ストーキング・マトリョーシカ

十戸

ストーキング・マトリョーシカ



     1


「きみも見てみるといい。きっと面白いことがわかるだろう」

 そう言ってマティアスは笑った。

 まるで脈絡のない言葉のように思えた――そもそも話をしていたわけでもなかった。いつものようにマティアスから声をかけられ、それで自分は何と言っただろう。「うん」とか「ああ」だとか、いかにも気のない生返事のほかに。

 あれはいったいどういう笑顔だったんだ? わからない。

 わかりたくもないような気がした。

「……」

 窓から漂う冷気のせいで、左腕と左脚がひどく冷えた。

 カップに手を伸ばす。硬くこわばった椅子に座っているきり、窓の向こうを見つめるほかにすることもない。店に入ってすぐ注文したコーヒーはすっかり冷たくなっている。傾けた拍子に、底の方に鈍く沈んだミルクの澱が不気味にゆれた。口をつけかけて、けっきょくソーサーの上に戻す。まだここでコーヒーを飲んでいるのだと店員に示す、そのための莫迦げたポーズ。まだ追い出されるわけにはいかなかったが、懐はわびしく、カップの中身は空も同然だった。……。

 眼鏡を外して眉間を揉む。あまり長いこと目を離していたくはなかった。数秒後にはさっとかけ直す。

 このごろ度を上げたおかげで遠くまでよく見えるようになったが、まだ慣れない。目のまわりや顔が凝ってしかたがなかった。

(マティアス)

 おれが座っている席からは、マティアスの暮らす学生寮の部屋がよく見えた――いや、正確には部屋の壁がいくらかと、頼りなげに並ぶドアたちが。寮はどうしてか、棘だらけの茨の藪に取り囲まれていた。そのせいで、ほかの建物や道からいくらか奥まったところに建っている。

 それぞれの部屋に入るための道はたったひとつ、建物に面した路地から延びる黒い手すり付きの階段だけ。ドアさえ見つめていれば、誰がいつ出入りしたかは容易に確かめられるはずだった。

(あの日、)

 あいつは制服の下に臙脂色の薄手のセーターを着ていた。そこへもって紺のシャツを合わせているのが、なんとも嫌味なやつだと思ったのを覚えている。あの色の合わせ方ときたら……。靴はよく光る黒のエナメル。服に疎いおれみたいなやつが見たって、あいつがめかし屋だってことは一目でわかる。

(しかし、なぜ?)

 マティアスの羽振りの良さは異様だった。いつ見ても長さの変わらないよく櫛の通った髪、血色良く清潔な肌、制服姿にそぐわぬ化粧の匂い。いかにも高価そうな鞄と、そこから取り出される刻印入りのペンの群れ。これ見よがしに垂らした金時計。

 どう考えても不自然だったが、ほかの金持ち連中は気にしているふうもない。おれが勘ぐりすぎているのかも知れなかった。連中にとっては、むしろあれくらいがちょうどいいように見えるのかも知れない。右を見ても左を見ても、ここにいるやつらのほとんどは、生まれた家に戻れば身の回りの世話を人にさせて暮らすようなやつらだった。家名を聞けば、一度は耳にした覚えのあるものばかり。その兄弟やら従兄弟やら、同じ苗字をした学生が、毎年うじゃうじゃ入学しては卒業していく。おれみたいなやつは少なかった――食事代にも事欠くような奨学生。ここの連中がコーヒー一杯で粘るというのは、つまるところそこまで真面目にやってるわけじゃない。いまこのひととき、恰好をつけるためにやっているようなものだ。あるいは、ほかの贅沢品のための莫迦ばかしい節約。

 学費はもちろん、ここで暮らす生活費だって莫迦にならない。寮に入るにせよ部屋を借りるにせよ。名無しの家に利口な子供が生まれたところで、その賢さに賭けるためには金が要る。……。

(しかしあいつはどうだ?)

 マティアスは一通りの授業が終わると、そのまま真っ直ぐに自分の部屋へ帰っていく。ほとんどわき目もふらずに。あれだけの気取り屋が出歩きもせず? 学校にいる間、あいつの周りにはさまざまな人間がひっきりなしに群れている。あいつはひどくおしゃべりだった。どんなときにも上機嫌で愛想がいい。誰に対しても。おれみたいに、とにかく放っておいてほしいと思うような人間にも、マティアスはどうしてかよく声をかけてきた。

(どうしてあんなやつを、いままでろくすっぽ知らなかった?)

