【04】

その後も沢渡裕(さわたりゆたか)は『萬福軒』に姿を見せなかった。

また蘆田光(あしだひかる)を襲った連中も、再び現れることはなかった。


――少しは懲りたのかな。

光は能天気にそう思ったが、一方で連中の酷薄そうな顔を思い出すと、中々諦めそうもないなという気もする。だから彼女は油断せず、常に警戒モードで過ごしていた。


もし連中が『萬福軒』に乗り込んできたりしたら、人のいい夫婦に迷惑をかけてしまうなとも思うのだが、だからと言って、すぐにバイトを辞めようという気にもならなかった。『萬福軒』は、結構居心地の良いバイト先なのだ。


光は、自分が何故あの男たちに狙われたのか、理由がまったく分からないことが、いつまでも靄々と心に引っかかっていた。正直、あの連中と自分との接点が、まったく思い浮かばないからだ。


――まさか、半年前の<ストリーム>騒動の繋がりじゃないだろうな。

そんなことを考えたりするが、すぐに打ち消す。

――いくら何でもそれはないな。あれには内閣のおっさん(大蝶斉天(おうちょうなりたか)内閣情報分析官のこと)とか、警視庁のおっさん(伊野慧吾(いのけいご)警視庁刑事部参事官のこと)とか絡んでたし。何かあったら、連絡来るだろうしな。


そう思っていた矢先に、光はその<警視庁のおっさん>から呼び出しを受けることになった。そのことを篠崎渚(しのざきなぎさ)に話したら、

「光先生。警視庁のお偉いさんから直接呼出しくらうとは、一体何やらかした?」

と言いながら、大爆笑された。挙句の果てに、仕事をさぼって一緒について来ると言い出す始末だ。


光もその日はバイトを休まなければならないので、おっちゃんと奥さんに事情を話した。気のいい夫婦は彼女の話を聞いて目を丸くしていたが、そういう事情ならと、あっさりと了解してくれる。


そして当日。

千代田区霞が関にある警視庁本庁舎を訪れたヒカナギコンビは、案内窓口で伊野から呼び出しを受けていることを伝える。その話を聞いた係の女性は一瞬、こいつら正気か?――という顔をしたが、すぐに確認を入れてくれた。


――まあ、普通そういう反応になるわな。

光が呑気にそう思っていると、係の女性は、

「只今案内の者が参りますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」

と言いながら、玄関フロアに置かれたソファを手で指した。

光は、「ありがとうございます」と礼を言って、取り敢えずソファに陣取ることにする。


隣に座った渚は、興味津々の様子であちこち見まわしていたが、光はあまりに場違いな気がして、居心地が悪いこと、この上ない。

――何で呼び出されたんだろう?

今頃になって、そう思う始末だ。


5分ほどして、制服を着た若い警官があたふたとやって来た。そして案内係の人と少し話したかと思うと、光たちの方に慌てた様子で近づいて来る。


「蘆田光さんですね?お待たせしました。ところでそちらの方は?」

警官は光に挨拶した後、隣の渚を見て不審そうに尋ねる。多分伊野から、今日の訪問者は光1人と聞いているのだろう。すると渚がすかさず反応した。

「こいつの保護者の篠崎渚でえす」

「はあ!」

渚の答えに光は絶句する。警官は2人の様子に目をパチクリとさせていた。


「ああ、一応こいつも関係者なんで」

どうせ帰れと言っても帰らないだろうと諦め、光は警官に説明した。それを聞いた警官は一瞬不得要領な表情を浮かべたが、

「それではご案内します」

と思い直したように言って、光たちを誘(いざな)った。


高層階にある伊野の執務室に向かう間中、渚はワクワクした表情であちこち見まわしている。

――きっとまた、他人がまず気づかんようなことまでチェックしてるんだろうな。こいつは。

そんなことをぼんやりと考えながら、光は渚を横目で見ていた。


エレベーターを降りて、伊野の執務室まで2人を案内してくれた警官は、異常に緊張した表情でドアをノックする。そして何故か汗だくになりながらドアを開けると、

「蘆田光さんをご案内して参りました」

と、震える声で室内に向かって申告した。その様子が妙に可笑しくて、2人は思わず顔を見合わせる。


「中にお通ししろ」

室内から伊野らしい声がすると、警官は室内に向かって敬礼した後、

「どうぞお入り下さい」

と光たちに向かって直立姿勢をとった。相変わらず顔は汗だくで、目はあらぬ方を向いている。2人が中に入ると、後ろで警官がドアを閉める音がした。


室内には伊野だけでなく、他に3人の男女がいた。全員光たちとは顔見知りだ。

伊野の座る高級そうなデスクの前には、応接用のソファとテーブルが置かれていて、左に置かれた1人掛けのソファの1つに大蝶が座っていた。彼の後ろにはビジネススーツに身を包んだ男女が直立している。大蝶の部下の土岐恭介(とききょうすけ)内閣情報分析官と斯波蘭香(しばらんか)内閣情報分析官だ。


