(3)

 漸く少しだけ時間が取れたので、うきうきと厩舎の方へと向かう。少し顔を見るだけになってしまうだろうが、全く会わないよりは良い筈だ。マロンが足りない。

(……人が見当たらない)

 他の馬もいるので、まずは琥珀に挨拶してから中に入ろうと思ったのだが。琥珀はおろか、他の厩務員達の姿も見えなかった。放牧地で作業中とかだろうか。

 仕方ないから出直そうかと思ったタイミングで、牝馬厩舎の方から話し声が聞こえてきた。入れ違いになってしまったのだろう。声が低いので男性だろうか。

(……ん?)

 少しだけ開いていた扉の隙間から中を覗いてみたのだが、中にいたのは厩務員の面々ではなかった。格好は月晶帝国の乗馬服のようだが、頭の位置が……赤い?

(……まさか)

 思い至った人物に驚いて思わず凝視していると、ギギッと扉が音を立てて開いてしまった。音が厩舎中に響き渡り、件の人物は勿論馬房にいる馬達まで小窓から顔を出してこちらを覗いてくる。

 こちらに歩いてきた赤い方、もとい紅玉様の方へ私の方からも近づいていった。勝気な赤い瞳に見下ろされたので、負けじとこちらも視線を返す。

「何だ、お前か」

「どうしてこちらへ?」

「何だって良いだろ」

「もしかして、マロンを見に来られたのですか?」

 先程まで紅玉様が立っていたのは、厩舎の一番奥にある馬房の前……つまり、マロンの馬房の前である。琥珀が大丈夫と判断したならば他の人に見学させても良いと伝えてあるし、そう考えるのが妥当だろう。だから素直に聞いてみたのだが。

「……お前、そんなんじゃいつか足元を掬われるぞ」

「単なる腹の探り合いならもっと慎重にやりますわ。でも、私はマロンの主ですので」

「ああ、俺がこいつに危害を加えてたんじゃないかって、そういう心配か」

「まぁ多少はそれもありましたが……違いそうですね」

「ほう? どうして?」

「だって……マロンったら、さっきからずっと紅玉様に甘えてますもの」

 ちょっと、いや、正直かなり嫉妬してしまう。この仔は初対面の相手にも懐っこい方ではあるが、私を差し置いて紅玉様に鼻を向けているのだ。きっと、可愛がっている妹を横から掻っ攫われた時はこんな気分になるのだろう。