 マティアスはよく笑いよく話した。特定の誰かと親密になるわけでなく、無数の学生、教師たちの間を足どり軽く飛び回る。しかし去年、おととしはどうだったかと言えば……。

(よく覚えていない)

(いままで授業が一緒になることがなかったと言えば、それだけなのかも知れなかったが)

 そんなやつが、家に帰るとならば一目散、毎日毎日たったひとり、寮の自室で誰とも会わずに過ごしているなんてことがあるだろうか?

 おれにはずいぶん妙な話に思えた。

(食事は?)

 自炊するにも食材を用意している様子はない。

(洗濯は?)

 籠を持ち出しているところを見たことがない。

(買い物は?)

 いつも持っているのは、四角く平らで、見栄えはいいがろくすっぽ物が入らない学生鞄だけ。

 もちろん頭ではわかっている。そんなもの、おれが見ていないときに何かしら用立てているんだろう。朝も昼も晩もここでつきっきりなんてわけにはいかない。同学年といえ、クラスは別だった。学校で顔を合わすこともそう多くはない。そんなのは当たり前だ。この店にいる時間なんてたったの数時間、高が知れている。それでも。

(それでも何かがおかしかった。見ていなくてはならないと思った。あいつはどうにも……)

 気に障る。

 マティアスのまわりには、奇妙に生活の気配が抜け落ちているように見えた。暮らし。どのように生きているか。そういったものが。

(ふだんあれだけ見せびらかしているものを、あいつはどうやって手に入れている?)

 とくに裕福な家の出というわけではない。そのへんにいくらもいるような平凡な名。親類らしき学生も見当たらない。しかもあいつは寮暮らしだった。部屋を借りてるわけじゃない。

 おれにはひどく不気味なやつのように思えた。

 わからないことだらけだった、こうして毎日見張っていても。

 なにせ何も起こらないのだから。

「やあ、リュシアン!」

 ふいに横合いから、よく知った声がした。

「ひとりかい。なんだか最近は待ちぼうけを趣味にしているみたいじゃないか?」

 ――ロジェだ。

 不承不承、おれは窓の向こうから、店のなかに目を戻す。

「なんだい、舌打ちすることないだろう。ずいぶんのんびりしてるみたいだから、一杯おごってやろうと思ったのに」 

 ロジェは菫色の目を細めて笑った。手入れの行き届いた手で椅子を引き、そのまま勝手に腰を下ろす。椅子の脚が敷石の段差を掻く耳ざわりな音。

 こいつはいつもこうだ。

 横合いから急に身を乗り出して割りこんでくる。それが当然って顔をしながら。

「べつに」

 息を吐く。

「待ってるってわけじゃない」

 それだけ言って、また窓の外に目をやる。できることなら、いっときも目を離さないでいたかった。この店にいる間は。少なくとも、何かに気をとられて見落とすようなことは避けたかった。

 おれの言葉にロジェは笑った。

「はあん、ま、僕としちゃ何でもいいがね」

 首に巻いていたマフラーを外して、襟を引っ張り口を開ける。

「それでもあまりお行儀がいいとは言えないじゃないか、え? 優等生。きみらしくない」

 言って、指先がテーブルを叩く音。おそらくはおれの前に置かれた、冷めたカップを示して。

「そもそもそういう店ではあるがね。僕ら学生にとってこの店はまさしく天の助け。慈悲深き恵みの園だな。あちこちふらつくぼんくらたちを引き受けて、こうして屋根の下へ置いてくれるんだから。ああ――すみません! ええ、ええ。コーヒーをもう一杯。それから……、」

