ウミネコ亭に注文は通らない

あめはしつつじ

美味しいものは死亡等でできている。

 一人。

 カウンターに座り、店内を見回す。

 どうやら、客は、私一人。

「とりあえず」

 ビール、とは言わない。

 千鳥格子の着物の女将は、こくり、と頷く。

「お通りの、ビールです」

 小鳥のように透き通る声。

 コトリ、とカウンターに小さなグラスが置かれる。

 この店に、注文は通らない。

 お通り、という一人のコース料理のみ。

 とりあえず、一口、ビールを飲む。

 喉を通り、そして、一息、息を吐く。

 この時、口から吐いては、いけない。

 ビールの香りを、鼻に通らせる。

 初夏、瑞々しいマスカットを思わせる香り。

 飛鳥、というホワイトビールらしい。

 あまりの芳香に、うっとり。放心し、気づいたら、明日か。

 食通で名の通った、あめはしつつじ、という小説家が、このウミネコ亭に通った時のことを、そう書いていた。

 おっと、いけない。通ぶらない。

 他人の言葉ではなく、自分が感じたまま、その通りの味を感じたい。

「お通りの、トリ和え酢です」

 小皿がコトリと一皿。

 一口。

 トリニティ!

 この、酸味、一体?

 ただの三杯酢ではない。

 この芳香。

 バルサーミコ!

 心の中で、咆哮する。

 おお、ブオーノ。ヴィンチェーロー!

 身体がのけ反る。反り返る。

 トリノオリンピック金メダルは、トリ和え酢。

 いや、まだだ。

 私はまだ、食前酒、そして前菜を食したに過ぎない。

 お通りの入口も序の口。興奮してはならぬ。 とりあえず、落ち着こう。

 トリ和え酢をあらかた静かに食べ終えた。

 ビールも飲み干すと、女将がグラスと小皿を下げ、お返しに、カウンターに、お猪口と徳利。

「お通りの、取り合えずです」

 究極の酒。そこには、欠点があった。

 マリアージュ。

 酒と料理が、手と手と、取り合い。

 取り合わせ、というものがある。

 鴛と鴦で、鴛鴦。

 翡と翠で、翡翠。

 鳳と凰で、鳳凰。

 だが、この酒は、うますぎる。

 合う料理など存在しない。

 故に、取り合えず。

 究極の酒に合うのは、至高の料理のみ。

 まさか。

 かの諸葛孔明が、三顧の礼を以てしても、ついぞ食すこと叶わなかった、と伝えられる、至高の料理。

 トリ会えず。

 それを、それを食せると言うのか!

 驚きの目で、女将を見つめる。

 目が合う。

 女将は、しっとりと、私を見つめ返した。


 みやーみやー。




 ウミネコ亭の看板は、古くなっているのか、上の方に書かれている文字は、少し、かすれ、いくらか、線が消えている。

  トリょうり占

 とりあえずは、そう読める。

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ウミネコ亭に注文は通らない あめはしつつじ @amehashi_224

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