第4話

 アパートの一室。

 窓を開けて、希里は煙草の煙を外に吐き出している。彼女の手元から舞い上がる紫煙がまるで狼煙のように夜空に溶けていった。

 私は煙草を吸っている希里を地べたに座りながらぼんやりと見た。リビングの真っ白なLEDを背中に受けている希里の姿は今にも消えていきそうな儚さを保っていた。

 希里が手に持っていた灰皿に煙草を押し付けて、窓を閉める。煙草のスモーキーな鼻につく匂いが空気に乗ってやってきて、鼻にこびりつく。

「希里、臭い」

「マーキングだって。マーキング」

 マーキング。その言葉を強調するように繰り返した希里はどこか楽しそうだった。独占欲が溢れた結果だろうか。

「そんなのしなくていいじゃん」

 私がそう言うと、希里はむくれてソファーに寝転がった。むー、と唸るような声が聞こえたかと思うと「それもそうだけど、やっぱマーキングしたほうが特別感っていうか優越感があるじゃん? 私のものって周囲に言いふらす感じ。お前らには触らせねえよっていうさ、意思表示」という、彼女の持論が展開された。

「そういうもん?」

「そうそう」

 納得したように頷く希里を見て、私は自分の利き手の右手首を服の上からすっとなぞる。熟れた感情がぞわりと湧き出てきたのがわかった。それを私はまだ知らない振りを続ける。きっと、彼女が気付くまで何度でも。

「あ、明日バイトだ」

 ふと思い出して私がぽつりと呟くと、希里は予想外のことが起こったかのような顔をして、手で顔を覆った。

「そうだった……明日居ないから描けないじゃん」

 私は頭の中でシフトを思い出す。確か、朝から昼までだった気がする。多分、その時間は希里が大学で暇になるから入れたはず。

「希里、明日って何限まで入れてたっけ?」

「えーっと、三限までだと思う。で、夜からバイト」

「じゃあ、少し出来るじゃん。私、昼までだし」

「でも精神的にきついわ」

 でろんとソファーから腕を垂れ流し、希里は嘆く。前に「芸術家は繊細なの」と、冗談交じりに言っていたことを思い出した。どうやらその言葉は真実を含んでいたらしい。彼女の言葉の真意は図りかねるけど。

「んじゃ、アイスでも買ってきてあげる」

「この時期に?」

「この時期に半袖を着せる人間には言われたくないですね」

 私がそう反対すると、希里は苦笑いを受かべて「あれは仕方ないよね」と、言い訳にも満たない言葉を並べ立てる。彼女の絵を完成させるために、何度か冬の時期なのに半袖のワンピースを着て、長時間同じポーズをさせられたことがあったのだ。それに比べたら寒い時期のアイスなんてかわいいものだろう。

 ため息をついて、立ち上がる。地べたに座っていたからか、おしりが痛い。板が一枚入っているかのような感覚だった。

 二人でルームシェアをして、かれこれ二年が経った。その間になにか大きな変化があるわけもなく、私たちは私たちの関係値、すなわち私が彼女の芸術作品であること、という部分は変わるわけがなく確かな信頼値とか、大切なものを築きあげはじめていた。

 次の日、バイトを終えて、シャンプーが無くなる寸前だったことを思い出した。前まで使っていた柑橘系のシャンプーはいつの間にかフローラル系の圧に負けて棚から姿を消していた。シャンプーなどの自分の事に関して対してこだわりのない希里が、珍しく好みだと発言していたものだったから何度もリピートしていたからすこしだけ残念だった。

 私は適当にフローラル系のシャンプーを手に取って、かごに入れる。ついでに絆創膏を三箱くらい入れておく。

 何の気なしに、化粧水や保湿液を見ていると、見覚えのあるものを見つけた。とは言っても、一般的に普及している、ただの美容液なのだけど、私にとってはほんの少しだけ嫌な気持ちを思い起こさせる。全部、空想なのだけど。