 ロジェがあれこれ頼む声が聞こえる。飲み物だけじゃない。余計な注文もずいぶん混じっているようだった。

「リュシアン」

 店員が去っていく足音がしていた。

「前のほうが似合ってたのに」

 ふいにロジェが言った。斜めにずらした椅子にだらりともたれて、長い脚を持て余すように組みながら。おれはなんのことかわからなくて、一瞬彼のほうを見てしまう。

「何の話?」

「眼鏡だよ」

 とんとん、とロジェは自分のこめかみを人差し指で軽く叩く。

 ロジェは裸眼だった。


     2


「やあ、リュシアン! なんだか最近は待ちぼうけを趣味にしているみたいじゃないか?」

 そう言って、私はリュシアンの向かいの席に乗りこむように座った。返事はなかった。舌打ちを返事に数えなければの話だが。

 彼がいるのは、窓際の席だった。店の一番奥の突き当たりにある、一番大きな窓のある席。入口からも厨房からも一等遠い。ガタついた丸いテーブルに、幅の狭い椅子が二脚向かい合って置かれている。それでも背もたれのついているだけましかも知れない。リュシアンは入口に背を向けるように座っていた。

 窓枠は黒ずんであちこち拭き痕が残っているような有り様だったが、こんな学生向けの店にしては洒落た造りだ。作った人間の意思を感じないでもない。

 薄汚れた窓の向こうに見えるのは、町のなかにぜんぶで5つある寮のうちひとつだった。それぞれ1番棟、2番棟、ときてここは3番棟と呼ばれている――軒下には大きく「3」とくりぬかれた青銅の看板が下がっていた。

 学校からの距離はまあまあ、遠くもなければ近くもない。番号にふさわしく真ん中あたりの、どっちつかずの場所に建っていた。部屋の評判としても中の中、可もなく不可もなくといったところ。ちょっとした坂の上に建っているからほかとくらべて眺めがいいだとか、門限にうるさくないところがいい、というやつもいたが、話に聞くのはそのくらいのものだった。

 寮のまわりは誰が植えたものだか、生気のない茨でぐるりと覆われている。花をつけたところを見たことはない。まだ生きているのか、それとも枯れているのかはわからなかった。

 趣味は悪くないものの、外が見えるとはいえ眺めは最悪、おまけに夏は暑く、冬はべらぼうに寒いとあって、お世辞にも人気のある席ではなかった。店員の掃除がいい加減になるのもうなずける。この店に根を生やすとして、ここへ自分から進んで座りに行くようなやつはそうそういない。

(何かとくべつ見たいものでもない限りは)

 ほんのいっとき私に目を向けたきり、リュシアンはまた窓のほうへ視線を戻した。

「なんだい、舌打ちすることないだろう。ずいぶんのんびりしてるみたいだから、一杯おごってやろうと思ったのに」

 こみ上げる笑みをこらえ、ついでに口元を手で隠しながら、私は空いている椅子の背を寄せて引っ張った。床を引きずられた椅子がぎりぎりと抗議の声を上げる。まあきっと私がにやついてるのなんて、とっくにバレているだろう。お互いなんだかんだ長い付き合いだ。私がどういうやつかなんて、リュシアンはもうあらかた知っている。

 不機嫌な顔をしてはいるが、追い払われはしない。

(おやおや)

 意外ではなかった。

 この店にコーヒー一杯で粘る学生は恐ろしく多いが、見逃してもらえるにも限度はある。直接出て行けと言われたりはしないまでも、店員の顔つきはいくらかなりと険しくなる。まあ、リュシアンみたいなやつは店員の目が気になるんだろう。そういうやつだ。そもそもふだんなら、こういう長居するのが目的なんて店に来ることもない。リュシアンはお行儀のいい学生だった。

 こんなふうになる前は、食事だろうが何だろうが、学内の食堂に行くくらいがせいぜいだった。

 待ち合わせという体で私が注文を入れてやれば、あと何時間かは後ろめたい気持ちにならずに済むだろう――ついでに、何かしら食べさせておきたくもあった。もとから痩せているほうだったが、近ごろはやけに骨ばって見える気がする。おまけに顔色も悪い。血の気がない。ただでさえ白い頬が青褪めて、くすんで見える。

(こんなことに根を詰めてもしょうがないだろうに)

 軽く手を挙げて店員を呼ぶ。宣言通り、リュシアンのためにコーヒーのお代わりを注文してやってから、自分用にオレンジジュースを頼んだ。それから胡桃入りのビスケット。卵だらけで野菜も肉もろくに入っていないキッシュを一皿。玉ねぎの入っていない玉ねぎのスープと、穴だらけのしけったバゲットも。

