最後の刻 Record6

鈴ノ木 鈴ノ子

最後の刻Record6


 奏と結婚してからも研究や仕事ばかりをしていた。

もちろん同じ病院に務めているから昼食を共にしたり、仕事帰りや休日に食事や買い物へとそれなりに夫婦生活を円満にするようにと過ごしてはいたから問題ないと思っていたのだけれど、どうやら、それは安易な考えだったらしい。


「次の1 週間、休みを取って頂きます」


日曜日、待機で呼ばれることもなく、前日から奏と2 人で夫婦水入らずの時間を自宅でまったりと過ごした。前日夜の程よい気だるさの残る体でリビングに向かうと、室内着にしている可愛らしいお気に入りのワンピースを着た奏が珈琲を入れて差し出してくれる、それを受け取って定位置の席へ座った途端にそう奏がそう口にした。


「唐突だね、どうしたの?」


返答に深いため息をついた奏が隣の席へと腰を下ろして素足を組んだので、どうやら長話になるかもしれないと、叱られる子供の様に背すじを伸ばして居住まいを正した。


「事務長から私が呼び出されたの、いい加減、ご主人さんの有給休暇を5日程度と、10 年ほど伸ばし伸ばしになっている結婚休暇を取得して貰わないと困りますって愚痴られちゃったのよ。ほら、労務委員会で残業時間が厳しくなったのは知っているでしょ、だから有休とか色々な管理も厳しくなるの」


「あ・・・ああ」


 そう言えば通知が医局に張り出されていたのを思い出した。

 医師の働き方改革がスタートして数年が過ぎた。

 病院でも主治医制からチーム主治医制に切り替わり、複数の医師で1人の患者さんを対応するようになっている。他にもICT の導入によってスケジュールも時間管理を求められるようになっており、どうやら別病院での業務時間も管理の対象で医局秘書の前橋さんが毎日の管理入力に忙殺されるため最近増員されたところだった。

 まあ、石巻先生のように真面目な方ならば手も掛からないが、自由奔放な医師や患者さんの書類以外はやる気のない医師の部類になると把握は難しく、病院全体を把握している総務課の労務部署は噛みつきそうなほど殺気立っているらしい。


「じゃぁ、きちんと引き継ぎを済ませるとして、どこに行きたいの?」


 どうやらごねられることも織り込み済みで話を進めようとしていた奏は、この反応に戸惑い気味になった。


「と、特にはないけど… 」


「1 週間もあるし… 、そうだなぁ。海外でも行こうか?」


「海外!?」


 公園の鯉のように口をパクパクさせている奏が面白い。


「冗談、今から探しても大変なことに… 」


ふっと記憶に引っかかるものがあった。


「どうしたの?」


覗き込むようこちらを見てくる奏が可愛らしい。


「なにか意図的に忘れている気がする」


「どんなこと?」


「なんだろう、こう海外と言ってなにかこう… 」


 奏の入れてくれたコーヒーを見つめながら思案を始めると、再び盛大なため息が隣から聞こえた。


「もう、そうなっちゃうと動かないんだもん、まあぁいいわ、とりあえず朝ごはん食べましょ。トーストでいいわよね」


「うん、お願いします」


 立ち上がる音と共にそう声を掛けられたので振り向かずではあるけれど返事をして、ここ数日の記憶を思い起こしてみることとした。いかんせん、海外に関係のあるものをリストアップしてみるがジャーナルぐらいしか思い浮かばない。思い浮かぶものとすればテレビか雑誌だが興味を覚えたことはない。


「なんだったんだろう」


 黒い水をじっと見つめてどれくらいの時間が過ぎたのか、ことんの音と共に朝食の乗った皿が置かれる。こんがりと狐色に焼かれたトースト、ベーコンとウインナー、サラダ、ハッシュポテトなどが並び彩りだ。


「美味しそう!朝から豪勢だね」


「たまにはこんな感じもいいかなって思って」


 先ほどと同じイスに腰掛けた奏が可愛い微笑みを見せてくれる。


「この前、弓子と麻衣奈と私の3人で東京の病院に研修に行ってきたじゃない。泊まったホテルの近くにあった喫茶店でこのメニューを食べたのだけど、凄く美味しかったから作ってみたの」


