けだものタクシー

外清内ダク

けだものタクシー



「先週ちょっと自殺しかけて」

 と震え声で打ち明けたのは失敗で、相手の顔色が一変するのが電話越しにもハッキリ見えた。『少々お待ちください』の定型句の後、少々と言うには長すぎるエルガー『愛の挨拶』を聞きながら、俺は青息吐息でタクシーのハンドルにしがみついてた。思うに「死にたい」と「怖い」はいつも体に同居してる。たいていは「怖い」が99%圧勝してるが、時には「死にたい」が2%、3%と押し上げてくることもある。先週末の深夜の駅で線路に向かって俺の背中を押してたものは49%の「死にたい」だった。気が変になってるくせに妙に律儀に知り合い皆に別れの挨拶を送信したのは四角四面な性格のなせるわざか、はたまた救いを求める無意識が生き延びようと足掻いていたのか。ともあれ心配した友人たちが連絡をくれ、あれこれ話しこんでる間に飛び込もうと思ってた終電を逃し、間抜けな気分を腹に抱えて帰るタクシー代3000円。俺はぼんやり夜空を見てた。都会のビルとビルの隙間。明るすぎる街に掻き消され、星ひとつない灰の空。

「病院へ行け」

 俺のような人間にとって病院の予約ほど神経の磨り減るものはない。ましてや新型コロナの悪影響とかでメンタルクリニックやら心療内科やらが軒並み満員の今はなおさらだ。俺はいつのまにかあの夜の、さあ行くぞ、次こそ死ぬぞ、と己を奮い立たせてプラットホームに踏ん張っていたチンケな自分に没入していた。震える手。震える膝。異様な角度にねじれ、万力で締上げられたように痛む腸。じっとスマホを耳に当てていることすら苦痛で仕方なく、「くたばれエルガー。くたばれエルガー」何の罪もない作曲家に向かって俺はひとりで毒づき続ける。

『あの……』

 さっきの女性が再び電話口に戻って来、泣きそうな声で俺に告げた。

『すみません、当院では診れないと』

「というのは……」

『設備が無くて対応できないと。万一の時……』

 面倒な客を追い払おうとしているのは、くたびれきった頭でも充分わかった。彼女の辛そうな声がそれをありありと示している。俺は奥歯を噛み締めすぎてあやうく噛み砕きそうになり、五度か六度の浅い息のあと、やっとの思いで岩の軋むような声を出す。

「つまり、診てもらえませんか」

『はい……』

「もう4件目なんです。ネットで調べて全部電話かけてるけどどこもダメで。あの、僕……」

『あの! 尼崎まで行けば大きい病院もあるので、ひょっとしたら……』

 そっちも電話したんだよ。

 でも腹が立つというより申し訳がない。彼女をこんなに追い詰めている自分が情けなくて、俺は頭を下げた。不思議だな。相手に見えるはずもないのに、なんでお辞儀しちゃうんだろ。一体礼をとっているのか、何もかもが分からなくなった俺に言えたのは「分かりました、ありがとうございました」の典礼文プロトコルのみ。

 タクシーの中は静かになった。この仕事を始めて何年になるだろう。朝一番に駅前タクシー行列の並び順を奪い合い、横柄な客に愛想笑いを切り売りし、帰宅ラッシュと深夜の酔客拾いに血道をあげて、寝るのは合間の数時間。腐りかけた野菜屑みたいに疲れ果てるまで働きぬいて売り上げたったの28000円。歩合40%。月収14万。ここから税と保険と年金を徴収されれば四十男に希望はない。貯蓄? 趣味? 結婚? ハ! 笑いが出てくる。所長の不機嫌顔が目にうかぶ。「低いねえ」ロマンスグレーを針金のように尖らせ、所長は俺の売り上げレシートを覗き見てくる。「使えねえおっさんだな」俺は曖昧に笑う。「ええー!」高山も寄ってくる。「これで生活できるんすか?」彼は若手だ。俺だってお前の歳の頃には徹夜でこの倍は稼いでた。いつか分かるよ。体が言うことを聞かなくなる日。それがもうすぐお前にも来る。俺だって欲しかった。家族。子供。あたりまえのオトナとして歩む道。誰かにとってのかけがえない何者かになり、小さな安らぎに癒されながら生きる慎ましい暮らし。それが慎ましいどころか恐るべき贅沢であったことを、今になって俺は……