「まったくしょうがないやつだな。すきっ腹にコーヒーばかり入れるのはよくないだろ。水ってわけでもないんだ、え?」

 店員が立ち去る間にも、リュシアンはとっくに窓の外に視線を戻している。あからさまに、聞いちゃいないという態度で。

 私は小さく笑った。私に一瞥もくれない横顔に。いまやリュシアンの灰色の瞳には血がのぼって、ほとんど真っ白に見える。金色に光る眼鏡のフレームに囲まれて、いまはその白さが一層際立っていた。

 このごろ買い替えた、真新しく歪みのない、ほっそりとした金縁の眼鏡の真ん中で。

 彼の目を見るたび考える。物にしろ人にしろ、リュシアンには世界というものがいったいどんなふうに見えているんだろう?

 あれだけ淡く薄い色の目をして。

 ここにはいま、私の知らないリュシアンが座っている。

(きみはいったい、あいつの何がそんなに気に入らなかったんだろうね)

 こんなことははじめてだった。

 自分を含めて、リュシアンが特定の誰かを、これだけ気にするなんてことは。

(そうはないってくらい大らかな態度?)(人好きのしそうな性格?)(あけすけな笑顔?)(自信に満ちた声の響き?)(いかにも優しくて利口ぶった物言い?)(はたまた単純に顔立ちとか?)(すらりとした背、突飛なところがあるとはいえ趣味のいい服、頭だって悪くない、成績優秀、むしろ利口の部類に入る)(これかと思うものを勝手に挙げていけばきりがない、たしかにあいつは目を惹くからね、……)

 リュシアンの目が瞬きをする。何度も閉じては開きながら、けれど視線はそのまま。眉間にしわを寄せて、窓の向こうを一心に見つめている。

 マティアス。

 それがあいつの部屋だってことは私も知っていた。いつもなら図書室だの古本屋だのに入り浸るリュシアンが、なぜこんなところへ毎日のように根を生やしているのか。人嫌いのリュシアン。奥まって閉じこもった、静かな場所にいるのが常だった。

 私は知っていた。わかっていた。

 何しろこの店のこの席からは、あいつの部屋がよく見える。ほかにそれらしい心当たりもなかった。あの寮のあの階に暮らしている知り合いはマティアスだけ。……。

 店員の近づく気配がする。古いカップが片され、湯気の立つ新しいコーヒーが置かれる。それからオレンジジュースの入ったグラス。ビスケット。食事はどれも、まだ少し時間がかかるようだった。私は小さく礼を言って、オレンジジュースを飲み始めた。濁って、苦みがあり、あまり新鮮でない証拠に酸味はあまりない。死んでいるみたいな味だった。切り分けられて潰され、グラスのなかに押しこめられたかわいそうなオレンジ。生きていたころの面影はもう残っていない。この街で口にできる果物は、みんなそんな匂いと味がする。

 しかしリュシアンがいったいあの部屋の何を見ているのかとなれば、私にはよくわからなかった。(あいつを追いかけるにしたって、ほかにいくらも方法があるんじゃないか?)(直接声をかけるとか)(部屋の中身が覗けるわけでもないのに)

(なぜここなのか?)

 こんなところから、リュシアンはマティアスの何を見ようとしているのか。

 私も窓の向こうに目を凝らしてみた。あいつがねぐらにしているにしては、地味で面白みがなかった。(あいつは突飛なものが好きだ)(することにしろ身に着けるものにしろ)寮の最上階、四階にあるマティアスの部屋のドアは暗い緑に塗られていた。どういう工夫か知らないが、どのドアもそれぞれ違う色で塗りわけられている。灰色、黒、茶、そして暗い緑。どれもこれも冴えないトーンだった。マティアスの部屋のドアはただひとつ、そのなかでも色らしい色を持っていた。

 ふっと息を吐く音が聞こえて、窓の外でなくリュシアンの顔に目を向ける。彼は眼鏡を外して、ため息交じりに指で眉間を押さえていた。それでもすぐにかけ直して、窓の外を見始める。

 見続けている。あのドアを、あるいはその向こう側を。

 リュシアンと知り合ってもうかれこれ四年になる。私にとってはそれなりに長いが、リュシアンにとってそうかは知らない。私にとってはそれなりの手触りを持った時間ではあった。まだ自分が何者かも知らず、子供ながら子供として扱われなくなる年ごろのうちの四年間。リュシアンと知り合ったのはこの学校へ入ってすぐのことだった。お互いあれからずいぶん背も伸びた。