 奏の特技と言うのかセンスとでも例えるべきなのか、おいしく気に入った料理を料理本を見ながらではあるけれど、絶妙な味加減と火加減で再現できてしまう。温め直しても美味しいく、勤務のすれ違いでの作り置きや宿直のお弁当にどれほど癒されてきたことか。このアメリカンブレックファーストの焼き加減も味も素晴らしく舌鼓を打っていると、その打ちがフルスイングとなって記憶を叩き起こした。


「あ、アレクサンドラ!」


「誰?」


 不意に言葉の寒風が吹いた。

 温かい料理が一瞬で凍てつくほどの体感温度に思わず驚く。最近、今田先生との所用でお高めな外国人クラブに行った。お酒の出るところではない、もちろん、やましいところなどないのだけれど、けれどがけれど、翌日には奏によく分からないクラブに行ったという事情を無視した言葉のみが誰か彼がから漏れて伝わり、やましくないのにやましくなってしまった。もちろん、妻には事情を今田と2人で浅く説明して納得はしてもらったが、そう、これには深い訳があるのだ。いや、深い言い訳があるのだが、拗れると困るのでそこまでの説明はしていなかった。


「ごめんなさい」


「あら、謝ってなんて言ってないわよ?」


 奏がそう言ってソーセージをパリッと齧る。無音となった部屋にその音が響いた。

 

「いや、その…。今田からね…」


「ふぅん、今田先生…」


 再び音が響く。

 短くなっていくソーセージが己がライフゲージのようにも感じられる。奏が食べ終えたとき精神的に生きていないかもしれない。温かいのに冷たくなった朝食をかき込むように食べ終え、逃げる様にソファーへ寝転がるとスマホで今田先生にメッセンジャーアプリで連絡を入れる。


『例の話って早い方がいいの?』

 

 既読はすぐについて返事がくる。


『とりあえず、早めに相談できると…。直近なら水曜日と木曜日が互いに休みなんですけど…』


『水曜日…。先方はなんと言ってるの』


『出かけたり会うなら早めにと言ってます…。今後はこのままだと帰国の可能性もあるみたいで…』


『なるほど…。とりあえず…奏に説明してみます』


『よろしくお願いします、先輩』


 片付けを終えて雑誌をそれとなく読むふりをしている不機嫌な奏にそっと声をかける。


「奏、話があるんだけど…。国内の外国人に会いに行きませんか?」


「国内の外国人…」


 意味のわからないことを言い出した夫に呆れ果てた様な声、戸惑った表情にホッとする。


「横須賀、在日米軍基地の人なんだけどね…」


「横須賀?米軍基地?」


「うん。アレクサンドラと今田の話…。きちんと説明するから…」


「とりあえず聞きます」


 先ほどまで座って朝食を食べていたイスの背をポンポンと叩く奏に従い、証言台へと着席したのだった。


 米海軍にアレクサンドラ・ヒォーリオ少佐という人物がいる。カナダ人の父とアメリカ人の母を持つ米国籍の白人女性である。身長は170センチ、体重…。映画にも出てくるアメリカ海軍兵学校、通称、アナポリスを卒業した女性士官で本国での勤務の後に2年ほど前より横須賀に赴任てきたそうだ。地元のイベントなどにも意欲的に参加しており、基地の子供と地元の子供が遊ぶイベントで今田先生が大学時代の同級生夫婦と一緒に参加した際に知り合い恋に落ちた。

 初めてアレクサンドラさんを紹介された例のクラブで、互いがそう言って顔を綻ばせていたことに、ギャグなのかと勘繰ったが真摯な2人の眼差しは揶揄う気持ちを一瞬で消し去り、そんな体験ができることが羨ましく思えるほどだった。


 さて、忙しい病院勤務の小児科医と、軍組織に勤める外国軍人、当然、すれ違いばかりとなることは誰の目にも明らか、距離もあるので更に会うこともままならず、普通なら自然消滅してしまう関係に聞こえるが2人は違った。


