【KAC20245】少子化対策専用バイオ端末F【はなさないで】

あんどこいぢ

はなさないで

 蒸してきたな、と思いながら、荒井は十号館前から続く桜並木を二号館のほうへと折れた。二食前のエントランスに自動販売機が並んでいたはずだ。

 五台強並んだ自動販売機を一応奥まで眺める。

「やっぱビール、ねえよな。そりゃそうだ」

 フルーツミックスジュースを買って二食前エントランスをでる。

「最近独り言が多くなったな……」

 と、これまた独り言をいってしまう。

 とはいえ、Fラン私大のキャンパス内だ。若者たちの騒めきは耳に痛いほどで、誰かに聴かれる心配はないはずだった。


 桜並木にぽつぽつあるベンチは大体空いている。


 空いていなければ花壇の縁に座ってでも、……などと思うほど、めっきり足腰が弱くなった。

 荒井はこの大学の教員ではない。また、その他職員でもない。

 若い頃の友人が講義を書籍化したいというので、ようすを観にきたのだ。


「未だにアーレントが現代思想かよッ──。ケッ──。腹も減ってるんだが……」

 独り言なので脈絡が妙だ。百年間弱続く〝現代思想〟を聴かされた徒労感によって、空腹感が喚起されたといったところか?


 しかし彼は、油断し過ぎていた。


 頭上から突然、若い女の声が降ってくる。

「もしよろしかったら、クレープか何か買ってきましょうか?」

「エッ? あっ、あっ……?」


 思わずジュースの缶を落としそうになった。呻くような声も痛々しいほどだ。反射的にあげてしまった顔も、まるで顎が外れたようになってしまっている。


 声の主の女の顔は、逆光にも拘わらずキラキラ輝いている。


「河北先生の講義にいらした方ですよね? リニアのほうの駅ビルの飲み屋でも、先生と議論になってたって噂、聴いてます。私にもお話、聴かせてくれませんか?」

 荒井はガクガク頷いていた。女が続ける。

「じゃあクレープでいいですか? 定食のテイクアウトなんかもあるようなんですけど、私あまり、二食使うことなくて……」

「あっ、いや──。学生さんにパシリさせるわけにゃあ……。ここじゃ俺のほうが部外者なんだし……」


〝先生と議論していた──〟。彼女とも議論になるのだろうか? さっき聴かされた河北の講義が一瞬脳裏を過ぎる。


『少子化用クローンの存在は、アーレントが論じたビオスとゾーエーの問題を、再度可視化させているね。これは僕がまだ駆けだしだった頃、コロナ対応の問題でフーコーのビオ‐プーヴォワールが可視化されてきたのと似たような状況だ。さらにいえば、それらは、ベンヤミンいうところの危機の批評の一社会レベルでの好例であるともいえる』


 ところで、どこに腰を落ち着けるのかといった問題で、彼女と多少押し問答になってしまった。


「八食が割り合い静かなんですけど……」

「いやー、この歳で学食ってのも、やっぱ浮いちゃうかなーッ……」

「じゃあちょっとムサいとこですけど、私たちの部室、とか?」


 ここのような新興大学にはサークル棟などないのでは? などとも思ったのだが、やはり少子化対策専用バイオ端末の問題で学生運動が再活性化している。彼女たちもどこかの部屋を不法占拠していたりするのかもしれない。

 食べ物に関しては二食エントランスに戻り、自販機の調理パンを買った。彼女はしきりにもっといいものを奢るというのだが……。


 荒井は未婚だった。が、娘のような歳の女についにそのパンを奢られてしまった。


 そして問題の部室というのは……。

 部室というより教授の研究室といった雰囲気で、本当に不法占拠した部屋なのだろうか? 書架はスチール製で、床も木製ではなく、無機的であるがゆえの清潔感があった。

 コーヒーを淹れてくれながら彼女が、

「どこでもどうぞ。座ってください」

 と、椅子を勧めてくれた。


 奥にサイフォンを載っけたデスクがあり、そこの椅子だけがキャスターつきだ。手前でいびつな円を描いているのは、折り畳み式のパイプ椅子たち──。


 荒井は一応、しも手になるよう意識したりする。コーヒーのマグカップを受け取り意外と間近に正対することになったのだが、彼女からすぐ質問がくることはなかった。


「えっと、何を話せばいいのかな?」

「そうですね。ほかにも誰かいてくれたらよかったのに……。私一年坊主で、まだあまり状況掴めてなくて……。荒井先生も河北先生の講義と、いまのクローンをめぐる問題との関係って、やっぱあるって思ってます? ……って、ゴメンなさい。名乗りもしないで……。先生のお名前も、河北先生が呼んでたのを聴いてしまってて……」

「せっ、先生って、俺も先生? そりゃちょっとやっぱ、こそばゆいってゆうか……。いや、そういうこという奴に限ってその実結構権威主義的なんだよなって体験、俺嫌っていうほどしてるんだけどね……。どっ、どうしよう……。あまり親し気な呼び方、強要するってのもなんだか……」