(それにしても)

 彼のこんなしかめ面を見たことはなかった。これまで一度も。本当に、マティアスの何がそこまでリュシアンの印象やら心やらに引っかかったのかはわからない。

(いままでこの学校にあいつがいることも知らなかったくせに)

 注文した食べ物がようやくテーブルに届けられる。にわかに混みあうテーブルの上、コーヒーをリュシアンの前に置き直した。それからキッシュの皿も。ついでにフォークも載せてやる。スープやバゲットはいくらか離れたところへ並んだ。

 リュシアンはこちらを見もせずカップに手を伸ばす。……。

 私は笑った。

「前のほうが似合ってたのに」

 リュシアンが一瞬、怪訝な顔で振り返る。

 瞳の灰色が深さを増す。

「何の話?」

 私は自分のこめかみを、人差し指でとんとん、と叩いた。

「眼鏡だよ」


     3


「お茶をください」

 そう言いながら、ふうっと息を吐いて、鞄を開ける。ちらっと見まわした店内は、空いているでも、混んでいるでもない。埋まっているテーブルもあれば、誰もいないテーブルもある。いつ来てもそんな調子だった。長居のできる学生に優しい店、という評判ではあったけど――もうだいぶ古くなっているのと、出されるコーヒーがあまりおいしくないらしい、せいかも知れない。

 コーヒーは苦手だった。

 みんな、誰も彼も飲んでいるけれど……いい匂いだなと思いはしても、飲みたいとは思わない。

 酸っぱくて苦くておいしくないし、何より、飲むと決まってお腹が痛くなったから。「ルネは子供舌だ」と笑われることもあったけど、僕はそんなこと気にしない。

 お店の人が、紙に注文を書きこむかすかな音がした。その音がするたび、飲み物ひとつ頼むだけでもああしてメモをするんだな、それってなんだかとてもいいな、と僕は思う。

 遠ざかっていく重い足音を聞きながら、僕はテーブルに鞄の中身を並べていった。

 教科書。辞書。先生から指定のあった副読本。それからノート。ペンを二本。もちろん、ここでぜんぶを使うわけじゃなかった。だってこんなの、本当に勉強するんだったら多すぎる。

 ここはひとりで席を占領していても、勉強しているふうを装えば、文句も言われず長いこと置いてもらえるということだった。そういう話があるだけで、お店が言ってることなのかは知らなかった。じっさいちゃんと勉強してる人が、どれくらいいるかはわからなかったけど。そういうポーズも取らずにただ居座っている人も、なかにはたくさんいた。少なくとも、そういうふうに見える人たちが。

 僕がいるのは、店へ入って左手側の、壁を背にしたふたつめの席だった。

 内側の壁は、全体がそういう造りになっている。壁側に作りつけの赤いソファ。その前に、ふたりがけ用の小さなこげ茶のテーブル。テーブルの反対側に、同じ色の椅子が一脚。どれもふたりがけの席だった。真ん中には大きな丸テーブルがふたつ並んで、そこは四人席になっている。テーブルを寄せればちょっとした集まりにも使えそうだった。

 あんまり大きな店というわけではなかった。ほかに入ったことがないから、そんなことはないのかも知れないけど。でも、食堂の半分くらいの広さしかない上に、席につける人数はもっと少ないように見えた。テーブルはずっと小さいし、ぜんぶで十台だけ。三十人も入れない。

 僕は壁側の、ソファのほうに座っている。ごわごわの赤い座面はすっかり硬くなって、おまけにあちこち破れて中身がはみ出していた。座り心地はあまりよくないけど、贅沢は言えない。

 この店へ来ると、僕はなるべくここに座る。今日はまだ、誰も座ってなくて本当によかった。

 だって、この席がいちばんよく見える。

 ロジェ先輩は今日もすてきだった。

 撫でつけた金髪はきらきらして、制服だってひとりだけ、なぜだかほかの誰ともぜんぜん違う。みんなとそっくり同じものを、みんなとそっくり同じように着ているはずなのに。

 先輩は今日も一番奥にある窓際の席に座って、店の内側、つまりこちら側に顔を向けていた。そのせいで、先輩の顔が、あの菫色の星みたいな、きれいな目がよく見えた。

(先輩、……)