 嫌な気持ちになって、私は早足に家に戻る。多分、この時間だともう希里も帰ってきているはずだった。

 時折、親が使っていたものとかを見ると、不意に親の顔が頭をかすめる。それ自体は特段、珍しい物ではないとは思うのだけれど、私の場合、親が怒っているように思えて仕方が無い。目をつぶれば親が夜叉のような表情で私を見つめていて、包丁を振りかざしてくるような、そんな感じ。

 実際の親はそんな人じゃない。とてもいい人。今も、いい人だと思う。連絡さえ取っていないけど。

 今の私を見られると、私は親に殺されるのではないかと、不安になる。

 私と希里は端から見たら理解できないものに近いと思う。世界を見ても、私と希里の関係と同じような関係を築いている人は居ない気がする。それほど、希有な存在なのだ。希有とか、珍しいとか、そういう言葉だけを切りとれば、特別と思えるだろうけど、実際は歪んでいると言っても差し支えない。特別とか珍しいとかそんな綺麗な言葉では形容出来ないものだと、私は思っている。

 けれど私は不安になるのだ。

 私は、綺麗なのか。

 外見的な美しさなんてどうでもいい。ただ、私は、彼女から、綺麗と思われているのかが心配なのだ。周囲からどう思われているかなんてどうでもいい。歪んでいようとかまわない。ただ持ち主から、綺麗と思われているのかが心配なのだ。彼女はしっかりと私を見てくれた気がした、少なくとも、あのとき、あのキャンバスの上に描かれていた私の姿は美しかった。彼女の見ていた私は美しかったのだ。綺麗だったのだ。

 アパートの階段を上がって、さながら駆込み訴えをするかのように部屋に入る。

「おかえり」

 希里はソファーでうつ伏せになりながら言った。視線が私を捉えると、その顔にいびつな笑みを浮かべ始める。耽美的、と言えばいいのだろうか。どこか、不思議な表情だった。

 私は彼女の髪の毛を軽く梳いて、そっと耳打ちした。

「ねえ――」

 私の言葉を聞いて、希里はその笑みをより深めて彼女は文房具が乱雑に入れられているカップの中からカッターナイフを取り出した。それをカチカチと音を立たせながら刃を出して夕焼け色に煌めかせる。

 希里はそばに置いてあったアルコールウエットティッシュでカッターナイフの刃を丁寧に拭いていく。何度か拭いた後、私の左手首も消毒する。手首にする必要は無いかもしれないけれど、一つのルーティン的な行動になっていた。

「今日も手首しかだめ?」

 希里が甘えるように、私に聞いてきた。私が軽く頷くと、希里は残念そうに肩を落とした。

「また明日ね」

「じゃあ、明日は腕と……」

「一日一カ所。決めたでしょ?」

 私は苦笑して希里を見る。希里は私の手首に視線を集中している。どこに線を引くか、悩んでいるのだろう。

 私の左手首には幾本もの線が走っている。浮き出るように赤かったり、茶色かったり、もう白くモヤがかかったようにあとが残っている部分もある。昔の物だと、かれこれ四年ほど前からある傷も残っているだろう。

「行くよ」

 彼女はそう言って、筆で線を描くように、私の皮膚の上に赤い線を生み出す。じわりと湧き出てきたそれは、ゆっくりと皮膚を伝って地面へ落ちていった。

 私は彼女の芸術作品。

 これが彼女が私に行う口づけ。

 私は声をかける。しかし、希里はずっと私の傷口を見ている。私の声なんて届いていない。

「希里――」

 彼女は創る側で、私は創られる側。だから、きっと、この感情は親に向ける感情とよく似ている物だと思う。

 だから、この感情は間違っていない。けれど、希里は私をそのような対象で見ていないだろう。彼女の中で私は人間の形をしたキャンバス。

「綺麗」

 希里のつぶやきがしっとりと部屋の中に広がっていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い花に朱を添えて。 宵町いつか @itsuka6012

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画