合宿終了

 着替えを持って脱衣所の近くまで行くと、中にいる部長たちの声が聞こえてきた。あまりよくは聞こえないが、バスタオルがどうこう言っているのがわかる。


 部長たちの声が聞こえた直後、俺の鼓動は急激に速くなる。すごいドキドキしてきた。こ、これからみんなと入るんだよな……。


 ドキドキしながらしばらく待っていると、扉が開閉する音がし、部長たちの声がしなくなった。部長たちは大浴場に移動したみたいだ。


 俺は恐る恐る脱衣所に入ると、びしょ濡れの服を脱ぎ、腰にタオルを巻く。そして、三十秒くらい深呼吸をし、覚悟を決める。よし、入るぞ……!


 意気込みつつもまずは扉をほんの少しだけ開け、部長たちに「入っても大丈夫ですか?」と最終確認をする。


「いいよー!」


 部長のそんな返事を聞いた後、俺は再び深呼吸をし、大浴場の中を見ないようにしながら扉を閉める。そして、目を瞑りながら壁伝いに歩き始める。ダメだ。なんも見えない……。


「みっきー、なにやってるの? 目開けないと危ないよ!」


「いや、無理です。見たらいけないんで」


「うちらはバスタオル巻いてるから大丈夫だよ!」


 部長にそう言われ、恐る恐る目を開けると、湯が張られた浴槽にバスタオル姿の部長、無藤さん、湯浅先生がいるのが見えた。


 体が冷えてるから先にお湯に入ったのかな……? そう分析しつつも女性陣のバスタオル姿は色っぽくて鼓動が更に速くなってしまう。それと同時に、恥ずかしさが一気に湧いてきて一刻も早くこの場から逃げ出したくなってくる。


「あの、やっぱ俺、あとで入りま——」


「みっきー、ダメ! 早く湯船に入らないと風邪引くから!」


「……は、はい」


 は、入んなきゃダメみたいだ……。俺は部長たちの方を見ないように下を向きながら浴槽に向かって歩き始める。しかし、浴槽のすぐ目の前に辿り着き、そのまま入ろうとした瞬間、足を滑らせてしまった。


「うおっ!」


 俺は大きな水飛沫を上げながら湯の中に落ち、浴槽の底に両手をつく。……あ、危なかったぁ。


 怪我をせずに済んだことに安堵し、ゆっくりと顔を上げると、俺の目の前に無藤さんの姿があるのが見えた。


 無藤さんは頬をほんのりと赤くしながら俺を鋭く睨みつけ、「あっち行ってください」と頬を蹴りつけてくる。


「すいません……」


 無藤さん、海岸清掃から帰ってきてから当たりがきついな。なんでかわかんないけど。そう思いながら浴槽の隅に移動した俺に、湯浅先生が声をかけてくる。


「……へへ……並木くん、大浴場で転ぶなんて、私みたいですね……」


「……あー、確かに昨日、先生も大浴場で滑って転んでましたね」


「ん? もしかして、みっきーと湯浅せんせ、昨日も一緒に入ったの?」


 部長のそんな質問に無藤さんは「は!?」というとても驚いたような声を出し、俺に殺気を飛ばしてくる。俺はそんな無藤さんに怯えながら部長の質問に答え始める。


「き、昨日は湯浅先生が間違えて入ってきたんですよ。俺がいるのに気づかなくて」


「……へへ……そうなんです。……私、やってしまいました……」


「あははっ! そーなんだ!」


「……並木先輩の変態……」


 部長の明るい声に続き、無藤さんのそんな呟きが聞こえてきた。その呟きはあえて俺に聞かせようという意思が感じられるほど絶妙な声量の呟きだった。無藤さん、ひどい。完全に湯浅先生のミスなのに……。


 その後、五分ほど雑談をしていると、部長がいきなり立ち上がって笑顔を浮かべた。


「あったまってきたし、体洗ちゃおっかな!」


「私もそうします」


「……へへ……私も……」


 部長たちはそう言って浴槽から洗い場の方へ歩いていった。俺はみんなが出るまで入ってよっと。


 そう思い、部長たちが大浴場から出るまで湯に浸かっていると、体がものすごく熱くなってしまった。


 「そろそろ俺も体を洗うか」と思って立ち上がると、体に違和感があることに気づいた。体が熱いのはさっきからそうなのだが、それに加えて眩暈と吐き気がしたのだ。……入りすぎて……のぼせた……?


