第7話

週末の朝早く、陶邑久志彦(すえむらくしひこ)は和歌山県の天野(あまの)の里にある、紀伊国一之宮の丹生都比売(にうつひめ)神社に来ていた。実家からは、歩いて来られる距離にある。昨夜、夜間学部の講義が終わってから実家に帰ってきたが、ばあちゃんと話す時間はあまりなかった。


今朝も、ばあちゃんと二人きりで朝食を食べたが、ほとんど会話はなかった。ばあちゃんは、陶邑家の試練のことやヲシテ文字のことは、あえて聞かないようにしているようだった。


それが陶邑家の秘密を守り、知る必要のない人を守るという陶邑家の伝統で「知らん方が幸せなこともある」と語った、ばあちゃん自身の言葉を実践しているのだろうと久志彦は理解していた。


丹生都比売神社には、子どもの頃に、じいちゃんと一緒によく来ていた。中学校に進学してからは部活が忙しくて、参拝する回数は減ってしまったが、大事な試合があるときや悩みがあるときにはよく参拝していた。


じいちゃんは、社務所が開く前の早朝、境内が静かなときに参拝するのが好きだった。


「昇ったばかりの朝日に照らされて、社殿やご神木が輝いていて、何ともいえない清々しさがある」とじいちゃんは、よく話していた。


子どもの頃はその意味がよくわからなかったが、大人になった今では何となく、わかるような気がする。


久志彦は境内にある木製のベンチに座って、しばらくの間、何も考えずにじいちゃんのいっていた「何ともいえない清々しさ」を感じていた。そのお陰か、体に現れたヲシテ文字や、陶邑家の試練のことを考えているときの重たい気分が少し軽くなったように感じていた。


誰もいなかった参道を、スーツ姿の女性が一人、さっそうと歩いてくるのが見えた。住吉(すみよし)ミホコが、約束通りに来てくれた。遠目から見ても、スタイルの良さと長い黒髪の美しさが際立っていた。久志彦が手を振りながら声をかけると、ミホコも手を振りながら笑顔で応えてくれた。


「お待たせして、ごめんなさい」

ミホコには初対面のときに感じた厳しさはなく、穏やかで、やさしい雰囲気があふれていた。一緒に東京に行ったことで親しくなり、久志彦に対するミホコの雰囲気が明らかに変わっていて嬉しかった。


「とんでもないです。朝早くから来てもらって、スミマセン」

久志彦は東京からの帰り、感謝の気持ちがないとミホコに注意されたことを思い出していた。ミホコの方から同行するといわれたが、知識のない久志彦にとって、大学で助手をしているミホコの存在は心強く、頼りにしている。


「私、丹生都比売神社に参拝するのは初めてなの。神社巡りは仕事であり、趣味でもあるけど、まだまだ行ったことがない神社が多いのよ。この神社は朱色が鮮やかで、とてもきれいな神社ね。それと、鳥居をくぐって、すぐにある橋は、私の好きな住吉大社の太鼓橋に似ていて、すごく親近感があるわ」


ミホコは初めて参拝する神社を目の前にして、気分が高揚しているようだった。久志彦はミホコの笑顔や、あふれるようなやさしい雰囲気が、久志彦に向けられたものではないと気づいて、勘違いしていた自分が恥ずかしかった。


「まずは、神様にごあいさつしましょう」

そういわれて、久志彦はミホコの後をついていく形になった。久志彦にとっては氏神様であり、よく知っている神社なので、本来なら久志彦が案内すべきだ。しかし、完全にミホコのペースだった。


拝殿の前で拝礼するミホコを見て、久志彦は感動していた。背筋がまっすぐ伸びた立ち姿や礼をするときの姿勢が、とても美しかったからだ。今までの人生で、姿勢の美しさに感動するという経験はなかった。さすがは、あの厳しくて、やさしい社長のお嬢さんだと思った。


背後から「おはようございます」と声をかけられたので振り返ると、そこに丹生都比売神社の宮司さんがいた。

「久志彦君か、久しぶりですね。おばあさまは、お元気ですか?」

「はい、お陰さまで元気にしています」


丹生都比売神社の宮司さんは、陶邑家の恩人でもある。以前に住んでいた家が火事になって住めなくなったとき、この天野の里の空き家になっていた古民家を紹介してくれたのだ。それ以来、何かと面倒を見てもらっている。


以前に住んでいた家は先祖代々受け継いできた土地なので、じいちゃんは家を建て直すことも考えたらしい。でも、両隣の家にも延焼して迷惑をかけたので、居づらくなったと、ばあちゃんが一度だけ、ぼやいているのを聞いたことがある。


「今から朝拝(ちょうはい)ですが、ご一緒にいかがですか?」

宮司さんに、そういわれたが、久志彦は朝拝の意味が分からなかった。

「いいんですか、ありがとうございます」

そう答えたミホコは、とても嬉しそうだった。


宮司さんの後を歩くミホコは、ウキウキしているのか、足取りが軽そうに見える。久志彦は何が始まるのか、よくわからなかったが、とりあえず二人の後を追って、拝殿の中に入った。丹生都比売神社の拝殿は、屋根はあるが壁はなく、オープンスペースになっている。


