第5話

「陶邑君、モトアケにはいくつか意味があります。その一つが、モトモトアケから始まる人類の歴史です。モトモトアケが創造神の『アメミヲヤ』と人類の祖先である『ミナカヌシ』、そして、古代の初代天皇である『クニトコタチ』を表し、その周囲を取り巻く『トホカミヱヒタメ』は、クニトコタチの次世代の八人の王子を表します。


この『トホカミヱヒタメ』は、左巻きの渦巻きの「ア」の上にある、四角形とアルファベットの「Y」の形の三本線を組み合わせたものが「ト」、反時計回りに二つ飛ばした、四角形に二本線のものが「ホ」、また二つ飛ばして、丸に一本線が「カ」のように、二つ飛ばしで反時計回りの順番になっています」


「僕の体にヲシテ文字が現れたのも、その順番です。これを見てください」

久志彦は少し興奮しながら、スマートフォンで毎日、鏡に向かって撮影した写真を伊藤先生に見せた。


「ヲシテ文字が体に現れた順番にも意味があるということですね。素晴らしい、その写真はあとで私のパソコンに送ってください」伊藤先生も興奮しているようだった。


「伯家神道(はっけしんとう)や修験道(しゅげんどう)の唱え詞(ことば)としては、「とほかみえみため」や「とおかみえみため」と伝わっています。これは、ホツマツタヱに記された『トホカミヱヒタメ』が、間違って伝えられたと考えています。他にも神様の名前や地名なども、その由来が正しく伝わっていないものが数多くあります」伊藤先生の熱い講義はその後も続いた。


一息ついたところで、伊藤先生はチラッと時計を見ると、何かを思い出したようだった。

「もう、こんな時間か。もっと話していたいのですが、このあと予定があります。申し訳ないが、続きはまた今度ということで」

そういうと、伊藤先生は慌てて出かける準備を始めた。


慌てる先生の様子を見て、久志彦は焦って質問した。

「ヲシテを理解して、試練を乗り越えるために何をすればいいのか、何かアドバイスはないですか?」

ヲシテ文字やホツマツタヱの概要は何となくわかったが、結局、これから何をするべきか具体的なことは何もわかっていなかった。


「そうですね、おじいさんの手帳にしたがって行動するしかないと思いますが、ヲシテを理解するためには、ぜひ私の本を読んでください」

そういうと、伊藤先生は自分の著書を久志彦に手渡した。


「ありがとうございます」といって、久志彦がカバンに入れようとすると、

「一冊、二千円です。住吉さんも必要ですよね」といって、笑顔でミホコにも手渡した。

久志彦とミホコは、とまどいながらも財布を取り出して、それぞれ二千円を支払った。


伊藤先生の事務所を出ると、すでに夕闇が迫っていた。駅に向かう道は買い物をする人や学校帰りの学生たちで、にぎわっていた。


「気づいたら、本を買わされていましたね」

久志彦はお人好しと思っていた伊藤先生が、少し強引に本を売りつけたことに納得できずモヤモヤしていた。


「買わされたというのは、伊藤先生に対して失礼でしょ。私たちはホツマツタヱのことを、まったく知らないんだから、勉強するために必要な本を買っただけよ。関係ない本を買わされたわけじゃないわよ」


「それはそうですけど、いい人だと思っていたのに、ちょっとがっかりしました」


「伊藤先生は見ず知らずの私たちのために時間を作って、無償で特別講義をしてくれたのよ。まずは、そのことに感謝するべきよ。受講料を払っていないのに、教科書を買わされたって文句をいう陶邑君の方が、がっかりよ」

ミホコの語気は強く、怒りと軽蔑の気持ちがひしひしと伝わってきた。


「すみません、子どもみたいなことをいってしまって。帰ったら、伊藤先生にお礼のメールを送っておきます。住吉さんも、ありがとうございます。僕のために東京まで一緒に来てくれて」

久志彦は自分のことばかりに気を取られて、相手のことを考えていなかったと深く反省した。


「わかってくれたら、それでいいのよ。そういう素直なところ、嫌いじゃないわ」

ミホコは笑顔だった。久志彦も、ミホコの真っ直ぐでさっぱりとした性格は嫌いじゃないと心の中で思っていた。


駅までの道中、久志彦は伊藤先生の話をできるだけ理解しようと、ミホコを質問攻めにした。ミホコは嫌な顔をせず、笑顔で答えてくれた。


帰宅の時間にはまだ早いため、駅前はそれほど混んではいなかった。コンビニを見つけたミホコは「飲み物を買ってくるわ」といって店内に入った。久志彦はコンビニの前でミホコを待ちながら、乗り越えるべき試練について考えていた。


じいちゃんの手帳にあった墓参りとは、陶邑家の先祖だけでなく、人類の祖先ともいえる人たちが眠る神体山にも参る必要があるようだ。その順番にも、何か意味があるのかもしれない。行けば、その意味がわかるのだろうか。


久志彦は答えの出ない自問自答を繰り返していた。そのとき、突然、背中を強い力で押された。そのせいで、久志彦は勢いよく車道に飛び出してしまった。走ってきた車とぶつかりそうになったが、久志彦が慌てて歩道に戻ったので命拾いをした。


