色がいっぱいの音楽室

銀色小鳩

色がいっぱいの音楽室


 駄菓子屋の前を通ったとき、今日はランドセルの一番前のポケットにおさいふを隠し持ってきたなぁ、なんて思いながら、思いつきを打ち消した。紗雪ちゃんと夢ちゃんが買えないんじゃ、寄らないほうがいいよね……。

「花柄ばばあがさ」

 沙雪さゆきちゃんと、ゆめちゃんと、わたしの三人。いつものメンバー、いつもの帰り道。

 沙雪ちゃんは今日も口がわるい。でも、おしとやかな子なんてつまんないから、わたしは沙雪ちゃんと帰るこの時間が大好きだ。

「ああ、音楽の」

「美容院にいってきたみたいで」

「ふうん?」

「どんな髪型になったと思う……?」

 音楽の先生は、いつもカラフルなお洋服を着ている。くっきりしたオレンジ色のスーツだったり、大きな花柄のワンピースだったり。周りにいる大人たちのなかで、一番お洋服を楽しんでいる大人なのではないだろうか。少なくとも、あんな色の使い方をする大人は、テレビの中でしか見たことがない。

「どんなの?」

「キノコだよ!」

 隣にいた夢ちゃんが、ヒーヒー笑っている。沙雪ちゃんと夢ちゃんは同じクラスだ。わたしはまだ、ヘアスタイルが変わってからの先生とは会えていない。

「キノコだった! ほんとキノコ!」

「今日もショッキングピンクのシャツ着てて、指揮してふわふわ揺れてた。マジでどうした、クリボーカット!」

 ゲームのキャラが想像できてしまい、学校がゲームの世界になったみたいで、思わず笑う。沙雪ちゃんの言葉選びって、ほんと面白いなぁ……。

「今日からあだなをクリボーに変えよう」

「うける……!」

「愛ちゃんもちゃんと見とくんだよ、クリボー」

「見とくよ~~」

 わたしの次の音楽の時間は明日だった。明日になれば、ああこれが例のキノコか、とわかるのだろう。



 ああ、これが、例の。

 沙雪ちゃんたちが、昨日先生の髪型を囃し立てていたこと、納得した。先生はつやつやとした髪をキノコのようにしていたが、キノコの傘のふくらみがかなり大きい。これは確かにインパクトがある。

 一番後ろの席に座っても、先生の表情はよく見える。いつもまぶたにキラキラしたアイシャドウをのせて、口紅をくっきりとひいているからだ。

 先生は表情も大げさに変えて、大きく手を広げて、時には猫背になったりもしながら、身体全体で指揮をしてみせる。教室では、先生の指揮をみて歌っていられず吹き出しそうになる子がちらほらいた。

 いや、知ってるよ。わたしだって。何万回と再生された動画をネットでみたし。そういう振り切った指揮のほうが本当は絶賛されていたりすること。「伝えたい感情が一発でわかる。これはいい指揮」とコメントがついていたりするのだ。有名な指揮者の人だって、汗を飛び散らせながら指揮したりしてるってこと。

 でも、実はわたしも、先生が指揮の最中にコミカルなステップを踏んだのを見て、二回ほど笑うのを我慢したことがある。


「じゃ、ソプラノのパートと、アルトのパートを、分けてもう一回歌ってみましょう。ピアノで、この音ね」

 先生はピアノの前に座り、メロディーのラインを弾いて見せた。そのまま伴奏をつけて歌うのかと思ったら、

「じゃ、町田まちださん、綺麗な声で歌えているから、お手本で、ソプラノパートを一人で歌ってみてくれる? あとで、立花たちばなさんがアルトだけを歌ってください」

 先生の顔を見て「キノコだな……何の種類のキノコなのか……」とぼんやりしていたわたしは、いきなりアルトのパートを一人で歌わされる羽目になって少し目が覚めた。教室の前のほうにいた町田さんは、「ええっ」と小さな声を上げて、恥ずかしそうにうつむいている。