 どん。

 誰かがドアを蹴っている。俺は現実に引きずり戻され、涙でぐしゃぐしゃになった顔を後部座席に向けた。スーツ姿の男が外から俺を睨んでる。

「おい! タクシィ! やってんだろっ」

 そのとたん。

「ぅッ……ごぽぁ」

 胃袋の中身がペーストとなって俺の口から溢れ出た。「あぁっ、ああ~!?」俺は吐きながら叫びながら助手席に向けて身を折って、涙と胃液が混ざり合った吐瀉物の滝を手で受け止めた。吐いちゃダメだ。車を汚しちゃいけない。清掃費を取られる。もう何もかもギリギリなんだ。「おきゃくさん……」言いかけて顔を上げても客はとっくに逃げ去っている。胃液の臭いの充満したタクシーは巨獣の臓物の奥底みたいで、俺は狂ったようにえずき、助けを、救いを求めて、ハンドルに全身ですがりつく。クラクションが異様な長さで響き、交差点の信号が俺の目を突き刺すように見つめてくる。

 赤だ。

 赤信号。

 小さな小さなLEDの光点が、俺の方に迫ってくる。何百万もの赤。やつらが来る。俺を囲む。俺に問いかけてくる。

 どこへ行く。

 どこへ行ける。

 お前は行くな。

 止まれ

           止まれ

   止まれ――


 黙れ!!!!!!!!!!!!!


 アクセルを踏む! タイヤが軋む! タクシーが飛ぶ! 俺は吐く! 車が怒涛のように流れ込んでくる交差点という滝つぼに俺は全速力で突っ込んでいく。ぶつかる。弾ける。轟音が車をひしゃがせ俺は頭をドアにぶつけた。だからどうした。クラクションが鳴る。うるさい黙れ!! 俺は走る! バカみたいに口を開けてわめいて叫んでアクセルを踏む。ワゴンRを蹴飛ばしセレナの横っ腹を引き裂きそれでも止まらず俺は走った。行け! 行け! 俺は行ける!! 止まらない!! 笑えてくる。何百回も車にぶつかりおかしな風に左手が曲がっても痛みひとつ感じないまま俺はアクセルを踏み続けた。エンジンがギャリギャリ言ってる。お前もそうか。車よ。獣よ。虎よ。虎よ! あかく燃える。いかなる不死の手不死の目が創造したるか? なれが恐怖のシンメトリ!

 ばん!! と凄い音がして、人間が目の前のフロントガラスに飛び乗ってきた。いやねたんだ。人をいた。初めていた。だからどうした。俺はけだもの。「ターララタラララ」歌いながら走るうちに死体はどっかへ飛んでった。「ターラーラァー。ラーララハラララあーあーあー」なんだったっけなこの曲。女をき、老人をき、勢い余って歩道に乗り上げ男子高校生3人の逃げる背中をまたいて、サイドミラーを見ればまだ息がある。俺はバックして念入りにきちんと頭をいておき、再び前進、歩道を突っ走る。そのころにはもう街は阿鼻叫喚で、人間は遠巻きに見るやら動画を取るやら。それがなんだか笑えてきて、あ、思い出した! 『愛の挨拶』じゃないかエルガー。「たーららふわわわワーワーワァーン」車道に飛び出てアクセルを踏んで踏んで踏みぬいて、スピードメーターが見たことない値を指し示す。なんだろうかこの気分。ふわふわして純粋で、街が飴のように融けて流れる。意外に簡単に壊れるじゃん、街。

 こんな程度のものだったのか、世界。

 そのとき。

「わ!」

 俺は叫んだ。目の前に見えた。子供だ。子供が横断歩道を渡ってる。俺は反射的にハンドルを切った。車は斜めに傾きながら進路を変えて、コンクリ壁に






 気がつけば俺は暗闇にいた。なんだこれ。眼球がどうかしてしまったのか。聞こえるのは風の音と遠い悲鳴。俺はどうなっちゃったんだろ。分からないな。

 でも……聞こえる。子供の声。どこかそう遠くない所で、子供が声を引きつらせてる。

 そっか。死なずに済んだのか……

 奇妙なことだが、なんだか俺、いま初めて人間になれた気がする。さしずめ今日が俺の最初の日。俺の人生はここから始まる。

「大丈夫かい」

 と子供に声をかけたつもりが、俺の口は、「ごぼっ」とぬめる液体を吐き出すだけだった。



THE END.

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