「陶邑君!」と大きな声で叫びながら、ミホコが慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫、怪我はない?」ミホコは幼い子どもが転んだときの母親のようだった。あまりにも心配するミホコを、周囲の人は何があったのか探るように見ていた。久志彦は周囲の人から注目されて恥ずかしいのと、目の前のミホコとの距離が近すぎて、思わず照れ笑いをしてしまった。


「笑いごとじゃないわよ。こんなに心配してるのに」

ミホコは久志彦の無事を確認して、安心しながらも久志彦の態度に腹が立ったようだった。


「大丈夫です。心配させて、すみません。ちょっと、バランスを崩しただけですから」


「そんなことはないわ。私、ちゃんと見ていたのよ。明らかに、陶邑君を狙って背中を押していたもの」


「えっ、僕を狙っていたんですか? でも、初めての東京で知り合いはいないし、誰かに恨まれるような覚えもないですよ」


「どんなことで恨みを買っているかは、自分ではわからないものよ。とにかく気をつけなさい」


久志彦は、ミホコが保護者として自分に接していることはわかっていた。それでも、出会ったばかりのミホコと急速に心の距離が縮まっていることが嬉しかった。


ミホコの背後には、ミホコが駆け寄ってくるときに投げ捨てたカバンの中身が、派手に散乱していた。久志彦はそれらを一つずつ拾い上げて、ミホコに手渡していった。その中に、久志彦が朝の新幹線で食べたものとまったく同じ塩むすびがあった。


久志彦は塩むすびをミホコに手渡しながら、

「住吉さんも、塩むすびを買っていたんですか?」と聞いてみた。


「あー、それは」といって、ミホコは困ったような顔をして、いい淀んだ。


「実は、私も朝の新幹線の車内で食べようと思って買ったんだけど、陶邑君と同じ缶コーヒーを飲んで、同じ塩むすびを食べるのが何だか恥ずかしくなって、食べるのをやめたのよ」


ミホコは照れくさそうに、そう説明した。初めは気の強そうなイメージだったミホコが照れている姿を見て、久志彦はミホコに女性としての可愛らしさを感じていた。そして、好みが同じであることに驚きつつも、また嬉しくなった。


電車を乗り継いで新幹線の座席に着くと、久志彦は初めての東京と、伊藤先生と対面する緊張感からようやく解放されて、全身から一気に力が抜けていくのを感じた。それと同時に、仕事や大学の授業では感じたことがない疲労感がのしかかってきて、そのとてつもない重さに身動きが取れないような感覚になっていた。



「陶邑君、もうすぐ新大阪よ」ミホコに名前を呼ばれて、久志彦は目を覚ました。久志彦にとっては、意識を取り戻したという感覚に近かった。自分の体にヲシテ文字が現れてから、よく眠れない日々を過ごしてきたが、久しぶりに熟睡できたような気がする。


しっかり目を開けて横を見ると、隣の席に座っているミホコが、寄りかかってくる久志彦の体を支えてくれているのがわかった。久志彦はすぐに姿勢を正して、ミホコに謝った。


「よく寝てたわね」ミホコは笑顔でそういった。そのやさしい笑顔は、はっきりとは思い出せない母親の面影と重なった。母親が亡くなったのは久志彦がまだ幼い頃だったので、母親の表情や声といった、母親の温もりを感じるような記憶はほとんどない。


久志彦が生まれた頃に撮影した写真が数枚あるので、母親の顔はわかる。しかし、母親と過ごした日々や、思い出と呼べるような記憶は、久志彦にはまったくなかった。


「ところで、次はどうするのか、もう決めたの?」


「はい、とりあえず墓参りに行こうと思っています」


「私も一緒に行くわ」


「いや、普通に墓参りするだけですよ」


「太田教授から、陶邑君に同行して、すべて報告するようにいわれてるから気にしないで。お墓は実家の近くにあるの?」

初めて会ったときは、久志彦の手助けをすることに乗り気ではなかったミホコが、あまりにも積極的なので久志彦は不思議に思った。


「いえ、陶邑家の墓は大阪の堺にあります。陶荒田(すえあらた)神社の近くで、僕も小さい頃はそこに住んでいました。でも、火事で家が全焼してしまったので、和歌山に引っ越したんです。あっ、でも最初は丹生都比売神社に参拝するように書いてあったので、まずは天野(あまの)の里ですね。これも一緒に行きますか?」


「もちろん、おじいさまの手帳に書いてあることを実行するときは、私も同行するから必ず連絡してね。それと、私もあなたの乗り越えるべき試練について調べてみるから、おじいさまの手帳をコピーさせてもらえないかしら?」


「それは、すみません。祖母から、他人には見せないようにいわれています。祖母がいうには、知る必要のない人を守るためで、知らない方が幸せなこともあるそうです」


「私は知る必要があると思うけど、おばあさまにいわれているのなら仕方ないわね。じゃあ、次は丹生都比売神社で会いましょう」


「はい、よろしくお願いします」

そういって、ミホコと別れた。久志彦は、手帳のことで、せっかく縮まったミホコとの心の距離が、また離れてしまったかもしれないと後悔していた。

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