「みんなの前でひとりだけ歌うの……?」

 泣きそうになっている町田さんの周りで、仲良しの子たちが、だいじょうぶだよ、町田さん上手いから、だいじょうぶだよと励ましている。

 わたしは、人前で歌うことに、たいして抵抗がなかった。わたしはみんなで歌うのも、ひとりで歌うのも好きだ。人前で歌うのも、合唱のコンサートも好きだし、ソロパートを歌っている人を見ると、少し羨ましいとさえ思う。自分ではとても立候補できないけど、無理やりやらせてくれれば、本心としては大喜びなのだ。

 だけど、わたしたち女子のなかでは、こういうときは恥ずかしがるのが当たり前だった。ひとりで気持ちよく歌いすぎて「目立つのが大好きな、自分の歌が上手いと勘違いしている痛い人」に見られるのは、いやなのだ。

 わたしは隣の席の竹松さんの目に映るように、困った顔をして、

「次わたしの番だぁ……まじかぁ……」

 とつぶやいてみせた。

 そして、恥ずかしがっている顔をしながら、歌いたい声量の三分の二ぐらいの声量にとどめて、アルトのパートを歌った。


 昇降口の前で立っていると、夢ちゃんがわたしを見つけて手を振ってくれる。そのあと、アッ、という顔をして、後ろを振り向いた。沙雪ちゃんが出てくるところだった。わたしが二人のほうへ寄っていくと、二人は視線を交わし合った。

「?」

 ちょっと困ったような夢ちゃんの表情に、何か嫌な予感がした。

「かえろ?」

「うん……」

 いつも会話がはずむのに、帰りに話に出た話題は、一つだけだった。

「ねぇ、水曜日さ……あいちゃん、音楽で、アルトひとりで歌ったのってほんと?」

 夢ちゃんがわたしに聞いてくる。

「うん。困っちゃったよ、当てられちゃって。しかたなく……」

「上手だったって、言ってたよ。みんな」

 みんな、とは誰のことだろう?

 くすす、と沙雪ちゃんが笑った。

「愛ちゃん、歌、すきだもんね。携帯で、録音されたりしないように気をつけたほうがいいよ」

 録音……?

 ひやりと、体感温度が下がったように感じた。

 何を言っているのだろう? うちの学校では、スマートフォンやゲーム機は持ってきてはいけないはずだ。録音なんて、誰がするというんだろう。

 でも、持ってきている子がいるのは、知ってる。塾に通っている子たちが数人、持っている。先生に知られたら怒られるし、普段は教室の中では出さないで、ランドセルにしまっているはずだけど。

 わたしだって、持ってきてはいけないはずのおさいふをランドセルに隠し持っているし、小学校五年生ともなればみんな筆箱のかわりに大きなポーチを持ってきていたりする。布製の音楽バックに入れて、音楽室まで隠して持ってこれないこともないだろう。もしわたしが、自分の歌うパートがよくわからなくて困っていたら、誰かがソロで歌っているのを録音しておいて後から聴こうと思うかもしれない。

「はりきりすぎちゃうと、クリボージュニアになっちゃうからさ……」

 沙雪ちゃんの言葉を聞いて、夢ちゃんの困ったような八の字の眉毛がぴくぴくと震えた。笑うのを我慢しているときの眉毛の動きだった。

 この日を最後に、昇降口で二人がわたしに話しかけてくることはなくなり、なんとなくこちらも話しかけづらくなって、三人で帰ることはなくなってしまった。

 前を二人が歩いているのを見ることはある。そういうとき、わたしは二人がいることに気付かなかったふりをして、早く先にいってくれないかなぁ、と思いながら、わざと歩くのを遅くする。仲間に入れなくて後ろをついてきている、みたいになっているのが、本当に嫌だ。

「クリボージュニア」という単語が聞こえてきたその後、ちらっと沙雪ちゃんと夢ちゃんがわたしのほうを振り返る。クスクス笑われている……、わたしはそのまま気付かなかったふりをして、駄菓子屋に入ってしまう。