「馬は人間が思っているよりも、ずっと賢い生き物です。自分に危害を加えようとする人間が近づいてきたなら、馬房の隅に逃げるか攻撃的になるかのどちらかでしょう」

「そうだな。流石に、こいつも俺が厩舎に入ってすぐは耳を絞っていた」

「最低限の警戒心は残っていたみたいで良かったです。人参でもあげました?」

「いや? 他の馬の様子を確認している内に、勝手に警戒を解いていた」

「……」

 マロンは賢い仔だ。賢いから、他の馬房の仲間が警戒していないのを見て、この人間は大丈夫だと判断したのだろう。

「皇太子妃さま? 申し訳ありません、もういらっしゃって……え?」

 嫉妬とも喪失感とも言い難い感情に心が支配されかけていると、救いの声が聞こえてきた。牧草を抱えた琥珀は、私と紅玉様を見比べてぱちぱちと瞬きを繰り返している。

「紅玉様、牡馬厩舎の方にいらっしゃった筈では?」

「せっかく西大陸から来たサラブレッドがいるんだぞ。しかも、よく手入れされて大人しい栗毛の牝馬ときた。見ておかないでどうする」

「今日は皇太子妃さまがいらっしゃるから、鉢合わせしないよう後日お越し下さいってお伝えしておいたじゃないですか!」

「短時間、ぱっと見るだけだから大丈夫だと思ったんだよ」

「見事に鉢合わせなさってるじゃないですか!」

「こいつがこんなに懐っこいのが悪い。まさか、初対面なのにこんなに甘えてくるとか思わないじゃないか、可愛い奴め」

「マロン号のせいにしないでくれますか!? 可愛いのには全面的に同意しますが!」

「……二人は知り合いなの?」

 先程のモヤモヤは綺麗に吹き飛び、予想外に打ち解けている二人に驚きながら尋ねてみた。紅玉様の赤い瞳と琥珀の薄黄色の瞳が、揃ってこちらを向く。

「知り合いというか、付き合いがそこそこあると言うか」

「紅玉様の趣味は乗馬ですから、腐れ縁のようなものです」

「そうなのですか!?」

「琥珀!」

 思わぬ事実に喜ぶ私とは対照的に、紅玉様は眉間に皺を寄せながら不機嫌そうな表情になった。暴露した琥珀は、周囲をちらりと伺いつつも涼しい顔をしている。

「それ言うなって言ったよな!?」

「皇太子妃さまに隠し事をする訳には参りませんから」

「お前の主はこいつじゃないだろ!」

「紅玉様でもありませんよね。というか、私はマロン号の担当ですので、間接的には皇太子妃さまが主と言っても過言ではありません」

「裏切り者!」

 顔を真っ赤にした紅玉様が琥珀の両肩を掴んで揺さぶっているが、琥珀は全く動じていない。こうしてみると、琥珀も年相応の少女だなぁと感じられる。

「乗馬をなさるのならば、紅玉様も自馬を持ってらっしゃるのですか?」

「……特定の馬は持っていない」

「いつか持つご予定が?」

「難しいだろうな。父上もお祖父さまも俺が乗馬する事に対して良い顔してないし」

「そうですね。珊瑚妃が取り成して下さっていなかったなら、きっと厩舎に来る事自体を禁じられていたと思います」

「幼い頃から生き物と触れ合うのは情操教育に良いとか、乗馬は体を鍛えられるから健康に育つとか、色々言って説得してくれたな。母上ご自身もかつては馬に乗っていたそうだから余計にというのもあったかもしれないが」

 陛下と楊家当主が会話に出て来て、ふと我に返った。珊瑚様も乗馬をしていたという事実をもっともっと深堀りしたい気持ちはあるのだが、今のこの状況って結構まずいのではないだろうか。

「あの」

「何だいきなり」

「私達、こうやって、お話ししていて大丈夫ですか?」

「は?」

「だって、黒玉様の時は……」

「それなら心配いらん」

 戸惑いを乗せたままたどたどしく言葉を発してしまったが、紅玉様にばさりと切り捨てられた。どういう事だろう。

「黒玉はまだ十歳だからな。おまけに、皇后やあの男にも臆せず近づいていくし、何なら懐いている。だから、お祖父さまはこれ以上黒玉が奴らに懐柔されるのを危惧していらっしゃるんだろう」