入って来た2人に席を進めながら、

「おや、篠崎さんもご一緒なんですね?」

と、大蝶が言う。

「あたしも巻き込まれそう、と言うか、もう巻き込まれてる感じなんでね。この間の、ガラの悪い連中絡みの話なんでしょ?」

渚はソファに腰かけながら、平然と返す。


「ええ。まだ確定とは言えませんが、多分そのガラの悪い連中に関係する話です」

大蝶は渚の問いに、少しあいまいな物言いをした。光は2人のやり取りを聞いても、何のことやら、さっぱり意味が分からない。


そんなやり取りの間に、伊野がデスクを離れて大蝶の隣に座った。そして大蝶が話を始めようとするのを制して、先に渚が話を切り出す。

「その前に、全然関係ない話なんだけど、訊いていいかな?」


すると伊野が、大蝶と顔を見合わせた後、「どうぞ」と促した。

「2人って、もしかして東大卒?」

2人が不審な顔で頷くのを見て、渚は興味津々の顔をした。


「生(なま)東大生見るのって初めてだわ。あんたもでしょ?」

そう訊かれて光も頷いたが、

――こいつ一体何を言い出すんだ?

と、訳が分からず、不審な表情を向けた。しかし委細構わず渚は続ける。

「じゃあ、もしかしてあの自衛隊の人も東大?」


彼女の問いに、伊野が答えた。

「志賀のことか?ああ、あいつも俺たちと同期だが。それが何か?」

それを聞いた途端、渚が爆笑する。

「あり得ねえ。あの脳筋まるだしのオッサンが東大出てるなんて!天下の東大も地に落ちたもんだ。ギャハハハ」


渚の反応に光は、

――こいつ遂に頭おかしくなったか?

と、呆然とする。伊野も言葉を失っていたし、大蝶は何か不思議な生き物でも見るような目で渚を見ていた。彼の後ろに立った2人は、揃って顔を真っ赤にして頬を膨らませている。爆笑を堪えているのだ。


ひとしきり爆笑した後、渚は言った。

「ああ、ごめん。ごめん。前から疑問に思ってたんで。それであの人、何で東大出て自衛隊やってる訳?」

「いや、それは今度本人に直接訊いて下さい。そんなことより、そろそろ本題に入りたいのですが、よろしいですか?」

大蝶がやや切れ気味に言うと、渚はソファの上で姿勢を正して、話を聞く体制をとった。


その時光は、はたと気づく。こいつは多分、話のペースを相手に握られないよう、わざと滅茶苦茶な話題を先に振ったのだ。篠崎渚とは、それくらい狡猾な奴だった。今日ついて来たのも、光1人だと、あっさりと相手のペースに嵌められると思ったからに違いない。

――確かに、あたし1人だったら、今頃このオッサンたちの餌食になってたかも知れないな。

光は改めて、この厄介な親友を頼もしく思うのだった。


「本日蘆田さんにご足労頂いたのは、蘆田さんが5日前の夕刻に、4人組の男に襲撃されたとお聞きしたからです。その時の状況を、詳しく教えて頂けませんか?」

呼び出したのは伊野のはずだが、何故か話の主導権を大蝶が握っていた。


「話してもいいけど、何でそんなこと訊きたがるの?というか、あんたら何でそのこと知ってる訳?」

渚のおかげで、光も緊張が解れて落ち着いて来た。


「それは追々お話しますので、まずは話をお聞かせいただけませんか?」

大蝶は丁寧だが、有無を言わせない口調で、さらに『お願い』する。光はその物言いに少し鼻白んだが、「まあ、いいけど」と言って説明し始める。


「状況って言っても、大したこと分からないんだけど。5日前の6時過ぎに、あたしがバイト終わって帰る時、急に4人組に囲まれてさ。話が訊きたいから、ついて来いとか言われて。断ったらあたしの腕掴んで、無理矢理連れて行こうとするから、腕捩じ上げて、顔面にエルボーを。あ、もしかして、あいつらが警察に訴えたとか」

「それはないよ」

伊野が短く否定する。その顔には苦笑が浮かんでいた。


「あっそ。それはよかった。どっちにしろ正当防衛なんで。それから残りの3人が囲んできた時に、こいつが通りかかって。手伝おうかって、後ろから声掛けたら」

そう言いながら、渚に向けて顎をしゃくる。


「3人が振り向いて。その瞬間にこいつが、1人の顔面に思い切り回し蹴り食らわせて、もう1人の股間を蹴り上げたと言うことで。まあ、酷い女ですわ。これが」

「最後の1人を投げ飛ばして、顔面を塀に叩きつけたのって、確かあんただったよね?」


そう言い合って睨み合う2人に、大蝶が割って入った。

「その連中は蘆田さんに、『話が訊きたい』と言ってんですね?」

光が肯く。

「そいつらに心当たりはあるかい?」

今度は伊野が訊いた。

「全然。こっちが誰だか訊きたいくらい」

その答えを聞いて、伊野と大蝶は一瞬顔を見合わせた。


「それで、その後どうなったか、教えて頂けますか?」

「その後は、最初にあたしがエルボー食らわせた奴が起き上がって来て。結構怒ってたみたいで。手にナイフみたいなもん持ってたかな。その時丁度お巡りさんが駆けつけてくれたんで、4人とも慌てて車に乗り込んで、逃げてったと。以上かな」