 下校時間になると、わたしは帰り支度に時間をかけるようになった。といっても、たいして整理整頓するものもない。給食袋のヒモをランドセルにひっかけて筆箱と宿題とノート類を入れるだけの作業だ。時間をかけるといってもたかが知れていた。

 やだな、二人と下校時間がかぶるの……。

 同じ方向に帰る子が他にまったくいないわけではないけれど、あまり話したことのない子ばかりだ。もうグループが出来ていて、いきなり一緒に帰ろうとは言い出せない。

 そもそも、録音の話を聞いてから、教室のなかでも他の子とあまり話せなくなってしまった。誰かが録音しているかもしれない、影で笑われるかもしれないと思うと落ち着かない。一度グループから外れてしまうと、今度はたまに話しかけただけで「え、なに?」という顔をされるようになったので、挨拶すらしにくくなってしまった。今は話しかけようとしても、すぐには喉から声が出ない。


 下駄箱に向かう途中、ふとピアノの音が聞こえているのに気が付いた。つい、ふらふらと音楽室に寄る。ドアを少しだけ開くと、思ったよりも大きな音がしてしまった。

「はい、いらっしゃい」

 ドアを急いで閉めてしまう直前に、キノコ先生の声が聞こえた。閉めてから、迷う。

 いらっしゃいって言われてしまった。顔見られたかな。このまま帰るのと、顔を見せるのと、どっちがいいんだろう。

 すぐに立ち去れないでいると、目の前のドアが開いて、キノコ頭がぴょっこり現れた。

「立花さん、いらっしゃい」


 キノコ先生はピアノの横にわたし用の椅子をセットすると、

「歌ってく?」

 と聞いてきた。

「い、いえ、ええと、いいです」

「じゃ、ピアノ触る? 聴いていく?」

 本当は、歌ったらちょっと気持ちがいいかもしれない……。でも、ピアノの音が外に聴こえるということは、わたしが歌ったらその声も、下校中のみんなに聴こえるんだろうか? わたしの歌を録音したやつらとか。沙雪ちゃんと夢ちゃんとか。「本当にクリボージュニアになった」としばらく悪口を言われそうだ。

「音楽クラブのない日なら、私がいたらいつでも寄っていいからね。いないときは鍵かかってるけど。職員室に顔だしてくれればいいからね」

 にこっと笑う先生の唇は今日は青みの強い口紅が使われていて、よく見るとスカートが綺麗な紫色だ。

 先生というのは、どうやら、授業が終わってもしばらく学校に残っているらしい。ほとんどの先生が職員室でやる「明日の準備」を、キノコ先生は音楽室でやるのだという。

「たまに授業に関係ないもの弾いたりもしてるけどね? これとか」

 そういって、キノコ先生が弾き始めたのは、まさにクリボーの出てくるゲームの曲だった。

 クリボーが、マリオの曲弾いてる……!

 少し笑ってしまい、笑った時、沙雪ちゃんと夢ちゃんの振り向きざまの嫌な笑い顔を思い出した。

「音楽はいいよね」

 そう言って、弾き終えた先生がわたしのほうを見たから、わたしはつい顔を隠した。でも、隠すのにうつむいたせいで、かろうじてひっかかっていた涙が落ちてしまった。先生はちょっと戸惑ったようだった。

「マリオで泣かれたのは初めてね……」

「すみません。わたし」

 わたし――、なんていえばいいんだろう? 先生のこと、クリボーだって笑ってごめんなさい?