 やはり、見つめ合って恋に落ちる関係は侮れない。


 予定を合わせるだけ擦り合わせて、たとえ数時間だけの逢瀬であっても会い続けて、2人曰く、ワインのような刻を過ごしたと豪語できるほどに愛は深まっていた。


「プロポーズしようと思うんです…」


 真っ赤な顔をして病院のカフェで今田からそう聞かされた時はこちらが照れてしまった。


「先輩、後輩に力貸してください」


「わかった」


 久しぶりに真面目な顔をされて懇願されてしまうと、もはや、とりあえず話して、とは言えなかった。クラブについては外国人がよく利用するラウンジのような場所であり、そこで初めてアレクサンドラさんと会ったのだが、やはり今田先生にピタリとあう素敵な女性であったことは確かだろう。

 

 さて、奏に話をしてから翌週の水曜日、熱海駅に降りたっていた。話がとんとん拍子にあらぬ方向へと紆余曲折を経て、私達夫婦と今田先生、アレクサンドラさんの4人で熱海の旅館に宿泊することとなったのだ。


「早い方がいいのよ、早い方が」


 話を聞いて直ぐに奏は今田先生にそうけしかけて今に至っている。初対面から1時間ほと過ぎた頃にはアレクサンドラさんと奏は英語でも、日本語でもスラスラと話しながら意気投合していて観光を楽しんでいた。

 今田は普段からは想像もできないほどに緊張をしていて体調が悪いのではないかとアレクサンドラさんに心配される始末である。


 男は初めての土壇場に弱い。


 夕方、2人の関係から場違いな金色夜叉の銅像を通り過ぎて、緊張が解けて楽しそうに会話して歩く2人から自然な距離を取り、そっと脇道に逸れて熱海の坂を奏と手を繋ぎながら登ってゆく。


『頑張んなさいよ。あとは旅館の夕食で会いましょう』


 そうメッセージアプリを送り、2人で連れ立って熱海の商店街や来宮神社を参拝しながら確約された成功が更に素晴らしいものになるように祈る。

 旅館への帰路、ふと立ち止まった奏がボソリとつぶやくように言った言葉に、周囲を気にせず抱きしめて素直な気持ちを改めて伝えた。恥ずかしがる奏をはなさないで長いようで短い刻をためらうことなくしっかりと抱きしめる。


「ごめんね。お姉ちゃん」


 これが奏が姉に謝る最後の言葉となり、2人の間にささくれのようにあった小さなわだかまりは解けてなくなるように滑らかに落ちつきをみせたように思う。奏にはそのような思いをさせまいとはしたつもりだが、やはりさせてしまっていたことに心が痛んだ。


「綺麗な箱」


「熱海楠細工って書いてあるね」


 木目美しい熱海工芸品である楠細工の店に立ち寄り、美しい紐付文箱やチリ箱、使うことを躊躇いそうなほど磨かれた飾り棚やティシュケースなどのみてまわりながら、ふと、一角に磨き抜かれた木製の2つの指輪を見つけた。

 結婚指輪を買った際の号数とピッタリと合うそれをみて、思春期の男子のように運命を感じてしまい、そっとレジで会計を済ませて知られないように持ち帰った。

 

 夕食の時に再び合流した時には、光り輝く指輪と女神のような微笑みを浮かべたアレクサンドラさんがいたことはいうまでもない。

 多分、緊張してうまくいかないかもしれないと真剣に心配していた今田には小児病棟の子供達が回し読みしている漫画の、〇〇には三分以内にやらなければならないことがあった。の主人公のように三分以内にと念押しした効果もあったらしく、アレクサンドラさん曰くスマートなプロポーズであったそうだ。


 ちなみに幸せは伝染する。


 婚約をした2人は食後のデートに出かけたので、夫婦で自室に戻るとゆったりとした時間を過ごし、あの楠木の指輪をプレゼントして夜は幸せのうちに溶けていった。


 ちなみに、コウノトリあえず、な夫婦であったが、2ヶ月後には小さな命が奏の中にしっかりと身を結んだのだった。

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最後の刻 Record6 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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