 体の不調を感じながらゆっくりと浴槽を出ると、ふらふらしてきて思わず床に手をついてしまった。


 ……ち、力が入らない……。……そ、それに……あ、熱すぎる……。……す、涼しいとこに……。ぼーっとした頭でそんなことを考えた後、俺は四つん這いになりながらなんとか脱衣所の扉の前まで移動した。


 力を振り絞って扉を開け、脱衣所に仰向けに倒れ込む。相変わらず全身が熱くて、頭がぐわんぐわんと強く揺れているように感じられる。


「はぁ……はぁ……」


 ……や、やばい……。……も、もう……無理……————


 ◇


「……みきせんぱ……すごいねつ……」


 気づくと無藤さんの声がしたような気がした。ゆっくりと目を開けると、ぼんやりと無藤さんの顔が見えた。


「無藤さん……?」


 俺がそう呟くと、無藤さんははっとしたような表情をする。


「な、並木先輩! 意識、戻ったんですか?」


 ……え? 意識……? どういうこと……? 状況がまったくわからなくてきょろきょろと周囲に目をやると、自分が脱衣所に仰向けになっているのがわかった。


 ……そ、そうだ。……確か俺、浴槽から脱衣所まで移動して……それで……どうなったんだ……? おぼつかない記憶に首を傾げていると、無藤さんが優しく微笑みかけてくる。


「……並木先輩、お水飲みましょうか。多分、脱水症状が出ています」


「……う、うん」


「背中起こしますよ」


 そんな言葉の後、無藤さんのひんやりとした手が俺の背中をゆっくりと押してくる。


 俺がその場に座り込むと、無藤さんは近くに置いてある水のペットボトルを開け、「飲ませてあげますね」と言ってくる。


 無藤さんは俺の背中を支えながらペットボトルの飲み口を俺の顔に近づけてくる。俺が口を開けると、彼女は再び優しく微笑む。そして、飲み口を俺の口に当ててペットボトルを傾ける。


 無藤さんに助けてもらいながら水を飲んでいると、一年前の公園掃除でのことが頭に浮かんだ。その時も誰かに水を飲ませてもらったな……。


 そのままペットボトルの水を半分ほど飲み、飲み口から口を遠ざけると、無藤さんが「もう飲まなくて大丈夫ですか?」と尋ねてくる。俺が黙って頷くと、彼女は再び優しく微笑んだ。無藤さん、俺に怒ってたはずなのに、優しい。


「……水、ありがとう」


 微笑みながらお礼を言うと、無藤さんはぼそっと「……あの時と同じだ……」と呟き、頬をぽっと赤く染めた。そして、俺の顔を見ながら微笑んでくる。


「並木先輩、体を倒しますね」


「う、うん」


 俺が頷くと、無藤さんは俺の背中と肩に手を当てながらゆっくりと体を倒してくる。その瞬間、頭にほんのりと柔らかい感触がして彼女が膝枕をしてきたことがわかった。


「え? 無藤さん?」


「床は硬いですから。頭が痛くなってしまいます」


「う、うん」


 膝枕をしてもらって数十秒ほどすると、無藤さんがなぜか頭を撫でてきた。


「あの、無藤さん、ちょっとやめて」


「あっ、ごめんなさい。嫌でしたよね」


「そういうことじゃなくて、俺、頭洗ってないし、汗がついちゃうから」


「大丈夫です。並木先輩の汗なら平気ですから」


「……え? なんで?」


 俺が無藤さんの意味不明な発言にそう尋ねると、彼女は顔を真っ赤にして目を泳がせる。


「……えっ、えっと……ど、ドリームパークで手を繋いでいた時の手汗とかで、耐性がついてますから!」


「……え?」


 耐性がつくって、普通は嫌なことに対して言うよな? 汗がつくのが嫌なら、なんでわざわざ頭撫でてくるんだろう……?