 本当は、歌うの、好きだけど。本当は、先生の服の色、好きだけど。先生みたいにはたぶんできないし、先生に説明もできない。町田さんみたいにも、できない。

「わたし、なんだか、うまく、いろいろ、できなくて……」

 友達と思ってた沙雪ちゃんたちとも、うまくいかないし。本当はいま、下校中も、音楽の時間も、教室の中にいても、周りの目が気になってしまって、気持ちよく過ごせない。じぶんがどうやって自然に手足を動かしていたのか思い出せないぐらい、わたしは固まって縮こまった自分の指先を見つめている時間が増えている。学校のなかで普通にただそこにいる、というだけのことが、うまくできない。

 ちょっとだけ本音を吐いたつもりが、わたしの喉からは嗚咽があふれだしていた。

 え、ちょっと嫌だよ、こんなに本格的に泣くなんて。先生が困っちゃうよ。

「もう、やだぁ……」

 先生はしばらく黙っていたが、立ち上がって棚からティッシュを持ってくるとわたしに差し出した。

「ゆっくりでもいいよ。話したかったら、いつでも聞くよ。でも、無理に話さなくても、いいよ。聴いてるだけでも、いいよ」

 先生は言って、またピアノの前に座り、今度は違う曲を弾き始めた。今度はわたしも知っている「エリーゼのために」だった。泣いているからそう感じるのか、先生の弾く「エリーゼのために」は、美しいだけの雰囲気ではなかった。情念の深さを感じるような弾き方で、わたしはこんなに暗く重い「エリーゼのために」を初めて聴いた。

 一曲、二曲、と曲が流れていって、そのたびに音楽室は暗く重い色になったり、明るく跳ねるような色になったり、優しく撫でるような色になったりした。先生の服の色が毎日切り替わるみたいに、音色も変わっていって、わたしの心の色も引っぱられていく。

 わたしはようやく泣き止んだが、少しでも言葉にしたらまた泣き声になってしまいそうで、先生に泣いた理由を説明できる状態にはなれなかった。

「やっぱり、なんか、うまく、言えない、です」

「言葉にできない時ってあるのよね」

 先生はまるで自分のことのようにしみじみと言い、わたしの背中をさすった。

「音楽は、みんなとも楽しめるし、ひとりでも楽しめるし。言葉がいやになった時にもいいしね。豊かな感情の起伏を持ってる立花さんみたいな人は、音楽やると、いいかもね」

 立花さんみたいな人は、音楽やると、いいかもね。言葉にできない時ってあるのよね。

 まるで、自分のことのように。

 先生も? 先生もそうなの? こんなふうに恥ずかしく泣いてしまったりすることもあるの? みんなの前で色のはっきりしたお洋服も堂々と着て、好きなようにやっているように見える先生も。

 「エリーゼのために」の情念の絡んだ深い低音、弾むゲーム音楽、優しいメロディーの中に溶ける、小さな水音のような澄んだ高音。

 言葉にできないものを表現しようとして、この先生はたくさんの色と音のなかにいるのか。

「音楽室にきてくれて、先生は、とっても嬉しいです」

 くっきりと分かりやすい表情で、先生はわたしを見つめて、花が咲いたように笑った。くしゃあと満足気なその顔は、わたしに伝えるための笑顔だった。もし先生が「嬉しい」と言葉にしなかったとしても、わたしはその笑顔を見たら、一瞬でわかっただろう。「音楽室にきてくれて先生はとっても嬉しいです」、これをわたしに伝えるために見せた笑顔だと。

 沙雪ちゃんや夢ちゃんには言う事のないだろうことを、心の中だけで呟く。

 わたしは、先生みたいな人が、大人のなかにいるのが、とても嬉しいです。

 先生には言おうか迷う。なんだか、そんなことを言ったら学校の先生にすり寄るみたいで、恥ずかしい。言いたくない。かわりに別のことを聞いた。

「また、きてもいいですか?」


 ――いつでもおいで。


 色がいっぱいの音楽室は、いまも心の拠り所だ。わたしが卒業して、もう学校に行く事がなくなっても、先生と会うことがなくなっても、いつでもわたしと繋がり、開かれている。わたしがピアノを弾くたびに、そこが音楽室になる。

 地味な服を着ていても、泣きはらして腫れた目をしていても、いつでもその音楽室は受け入れてくれる。わたしがピアノを弾くたびに、音楽室には色とりどりの花が咲く。

 

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