部屋中の黒い靄がさーっと薄れていき、さっきまで眼光があった天井近くで小さなカラスがばたばたと暴れていた。


「やっぱり憑いていたのは鳥だったか。これは明治に入ってから新しく作られた歌……通称鳥啼歌とりなきうただ。これが効くということは君の恨みの原因はその鳴き声、かな? もう怖がらなくてもいい、私たちは君を虐めるような意地悪な人間じゃないよ」


『クエェ……』

 

 弱々しくカラスの霊が鳴いて、螺鈿細工らでんざいくのテーブルに着地した。


「おおかた、人間たちが暗殺やら陰謀やらを企んで潜んでいたところ、たまたま通りすがりのこの子が大声で鳴いてしまって作戦が失敗。腹いせと逆恨みで人間たちに捕らえられて、殺害されたのが怨霊になったという訳だろう」

『クエ……』


 同意するように、カラスの霊はしょぼんとうなずく。


「それは……確かにかわいそうかも」

「人間たちの都合なんて動物には関係ないしね。しかし困った、君の無念を晴らすには君の鳴き声が役に立ったという人間の感謝の気持ちが必要になる。けれど私は根っからの夜型で、早朝に叩き起こされては仕事にも差しつかえが出る。そこで……」


 そこでスズさんは口を閉じ、流し目で後方の俺に視線を送った。


「そこで?」



 そこでそれから約一ヶ月、俺の朝の目覚ましはカラスの鳴き声になった。


『カーッ! カカカーカッ、カッカー!』


 このカラスの霊がとにかく職務熱心で、俺が夜更かししまくってゲームをし過ぎるものなら頭を突っついてまで妨害してくる。

 おかげで俺は夜健康に眠ることができ、朝快適に起きられるようになった。

 霊にとり憑かれて逆に健康になるとは、何とも皮肉な話である。



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