【KAC2024⑥】シェイクスピアと少女

一式鍵

とりあえず……

 生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。


 おなじみ、「Hamletハムレット」の有名な一節だね。あれだ、"To be or not to be, that is the question."ってやつ。Shakespearシェイクスピアだよ、いつもどおりにね。


 しかしこの訳は、これだけではちょっと意味が伝わらない。

 このTo be~には続きがあるんだ。


 Whether ’tis nobler in the mind to suffer

 The slings and arrows of outrageous fortune,

 Or to take arms against a sea of troubles

 And, by opposing, end them.


 という部分。日本人でそらんじられる人はそう多くはないだろうね。


 これをざっくり訳すと、


「いずれが高貴であろうか。

 非道な運命が浴びせてくる批判的言辞あるいは矢に耐えることか、

 あるいは、艱難の海に真っ向から立ち向かうことでそれらを終わらせるか」


 といったところだね。


 つまり、「生きるか」「死ぬか」ではなくて、「このひどい状況にあるにも関わらずそのままで生き続けるか」それとも「今のこの状況を打破するべく命を賭して戦うか」ということなんだ。


 ――というような話を「うんうん」と目を輝かせて聞いてくれたのは、君が初めてだった。その場限りの好奇心ではなかったことを僕はよく知っているよ。だって僕が紹介したシェイクスピアの作品を、君は次の週には完全に把握していたからだ。あれには本当に驚いたよ。


 たとえば十二夜、真夏の夜の夢、お気に召すまま、ロミオとジュリエット、リア王、オセロ、ヴェニスの商人、じゃじゃ馬馴らし、マクベス……いまや君が読んでいない作品はただ一つだけだ。それを僕は今日、持ってきた。




 ―*―*―*―




 僕が通うことになったのは、大きな病院の小児病棟だった。


 千早ちはやさくら。中学三年生。


 僕はもともと大学で英文学の講師をしていたんだけど、色々あって今は普通の会社員サラリーマンだった。その会社の社長から、副業をやらないかと紹介されたのだけど、その仕事内容というのが、この子に文学を教えることだった。


 奇妙な依頼だと思ったが、休日にすることもない僕はとりあえず一ヶ月と思って通うことにした。


 桜はだった。発症して一年になるらしい。抗がん剤治療を受けてはいるが、状況はかんばしくないそうだ。


「最近では抗がん剤治療の技術も進んでいて、良くなる子も多いのですが」


 医師はそう言った。そこで知ったのだが、うちの社長は桜の叔父とのことだった。


「桜ちゃんに合う治療はまだ」

「そうなんですか。でも僕には……」

「あの子は本当に物語が好きなんですよ。タブレットで今も読んでますね」

「なるほど」


 物語=紙媒体の本というわけではないのだ。スマホやタブレットがあれば、本を買うのと同じお金を払いさえすれば、好きな物語を読むことができる。いや、僕の好きな(というか専門の)シェイクスピア作品なんて、(翻訳にこだわらなければ)無料で読むことができたりもする。Chat-GPTなんかを使えば概略くらいは一瞬でつかめたりもする。作品解釈のサイトなんて枚挙まいきょいとまがないほどだ。


 僕は医師に促されて、桜のベッドのところにやってきた。桜は青白い顔をしていたが、可愛らしい少女だった。十五歳にしては少し幼い顔立ちだったが、賢そうな子だと僕は感じた――そしてその予想は見事に正解だったわけだ。


「はじめまして、千早桜さん。僕は神実かんざねさとる。君の叔父さんに依頼されて」

「こんにちは、神実さん。叔父さんから聞いています」


 桜はタブレットを僕に向けた。表示されているのは「青空文庫」だった。


「ここ無料だから」

「すごいね、中学生で青空文庫!」

「神実さんは先生なんでしょう?」

「元、ね。今はただの会社員だけど」

「叔父さんから、英文学に詳しいって聞いてます」


 おしゃべりなんだな、あの社長。


「僕の専門はシェイクスピアなんだけど、君は知ってる?」

「名前は。でも、読んだことはないです」

「そうか、それはよかった」


 僕はどうしたら良いのか今必死で考えている。この子に何を喋ればいいのか。



 まえぶれもなく、桜は僕をそう読んだ。


、何がいいですか」

「あ、う、うん。そうだな、……十二夜がいいかな。とっつきやすさでは僕の中では一番だから」

「はい。……でも検索しても英文しか出てこないです」

「シェイクスピアは千六百年ごろの人だけど、翻訳には権利があるからね。さて、これを君にあげるよ」


 僕はカバンの中から買ったばかりの本を取り出した。「十二夜」の翻訳本だ。


 そして桜に乞われるまま、本作の面白いところを語って聞かせた。


 桜は僕が教えてきたどんな大学生よりも、優秀な生徒だった。そして誰よりも物語を楽しむ能力を持っていた。そしてまずは自分で原典にあたって調べようとした。シェイクスピアの英語は現代の英語とは違う、初期近代英語アーリー・モダン・イングリッシュに属する。だから検索しようにも一筋縄では行かないことが多い。案の定、桜も苦戦していた。というか英文学科の学生ですら苦労するのだ。中学生の英語力では普通は太刀打ちできない。


 そして書籍については最後の一ページ――注釈部分に至るまで大事に読んだ。


 僕はそれにいたく感動し、病棟通いを続けることを決意した。


 そして半年が経つ頃にはシェイクスピア作品の半数を読みこなした。一年経つ頃にはほとんど全部を読んでしまった。


「桜ちゃん」

「先生」


 桜は日に日に弱っていっていた。一年かけて、病気は着々と進行していたのだ。


「今日はやめとこうか」


 僕は提案したけど、桜は寝ながら首を振る。


「先生、今日は何の本?」

「君が残している作品はもうたった一つしかないよ」

「All's Well That Ends Well――終わりよければすべてよし」


 桜の流暢な発音にも、僕はもう驚かない。いまや英語で暗唱するくらい簡単なことだったからだ。


 そして桜が告げたタイトルこそ、僕が持ってきた作品だった。


「先生、今日はあんまり時間がないんです」


 桜は苦しそうだった。僕が来る直前まで、人工呼吸器を使っていたらしい。


「来週までには読んでおくから、とりあえず」

「でも、桜ちゃん、寝ていたほうが」

「時間がないんです」


 桜ははっきりした声でそう言った。


「とりあえず、ネタバレしていいから、私が簡単に読めるように。もうあんまり調べられないから」

「……わかった」


 気乗りしない一方で、僕も桜の容態のことくらいは理解していた。


「君の貴重な時間を」

「先生が貴重な時間にしてくれたんです」


 桜はキリッとした、しかし青白い顔でそう言った。僕はぎこちなく頷く。


「じゃぁ、とりあえず、やるか」

「私の病気が治ったら、しっかり、お願いします」


 桜はそう言って微笑んだ。


 十六歳、高校一年生になっているはずだった桜は、受験を諦めた。


 しかし僕の、最高の生徒だった。



 

 ―*―*―*―



 

 あれからもう十年になる。


 一時期はあれほど好きだったシェイクスピアの名前を聞くのもイヤになった。だけど僕はまたシェイクスピアの書籍に埋もれて過ごしている。


 僕の手元には「マクベス」があった。癖のようにパラパラとめくり、親指で止める。そのページで真っ先に目に入ってきたのが――。


 "The night is long that never finds the day."


 「朝が来なければ夜は永遠に続くから」――これは松岡和子先生の名訳だ。


 僕はそれを信じて、毎日朝を迎えるのだ。

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