 ◇


 その後、体の火照りが少し治まった俺は自分の部屋に移動し、夜になるまで安静にしていた。


 午後には旅館の備品を片付ける予定だったのだが、それには参加しなかった。


 片付けの途中に無藤さんは十回以上も俺の様子を見に来た。大げさすぎる気はしたが、無藤さんが何回も来てくれるのはなんとなく嬉しくて、最後の方は次はいつ来るかなと楽しみになってしまっていた。


 夜ご飯は無藤さんが作ってくれたよく塩の効いたお粥を食べた。彼女はなぜか「私が食べさせます」と言い張っていたが、その頃には俺の体調はよくなってきていたので、自分で食べた。


 そして、今は九時半くらいで俺は部屋の布団に寝転がって目を瞑っていた。すごく疲れているので、早めに寝ることにしたのだ。


 しばらく目を瞑ったままでいると、不意に扉が開く音がした。また無藤さんが様子を見に来たのかもしれない。


「あれ? 並木先輩、もう寝ちゃってる」


 無藤さんのそんな言葉が聞こえてくるが、瞼が重くて目が開かない。それに、わざわざ否定するのも面倒くさい。そのため、目を瞑って黙ったままでいることにした。すると、いきなりおでこを触られる感覚がする。


「熱は下がったみたい。よかった」


 無藤さんは優しい口調でそう言った後、「……ふふっ」という笑い声をこぼした。


「それにしてもほんとにあの時と同じだったなぁ……。私が水を飲ませてあげたら『ありがとう』って笑ってくれて……」


 多分、俺のことだよな……? でも、無藤さんに水を飲ませてもらったの今日が初めてのはずなんだけど……? そう思っていると、顔のすぐ近くで布と布が擦れるような音がした。


「……並木先輩……いつか思い出してくださいね……」


 無藤さんがそんなよくわからない言葉をこぼした直後、頬をそっと触られる感覚がしたかと思うと、柔らかくてしっとりしたものがおでこに軽く触れた。


「……わ、私、何やってるの!?」


 無藤さんはうわずった声でそんなことを言った。その直後、耳元で大きな足音がしたかと思うと、その足音がだんだんと小さくなるのがわかり、無藤さんが部屋から出ていくのがわかった。


 …………え? ……い、今……お、おでこに……き、キスされた……?


「なんで? 意味がわかんない……」


 そんな呟きをこぼした俺は、熱はすっかり下がっているはずなのに、体中が熱くなってしまっていた。


 ◇


 翌日の午前中。俺、部長、無藤さん、湯浅先生は車で約二時間半かけ、学校の正門前に辿り着いた。


「……わ、私はこれで……みなさん、さようなら……へへ……」


「またね! 湯浅せんせ!」


「湯浅先生、お気をつけて。普段の部活動にもぜひ顔を見せてくださいね!」


「湯浅先生、さようなら」


 湯浅先生は俺たちのそんな返事を聞くと、とてもだらしない表情になる。


「えへへっ!」


 湯浅先生はそんな笑い声をこぼした後、車を走らせ、その場を去っていった。


「じゃ、うちも帰るねー!」


 部長は明るい笑顔を浮かべながら俺と無藤さんに手を振り、駅に向かって駆け出した。


「では並木先輩。私も帰りますね」


「うん、また部活で——って、ちょっと待って!」


 俺は無藤さんに別れの挨拶をしている途中で、彼女にシーグラスを渡しそびれていたことを思い出した。


「え? なんですか?」


「これ、海岸で拾ったんだけど、要る?」


 俺はポケットからエメラルド色のシーグラスを取り出し、無藤さんに見せながらそう尋ねる。その瞬間、彼女は表情を明るくし、俺の方に身を乗り出してくる。


「え!? 私にくれるんですか!?」


「うん」


 思ったより嬉しそうな反応をしてくれた無藤さんに頷き、シーグラスを手渡す。


 無藤さんはシーグラスをじっと見つめた後、それを自分の胸の前で大切そうに握りしめ、俺の目をまっすぐに見てくる。


「これ、一生大切にしますね!」


 無藤さんがあどけない笑顔でそう言ってきた瞬間、俺の心臓はドクンドクンと強く鳴り始めた。その直後、俺は引き寄せられるように無藤さんのすぐ近くまで歩いていって、そのまま彼女のことを抱きしめてしまった。


「な、な、並木先輩!?」


「あっ! ごめんっ!」


 俺は慌てて無藤さんから離れると、自分がしてしまったことへの恥ずかしさから駅に向かって全速力で駆け出す。


 俺、なんでいきなりあんなことを? 心臓が激しく鳴ったのはドリームパークの時と枕投げの時もだけど、その時は抱きしめるとかそんな変なことはしなかったのに……!

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