「確かに距離感、掴みにくい関係ですよね? 荒井さんぐらいが無難でしょうか? ちなみに私は、遠藤玲子っていいます」

「あっ、じゃ、それでっ」


 というわけで荒井は、クリッとした両眼でこちらを見詰めてくる〝女子大生〟に、何かある程度の長さの話をしなければならない状況に陥ってしまったわけだが……。


「もしも遠藤さんが河北さんのこと尊敬してたりすると、申しわけないんだけど──」

 などと話しだすと、意外とスラスラ言葉がでてくる。要するに、いい格好をしなければいいのだ。

「──関係があるっていってもそりゃむしろ、悪い関係なんじゃないかなって、俺ァ思ってる。つまり、基底材を猛り狂わせる、なんて余計なマネしてくれっから、こんなことにもなっちゃうんだってね。ところでこの基底材云々ってのは──」

「デリダの著作のタイトルですね?」

「あれあいつ、デリダのことなんかも話してた? 僕の専攻は実はゴリゴリのドイツ哲学のアドルノで、いわゆるポストモダンの連中とは違うんだよね、なんてこともいってたけど……」

「そうですか? でも野生動物のまなざしがどうのこうのって……」

「野生動物かあああッ……。いま話題の彼女たちは、ちゃんと言葉、話してんだけどね。むしろその運用は俺たち人間なんかよりずっと正確で、そういった点がまた……。言語それ自体ってのは誤訳やいい間違いによってこそむしろ指し示される、なんていい方も、奴らのお得意の台詞だったはずなんだけどなァ……」

「うんうん」


 コクコク頷く彼女の顔は、実際間近である。


「あの正確無比な言葉の選択と、絶対吃らない発声……。ああいうところにこそ本当は、ポストモダンな連中が結局そこから離れることができない哲学的ゾンビの問題や、ひいては独我論の問題なんかがでてきちゃうってことになるはずなんだけどね。いや連中は逆に、それはプラトン以来の西洋形而上学の問題で、自分たちはあのプラトンの洞窟からでるための実践を続けているんだっていってるわけだけど、でもテクストの外部には何もないともいっちゃってる。裂け目とか襞とか星座的付置とか、河北さんもいってたろうけど、ああいうのは要するに、自分たちだけが語り得ぬものを語る得るという特権を、独占するためのお題目だよ。そう、奴ら自分たちだけがそれらを語ることを許されてるって己惚れてたんだ。でも他ほうじゃ人間の思考は、どこの誰だって形而上学から逃れられないともいってるわけで、誰だって好き勝手に、それぞれの形而上学を語り続けるわけだよ。君は君にしか自我がないように思ってるようだけど、残念ながらこの僕にも、どうも自我があるようだね。でもあいつらクローンにはやっぱ、自我、ないのかなあ? とかね」

「荒井さんも彼女たちの自我の実存を、認めないんですか?」


「実存主義の話はちょっとペンディングね。でもそのことも踏まえたうえであえていやァ、俺ァ素朴実在論者だね。あえてそうだね。それは形而上学批判の実践の結果一瞬チラッと煌めくなんてモンじゃないし、垂直の大騒ぎの結果快楽として得られるなんてモンでもない。合意するしかないモンなんだよ。すべての認識者がすべての認識者に対し、その点で完全に、合意すべきなんだ。もしそうでなきゃアリの一穴──。今日はクローンだが明日は俺だ。そして明後日は君たちかもしれない。いや、いまは少子化対策のため製造され配布された妊娠可能な女性型クローンが焦眉の問題なんだから、順番が逆で、明日が君たちなのかもしれない。河北さん不用心にも、ゾーエーがどうこうのっていってたよね? 生殖はビオスなのかゾーエーなのか? 実はビオスだってあいつァいったわけだが、女性型クローンにあってはそれがゾーエーとなってしまっていて、その点が危険だって主張だったわけだ。でもそれらの主張すべてがあいつらの言葉で織りあげられてる。賛成にしろ反対にしろ、すべてあいつらの造語なんだよ。いってみりゃァ人工言語さ。ニュースピークみたいな。ところがそんなあいつらのほうがビッグ・ブラザーのこと誰より警戒してるってんだから、ホント、笑わせるよな。と、ちょうどSF的ディストピアの話がでたところでもうちょっとSF的思考実験の話をさせてもらうと、その思考実験は二〇〇五年に出版された小説のなかに観られるもので、いまのこの状況に似て移植用臓器のドナーになるため造られたクローンたちがでてくる話で、当時としちゃSF的状況を描いていたわけだけだ。でもSFファンたち非難囂々──。アレはSFじゃない! SFとしちゃ完全否定された状態だったね。なぜだと思う? 結局奴ら図星を突かれ、それで腹を立てたのさ。何しろ当時はSF業界にも巽孝之とか東浩紀とか、それに円城塔とか、ポストモダンの連中が大量に流入してきていたからね。これがお前らが得意になってやってる議論の当然の帰結だぞってモンを見せつけられちゃァ……。少なくともあの世界はベンサムに反してないし、クローンにも心があるだろうなんて話は、奴らにいわせりゃ感動ポルノだ。連中ダイバーシティの推進者で声をあげられない者たちのその声の代弁者だなんてツラァしてるけど、……いや? 何者も何者かを代弁することなどできないなんて話も、連中お得意の御主張だったな。といってそのマイノリティ当人の御登場となりゃ、そりゃァそれでその集合名詞の実体視で形而上学──。代弁は不可能で、当人にも喋らせない。そんな風に誰かの存在を完全に消し去ってしまうような連中が、その誰かの味方なんだなんて話、一体どうやって信じろってんだい?」


 荒井の胸中にフレネミーという言葉が浮かんだが、そんな言葉じゃ生ぬるいなとも、彼は思った──。

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