 この何週間かは最高だった。

 どうしてかロジェ先輩はこのくらいの時間、決まってあの席に来るようになった。これまではずっと、先輩の行きそうなところをあちこち探して歩く必要があったけど、いまはこの店に来るだけでいい。なぜか毎回一緒にいるやつは、なんだかちょっと……嫌な感じだったけど――正直いなければいいのにって思うけど――でもどうやら、先輩は毎日あいつと待ち合わせてここへ来ているみたいだった。

「お待たせしました」

 ひとつ低い声がして、テーブルにカップが置かれる。僕が教科書やノートを広げず、あけておいた隙間に。それから小ぶりのティーポット、砂糖壺とミルクも。

 僕はいったんノートとペンを置いて、ティーカップに砂糖を入れた。ひとつ、ふたつ、みっつ。粒の粗い角砂糖はお茶に触れるとぼろっと崩れて消えていった。底に残った塊を、柄のちょっと曲がったスプーンで混ぜる。カップを両手で挟むように持って、一口、二口と飲んだ。まだ熱いから、そうたくさんは飲めない。コーヒーはどうか知らなかったけど、お茶はけっこうおいしい、……と思う。

 先輩のほうを見る。

 テーブルにはまだ何もなかったけど、そのうちオレンジジュースのグラスが置かれるはずだった。

 先輩はいつも、決まってオレンジジュースを注文する。

 この店でも、食堂でも。べつの店でミント水を飲んでいるのを見たことがあったけど、それだって一度だけ。コーヒーやお茶は頼まないみたいだった。

(ほかには、どんなものが好きなんだろう……)

 学年がよっつも離れているものだから、僕は先輩のことをまるで知らなかった。ふだん授業を受けている校舎も離れていたし……昼食の時間だってずれている。学年ごとに少しずつ昼休みが違うのは、食堂が混まないようにするためらしかった。それってなんだか逆に大変な気もするけど、そういうふうになっている。追いかけようにも、いろんなものが遠かった。だから授業がぜんぶ終わってようやく、先輩の顔を見に来られるようになる。

(僕のことなんかきっと忘れてるだろうけど)

 先輩にはじめて会ったのは、まだ入学したてのころ。

 来たばかりの学校はおそろしく広くて、柱にしろ壁にしろ、どこを見てもまるで同じに見えて、僕はしょっちゅう道に迷っていた。

 家とはぜんぜん違った。それまで通ってた小さな塾とも。広くて、大きくて、色がなくて。まわりは灰色ばっかりで、何を目印にしたらいいかもわからない。

 その日も授業の片付けや何やで出遅れて、僕は迷子になっていた。いつもならそのへんにひとりかふたりはいるはずのクラスメイトも、どうしてか見当たらない――誰もいないってことはなかったけど、背の高さからして同級生には見えなかった。

 そんなに遅くなってしまったんだ、と思って、僕はすっかり怖くなって、慌てて、そうするともう自分がどこにいるかも、どこへ行けばいいかもわからなかった。

 あのとき、僕っていったいどうしてたんだろう? 混乱してうろたえて、どうしようって思っていたことだけ覚えている。たぶんその場に突っ立って、呆然として……。

「やあ、迷子かな?」

 とつぜん、そう優しく声をかけられて、僕はびっくりして飛び上がってしまった。

 声をかけてくれたその人は、僕の顔を覗きこむように見ていた。きれいに撫でつけた金色の髪、菫色のきらきらしたひとみ。光ってるみたいに明るい声。

「きみ新入生だろ。次どこ行くかわからなくなってしまったかな。ここはべらぼうに広いから、慣れるまでは大変だ。うん? おやおや」

 先輩は笑って、僕にハンカチを差し出した。

「かわいそうに。大丈夫だよ、みんな大なり小なり最初のころは迷うんだ。きみだけじゃない。ほら」

 それでようやく、自分が泣いていることに気づいた。僕はものすごく恥ずかしい気持ちでハンカチを受けとって、おずおずとそれを使った。イニシアルとおぼしきRが白文字で刺繡された、大きな白いハンカチ。ふっと果物の匂いがした。柑橘とラベンダー。それからローズマリーがほんの少し。