他の神職の人たちも集まってきて、神事が始まった。久志彦とミホコは、神職の方々の後ろの席に座り、白木に紙垂(しで)をつけた祓串(はらえぐし)で、神職の方々と一緒にお祓いを受けた。その後、神様へのお供え物である神饌(しんせん)を供え、祝詞を奏上して神事は終わった。


朝拝とは、毎朝、基本的には神職だけで行う儀式で、その日一日の平和と安寧を祈るものだ。久志彦はお祭りのときは、いつも拝殿から少し離れた場所で神事を見守るだけなので、拝殿内の雰囲気がどんなものか、よく知らなかった。この日、初めて拝殿内で神事に参列したが、穏やかな見た目とは、まったく違うことに驚いた。


拝殿内は早朝の境内で感じた清々しさが、より濃密になった雰囲気が漂っていた。久志彦は温かさを感じながらも、体がゾクゾクと震えて、ヒヤッとする感覚にもなった。目に見えるものに変化はなかったが、拝殿内の雰囲気が目まぐるしく変化したのは久志彦にもわかった。


ミホコは宮司さんに丁寧にお礼をいって、自己紹介をしてから、

「こちらには初めての参拝なのですが、ご祭神について教えていただけませんか?」と尋ねた。


「当社に伝わる縁起によりますと、第一殿のご祭神、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)は、伊勢神宮に祀られる天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神で、稚日女尊(わかひるめのみこと)とも申し上げる女神です」


「神話には天照大御神の弟神は登場しますが、妹神は登場しないですよね?」

失礼ないい方にならないように、ミホコが丁寧な言葉づかいで質問していることは久志彦にもわかった。


「神社は全国に八万社以上あるといわれていますが、すべての神様が神話に登場するわけではありません。当社のご祭神については、当社に伝わる縁起をもとに、昔からお祀りしていますので、そのように理解してください」


「わかりました。もう一つ、お聞きしたいのですが、『ホツマツタヱ』という歴史書に登場する『ワカヒメ』という方が、こちらの丹生都比売大神のことでしょうか?」


「他の参拝者からも『ホツマツタヱ』のことを、ときどき尋ねられるのですが、公式には認められていない偽書ですから何とも申し上げられません。ただ、何を信じるかは、その人次第だと思います」


宮司さんは、このような質問には慣れているのか、困惑することなく、ずっと笑顔のままだった。


「そうですか、ありがとうございます」

ミホコは、それ以上、何も聞こうとはしなかった。


「久志彦君、何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」

そういって、宮司さんは社務所に戻っていった。じいちゃんが亡くなって、ばあちゃんと二人きりの家族になった久志彦のことを、心配してくれているようだった。


久志彦は境内社の佐波神社の近くにある、本殿をじっくり見られる場所にミホコを案内した。丹生都比売神社の本殿は、朱塗りの社殿が鮮やかで、色彩豊かな修飾も美しい。久志彦は地元の誇りといえる、この美しい本殿をミホコに見てもらいたかった。


「キレイなお社(やしろ)ね。境内のやさしい雰囲気もそうだけど、きっと女神さまの美しさとやさしさが、そのまま神社の雰囲気になっているのね。陶邑君のお陰で、こんなに素晴らしい神社に参拝できて、とても嬉しいわ」


ミホコの言葉を聞いて、久志彦も嬉しかった。ミホコと一緒に過ごす時間は、久志彦にとって特別なものに感じられた。二人が再び拝殿前に戻ってくると、巫女さんが神楽舞を舞っていた。笛や太鼓の音楽はなく、静かな拝殿の舞台で、一人で舞う巫女さんの姿には何となく違和感があった。しかし、その幻想的で華やかな舞に、二人とも見入ってしまった。


舞い終えた巫女さんが、二人の近くにやってきて笑顔で話しかけられた。「宮司は『ホツマツタヱ』のことを偽書だといっていましたが、私は本物だと思います。丹生都比売大神は『ワカヒメ』のことで間違いありません。『ホツマツタヱ』をもっと深く理解して、ぜひ世に広めてください。それと、良かったら、お守り代わりに、これをお持ちください」といって、ガーゼのような布を手渡された。


久志彦が、なぜ、その布がお守り代わりなのか意味がわからず、不思議そうな顔をしていると、

「こちらは、『竹の祓布(はらいぬの)』と申しまして、竹より作り出された繊維の竹布をやさしく丹念に織り上げ、無病息災のご祈祷をしたものです。ぜひ、これを身につけて、丹生都比売大神のご加護をいただいてください」と巫女さんは丁寧に説明してくれた。


久志彦とミホコはお礼をいって、駐車場に向かって参道を歩き始めた。その背後から、

「ようお参りでした。試練、頑張ってください」と巫女さんにいわれた。久志彦が驚いて振り返ると、そこに巫女さんの姿はもうなかった。


久志彦は、巫女さんはもちろん、宮司さんにも試練の話はしていなかった。何かの聞き間違えかと思ってミホコに確認したが、ミホコには聞こえていなかったようだ。よく考えてみれば、巫女さんから『竹の祓布』をもらうことも、ありえないことだった。


久志彦は、狐につままれたような気持ちのまま参道を歩いて、駐車場に着いても、巫女さんのことが頭から離れなかった。


「何をしてるの、早く乗ってよ」

ミホコにそういわれて、久志彦はあわてて助手席に乗り込んだ。ここから、ミホコの車で二人は大阪の堺へ、陶邑家の墓参りに向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る