第5話

診断書を貰え、と言われたところでどこの病院の何科へ行けばいいのか心呂自身、まったく見当がつかなかった。


とりあえずその日のうちに診察をしてもらえるという大きめの病院を見つけ、受付の女性に話しかけた。女性は最初、不審者でも見るような目で事情を聞いていたが、この口調でも懇切丁寧に話すと理解したのか、心療内科を案内した。


紹介状がなく、初診でもあったので三時間ほど待つことになった。


その間に、問診票に記入をした。自分の書く文字さえも変わっていることに気づいてびっくりする。


いささか丸い文字だったのがコンプレックスだったのだけれど、丁寧に隅々まで四角くなっている。


その自分の書いた文字がまるで自分のものではないようで、しばらく見とれていた。


こうなったらなったで、いいことがたくさん起きてイル。


三時間、心呂は瞬きこそするものの、姿勢をまったく崩すことがなかった。時折とおり過ぎる看護師も、心呂をちらりと見てはその異様な雰囲気に首を傾げていた。


名前を呼ばれたので、診察室に入る。


五十代半ばくらいの医者が座っていた。


「こんにちは」


「コココココンニチハアアアアア」


医者の顔が歪んだ。例外に漏れずびっくりしたのだろう。


「さて、受付の女性からも少し話を聞いて、問診票にいろいろと書かれていますが、これはどういうことかまず教えてもらいましょうか」


心呂はこれまでの経緯を説明した。医者もまた、心呂の口調と動きに耐えられなくなったのか、声をあげて笑いだした。


医者に笑われたことで全身に張り巡らされた筋肉のこわばりが若干とれ、心呂の中のハードディスクがもとに戻ったように感じられた。


バグを起こしたのは、上司の手前緊張していたのかもしれない。ロボットが緊張するのもおかしな話だが、ロボットももしかしたら、緊張することがあるのかもしれない。


「デ コノトオリ イガク テキ カガク テキ ニ ドウナッテシマッタ ノ カ サッパリ ワカラナイ ノ デ ゴザイマス」 


「僕にもサッパリわからん」


「サヨウ デ ゴザイマスカ」


「上司からそう言われる前までは、普通だったのでしょ」


「サヨウ デ ゴザイマス」


「うーん。世の中本当に色々な人、診断基準にまったく当てはまらない人っていうのもいるけどさ、君のような症例は見たことないからなぁ」


「サヨウ デ ゴザイマスカ」


世界で初、の症例なのかもしれない。


「初」というのがまた良い心地だった。こんな自分でも、こうなってしまったことで人を笑わせることができたのだと思える。 


「さっきから『さようで』って何回も。本来なら細かく患者のバックグラウンドやらなにやら、聞いたりするんだけどね」


「サヨウ デ ゴザイマスカ」


うっかり出てしまった。医者は無視した。


「はっきり言って君の症状は、医者には治せない。薬でも治らない。ああ、眠れてはいるのかな」


「イチ ニチ ネムレズ デモ イマ スイミン トレ テ オリマス」


「じゃあ薬もいらないかな。とりあえず診断書は書いてあげるけど、上司から言われてそうなったということは、ねえ。原因の根っこはその上司だと思うんだけど……」


「ナオ リ マスカ」


治らないほうがいいのかもしれない。はっきり言って楽である。


「一時的なものじゃないかな。環境は変えたほうがいいと思うけど」


「ソレ シゴト ナク ナリ マス」


「まあ、君はまだ若いし、仕事は探せばいくらでもあるんじゃあないのかな。一ヵ月たっても治らないようならまた来て。でも、ま、なにかきっかけがあれば治るかもね」


「カシ コ マリ マシタ デ ハ シツレ イタ シマス」


動作も洗練されてきているように思えてきた。


ドアをスライドさせる肘の動きでさえ、もうロボットである。


ドアを閉める。閉める直前、医者も看護師も「なにこのヒト」というような目で見ていた。しかし流石に医者であル。心呂の言動が最後まで移らなかった。

 



診断書をもらっても封が糊づけされているので、なにが書かれているのかワカラナイ。


家に帰ると、母親がリビングでテレビを見てくつろいでいた。


子育てのほぼ終わった専業主婦ダ。

「おかえり」


「タダ イ マ ノリ コ サン」


今まで「お母さん」と呼んでいたのに、なぜだか口から勝手に名前が出てきた。


心呂と名付けた諸悪の根源である。恨みは一切口にしたことがナイガ。


「早かったのね。仕事、そんなに暇なの」


仮に仕事が暇だとしても早く帰れるはずもないのだが、法子はいつも、世間とはずれている。


ずれているのに、話を聞けばかなり順風満帆な人生を送ってきているので、そのずれた性格が人からは好ましく映っていたのダロウと考えられた。


それが人徳なのか、バブル絶頂期という時代の寛容さに支えられていたのかは不明だ。頓珍漢なことを言っていても、様々な面で許されてきた、許されてしまった人間なのだろう。


「ソウ タイ シタ ノ デス」


「具合でも悪いの」


「ゲンキ デ ゴザイマス」


法子はふふ、と優しく笑った。


「最近、そういうのが流行っているのね。私も真似してみようかしら」


「ハヤ リ デ ハ ゴ ザ イ マセン」


「そうなの? でも可愛いわ」


心呂には、法子が真の意味での天然なのか、あるいはものすごく懐の広い人間なのか、単純にまだ娘を学校に通う小さな子供と思っている部分があるのか、今でも全くワカラズニイル。


父親も父親で、この母を愛した人間である。やはり少しずれているのだ。


両親の過ごしてきた時代や価値観と、心呂が送っている時代や価値観とのギャップ、両親との間に流れる溝、みたいなものにはわりと小さい頃から悩まされてきた。


人の輪に馴染めなかったのは、この辺の影響もあるのかもしれない。しかし、それもどうでもいいように思えてきた。


今更親を責めてもなにかが変わるわけでもナイカラダ。


「今日のご飯はシチューよ。もう作ってあるから、食べたいならいつでも温めて食べて ネ?」


法子は最後の「ネ」だけを真似し、可愛らしく首を傾げて微笑む。


「カシ コ マリ マシタ」


温めたシチューを喉に通す。


こんなふうになっても、生理現象は必ず起きる。


「美味しい?」


「ハ」


舌に温度を感じた。


さまざまな意味の温かさ、というものを検知すると、少しだけ固まっていた胃の奥がほぐれたような気がした。


しかしこの口調になってしまってから、味覚もあまり感じられなくなってきている。


法子の前で美味しいとは言ったものの、なにを食べても、ゴムみたいな味しかシナイ。


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