9.8の加速度で君に手を伸ばすよ

2121

9.8の加速度で君に手を伸ばすよ

 君の体を彩るように、生きた花が咲く。四肢の周囲に、心臓の上に、顔の隣に。その顔は悩みから解放されて晴れやかな表情が浮かんでいた。

 棺の中の君は美しく、君への愛は花のように色褪せることがなかった。



「マグメルっていう場所を知ってる?」

 真っ白なベッドの上で、君が言う。あれは桜の咲き始めのときで、病室の窓の向こうに吹き上げられた花びらが舞っていた。

 記憶の君はいつだって淡く笑っている。いつだって僕のことを宥めるように優しい声音で囁いた。花びらが地に落ちるような、ささやかな声だった。

 君がもうすぐ死ぬことを僕は知っていた。君にそのことは伝わっていないはずなのに、君は自分の死期を悟っている。

「知らない。どこ?」

「手の届かないほど遠いところ。私はそこへ行くんだ」

 離れたくなくて、握っていた手に力を籠める。僕たちは病室にいる間、いつも手を繋いでいた。どちらからともなく手のひらを重ねて、互いの存在を確かめるように手を握る。僕たちは幼馴染みで、小さいときから遊んでいるときもいつもこうして手を握っていたように思う。君の手は、僕の手よりも温かい。

 君が言うに、マグメルというのは島であるらしい。そこは病気も死も存在せず、永遠の若さと美しさを保つことができるという。音楽、強さ、生命など全ての楽しいことが集まっていて、幸せは永遠に続き食べ物も必要としない素敵な場所であり、「死」のみの手段でたどり着ける場所だった。

 君はそんな場所へ行こうとしている。

「……僕を置いてそんなところに行かないで」

 口をついて出た言葉は、泣き叫ぶような声だったから自分でも驚いた。君が僕の頬に触れる。そこに水を感じて自分が泣いていることを知る。

 この日が来ることをずっと前から知っていたのに、やっぱり受け入れられないし心の準備は出来ていない。情けないな、と思う。小さいときから君と僕はずっとこんな感じだ。泣き虫の僕を、君がこうして慰める。

「手が届かないなら、側へ来て届くところへ来たらいいんだよ。この手を離さないで」

 そして君は僕を抱きしめた。

「マグメルで待ってる」

 数時間後、繋いでいた手から君の力が抜けていき自然と手が離れた。冷たくなって、君がこの体からいなくなる。

 君の側で、窓から入ってきた桜が舞っていた。

 本当に、君は手の届かないところへ行ってしまった。

 君の魂が、君の望んだ場所へ無事にたどり着けますように。



 鮮やかな花と君を焼いた煙は、白かった。君を燃やした灰の白さだ。

 細くたなびく煙は上へ上へと伸びて、空と馴染んで消えていく。



 帰り道、見上げた空には虹が懸かっていた。君が慰めるために懸けてくれたのだろうか……? そう思いながら眺めていると、その根元が君と僕との思い出の場所に繋がっていることに気付く。子どものときによく遊んだ山の中腹にある展望台だった。

 君がそこにいると確信して僕はすぐに展望台へと向かった。山を登り、階段を上り、上へ上へと行くにつれて君の存在が強くなっていく。

 展望台にたどり着いたとき、日が傾き夜が昼を呑み始めていた。

 君を近くに感じて、僕は空へと手を掲げた。君と僕の手は離れたわけじゃない。

 僕は君の手を握る。

 瞬間、景色が線になって歪む。

 放り出された僕は空に溶けて、重力加速度で君に今から会いに行く。

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