「その車の番号は覚えてませんよね?さすがに」

大蝶が訊くと、横から渚が即答する。

「品川380、と3XX5。黒のレクサスだったかな」

その答えに、全員が一斉に彼女を見る。

「その番号に間違いありませんか?」

「ないよ」

渚は当然だろうという顔をした。

「もう一度よろしいですか?」

大蝶が言うと、後ろの2人がメモを取り出した。

「品川380、と3XX5」


「志賀が言ってた通り、大した記憶力だな」

伊野はそう感心して見せた後、

「さっきのあんたらの質問についての回答なんだがな」

と続けようとする。

「伊野君」

大蝶がそれを遮ろうとしたが、

「まあ、貴重な情報を提供してもらったんだから、これくらいはいいだろ」

と、大蝶を制して続けた。


「その連中は、実は公安が張ってた連中なんだよ」

「公安?それ何よ」

「あれだよ。日本の秘密警察。政府に逆らう奴を捕まえて、拷問にかけるという」

「そんな恐ろしいもん、日本にあるん?」

「いや、ちょっと待ってくれ」

伊野が慌てて2人の間に割って入る。


「公安は、確かに秘密警察みたいに思われているところはあるが、民主警察の中の組織だからね。さすがに拷問なんかはしないから。誤解のないようにしてくれ」

警察官僚としては聞き捨てならなかったのだろう。慌てて補足した。


「それで、あんたらが4人に襲撃されているところを、公安の連中は見ていたんだが、奴らの職務上、直接介入する訳にもいかなくてね。制服警官を呼んだのは、公安の連中だったんだよ」

「あ、そうなんだ。タイミング良すぎると思ったんだよね」

「まあ、そういうことなんで。了解してやってくれるとありがたい」

伊野がそう言って頭を下げたので、2人は頷いて応えた。


そのタイミングを見計らうように、大蝶が会話に割って入る。

「先程の質問に戻りますが、お二人に何か襲撃されるような心当たりはありませんか?」

「あんた何かある?」

「特にないけど。この間地下鉄で、久々に痴漢にあったくらいかな」

「絞めた?」

「当然」

「蘆田さんの方はいかがですか?心当たりでなくても、普段と違うことでも構いませんので」

ヒカナギコンビの会話はすぐに脱線するので、見かねて大蝶が割って入った。完全にペースを乱されている上司を見るのは初めてだったので、後ろの2人が顔を見合わせる。


「普段と違うことねえ?まあ、強いて言えば、ストーカーが最近『萬福軒』に顔出さないくらいかなあ」

「そのストーカーと言うのは?」

「沢渡っつって、こいつに付きまとってる、物好きな奴」

横から渚が茶々を入れる。光がそれに反応する前に、大蝶が反応した。

「沢渡と仰いましたか?沢渡。うーん」

そう言って、この男には珍しく考え込んでしまった。


伊野がその様子を不審に思ったらしく、

「何か心当たりあるのか?」

と大蝶に質す。

「いや、心当たりと言えるレベルではないんだけど。沢渡ねえ」

そう言って大蝶は、また考え込んだ。


「ねえ。ストーカーに何かあんの?」

そんな大蝶を呆れて見ていた光が、しびれを切らす。

その言葉で大蝶は我に返った。

「いや、申し訳ないんですが、まだそれにお答えできる程、僕にも情報がないんですよ」


光はその答えに納得いかなかったが、大蝶からはそれ以上の答えは返って来ないと諦めて黙り込む。代わって渚が口を出した。

「まあ、これ以上訊いても無駄っぽいから。あたしらそろそろ帰っていいかな?」


その言葉に伊野と顔を見合わせると、大蝶が言った。

「ああ、今日はご足労をかけて申し訳ありませんでした。大変参考になりました」

その言葉に、まったく感謝の気持ちが籠っていないことに苦笑しながら、光と渚は立ち上がる。


部屋を出て行こうとする2人に向かって、伊野が声をかけた。

「とにかく身の回りには気を付けてくれ。何なら身辺警護に警官を付けさせようか?」

その言葉に振り向くと、2人は同時に首を横に振る。

「それより今度呼び出す時は、お茶菓子くらい出してよね」

渚が捨て台詞を残し、2人は颯爽と部屋を後にした。

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