 確かに、黒玉様は純粋そうな少年だった。蒼玉様も慣れた手つきで頭を撫でてあげていたし、それを嬉しそうにしていたし。どことなく……過去の私に似ているかもしれない。

「俺はその辺ちゃんと分かってる。あいつらは、言ってみれば政敵だ。わざわざ仲良くする義理なんて無いだろう」

「……では、私も政敵ですか?」

「当たり前だ」

「それは残念ですね。ようやく琥珀以外の馬仲間が出来たと思ったのに」

 今更な気もしたので、思ったままを伝えてみる。やっぱり、先程みたいに迂闊だと言って呆れられてしまうだろうか。

 しかし、予想に反して紅玉様は押し黙った。怒っているような雰囲気ではないが、眉間に皺が寄っている。

「……お前は」

「私は?」

「気味が悪くないのか?」

「何がですか?」

「俺や母上の、赤い髪や目が」

「え?」

「だから、そんな簡単に、仲間だなんて言えるのか?」

 問い掛けられて、まじまじと紅玉様のお顔を見た。少しだけ揺れている瞳は、あの日の珊瑚様を思い起こさせる。

「どうしてそんな事を思いましょう。綺麗な色じゃないですか」

「エスメラルダでは、赤は良い色なのか?」

「……失礼ですが、そんな事はありません。あちらの国の民達は緑系の髪色や瞳の色が主流ですから、赤は目立つ珍しい色です。そして、特産の宝石も高値で取引されるのは緑系のものばかりですし、数十年前までは度重なる近隣国の侵略に悩まされていたので、それに対抗するため団結していた結果なのか……自分達と違う見た目や考え、価値観を認めない或いは排斥しようとする人も少なくありません」

「その辺りは、西だろうが東だろうが変わりないんだな。でも、それならどうしてお前はそんなに赤を疎まないんだ?」

 エスメラルダでも、何百回と聞かれた質問だ。聞かれる度に悲しくなって、悔しくなって……どうしてそんな事で価値を、人を、見極めようとするのかと。どうしてもっと深く相手を見ないのかと、考えないのかと。何度も思って憤って時には泣きながら、私の中のただ一つの答えを語り始めた。

「私、この世で一番尊敬している女性がいるんです。私の異母姉なのですけれど」

「へえ、異母姉」

「公爵家の長女で、母親の身分も侯爵家と高くて、幼少期から王太子の婚約者に内定していました。驕らず卑下せず、教養もあって、美人で、正に公爵家長女の立場に相応しい淑女の鏡だった。それなのに、髪が赤いという理由だけで、周りの貴族達や使用人達や……実の父親にまで、ずっと理不尽な扱いを受けていた」

「……」

「それなのに、お姉さまは私を気に掛けて下さった。本当は、きっと、私なんていなかった方が良かったかもしれないのに……それでも、お姉さまは近づいていく私を適当にあしらったりしなかったし、向き合ってくれたし、私が誘拐された時に、危険を顧みずに愛馬を走らせて助けに来てくれたんです」

 犯人は、身代金目当ての盗賊だったと記憶している。馬車で移動していたら急襲されて連れ去られ、腕も足も縛られて動けなくされた。その状態で更に猿轡もされて盗賊の馬車の荷台に押し込められて……怖くて怖くて堪らなかった。

『マリガーネット!』

 ごとごと進む馬車の音を切り裂くように、鮮烈な声が聞こえて来て。荷物の隙間から必死に目を凝らしたその先に。赤い髪をなびかせながら、颯爽と駆けてきたお姉さまとブランカがいた。朝日を背負ったその姿は、その一人と一頭は、絵本に乗っていたどんな王子様よりも格好良くて、どんなお姫様よりも美しかった。

「だから、私にとって赤は美しい色なんです。素敵で尊い色なんです。他の誰が何と言おうとも、それだけは絶対に譲らない」

 はっきりと言い切って、ぐっと拳を握りしめた。何度も何度も、語る度に誓った。どんなに賛同者がいなくとも、どんなに違うと叫ばれようとも、それだけは違えないように。

「……俺やお前如きじゃ、今の情勢は変えられないだろう。変えられるとすれば、皇后かあの男か、父上か」

「……はい」

「だから、俺とお前が政敵である事も違わない。だけどな」

「はい?」

「仲良くする義理はないが、わざわざ衝突して揉める必要もないだろ。お前が愛馬を見に来た時に、たまたま俺が居て、たまたま馬の話をしたとしても、それは単なる偶然から生まれた会話で仲良くしているという事ではない」

 紅玉様は、そこで言葉を切って扉の方へと歩いて行った。しかし、急にぱたりと立ち止まる。

「それで良いなら、話し相手になってやらない事もない。以上だ」

 そう言って、すたすたと歩き出してしまった。小さくなっていく背中を、ぼんやりと見送りながら我に返る。

「ありがとうございます! その時は、琥珀も一緒に話しましょうね!」

 立ち去る背中に語り掛けた。きっと、彼にも届いたはずだ。

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