 くらくらするほどすてきな匂い。

「誰かに訊けば大丈夫だからね。とにかく人がいるとこに出られればどうとでもなる」

 それから、先輩は僕をじっと見つめてから言った。

「さ、ついておいで」

 目当ての教室には、魔法のように瞬く間に到着した。

「ここで合ってるかな?」

「はい……」

「よかったよかった、教室が僕らのころと変わっていなくて。困ったときは遠慮せず、先輩たちを頼るんだよ」

 先輩は背を向けたままひらひらと手を振ると、あっという間に走って行ってしまった。

 ふたりで歩く間ずっと、先輩が僕のために歩調を合わせてくれていたこと。

 次の授業が始まるまでの短い時間に僕を送ってくれたこと。

 さっきじっと見ていたのは、僕が抱えていた教科書だったってこと。

 それと、ハンカチを返しそびれてしまったことに、僕はここでやっと気づいた。

 先輩の名前は、そのあとクラスメイトたちから教えてもらった。なんていうか、先輩はちょっとした有名人みたいだった。こんな感じの人なんだけど、と伝えただけで、すぐに誰だかわかった。

(ロジェ先輩)

 みんな知ってて当たり前だなという気持ちと、いままで僕ばっかり知らなかった、みたいな気持ちが半分ずつあった。

 けっきょくハンカチはまだ返せないまま、僕の部屋の枕元に置いてある。


     4


「お待たせしました」

 声をかけてからカップを置いた。ところ狭しと広げられた、教科書やノートの隙間に。

 勉強を言い訳に居座る学生は多いが、こんなふうにする子ははじめてだった。まるでごっこ遊びのようで、見るたびつい目を細めてしまう。笑っていることが不自然でないのは、客商売のいいところのひとつだ。何を見て、誰を見てほほ笑んでも、それらはすべて場にふさわしい愛想ということになる。

 さすがに物が混みすぎだと思ったのか、ノートを寄せるように引っこめる。その拍子に、彼の肩口で切りそろえられた栗色の髪がやわらかく揺れた。私はもう一度、また小さく笑った。

 まずはティーカップ。その横に、小さな錫のティーポットと、なんとかして砂糖壺と、それから、ほかの客に出すそれよりずっと多く注いだミルクを添えた。この子は決まって、コーヒーではなく紅茶を頼む。

 注文の品を並べ終えると、「どうも」と小さく、あいまいな礼の言葉が返ってきた。私は再び笑顔を作りながら、ごゆっくり、と口にする。この店ではそう告げたあと、どの客も本当にゆっくりしていくのだから、社交辞令というやつも難しい。

 テーブルを離れながら、ちらと彼の手元に目をやる。細く不安定な子供の指が、ペンを捕まえるように握って、いくつかの字を少しずつ書き出していく。年の割に、なかなかしっかりした字を書くといつも思う。使っているかどうかも怪しい本や何かをままごとのように広げて、テーブルを埋め尽くしながら、それでいてほかの多くの生徒たちよりよほどちゃんと勉強をして帰っていくのが、この子の面白いところだった。

 名前も知っている。ノートの表紙に書いてあったから。ノートばかりではなかった、彼はいくつかの持ち物に小さく自分の名前を書きこんでいた。几帳面でいじらしい習慣だと思った。親元を離れてひとり学校に送りこまれてはいるが、彼はまだ子供なのだ。自分の持ち物に名前を書いてしまうほどには。

(ルネ)

 はじめて知ったとき、彼にぴったりの名前だと思った。

「パトリス、あの子また来てるの」

 厨房に入りしな声をかけられる。

 私はうなずきながら返事をする。

「ついさっきね」

「今日もお茶を一杯?」

「ああ」

 ふたり分の笑い声が返ってくる。いずれも好意的な響き。この店で働いているのは私を入れて三人。三人とも、学生たちはみな遠い親戚の子供のように感じている。街の住人たちの大半が、おそらくそうであるように。

 ルネは目を惹く客だった。テーブル中に物を広げるだけじゃない――よく手入れされた栗色の髪に、はしばみ色の大きな瞳をふちどる長く伸びた睫毛。薄くそばかすの散った白い頬。まだ背が大きく伸びる前の、子供らしい子供。

 私は二十年近くここで子供たちを見ているが、こうした店に来る新入生も珍しかった。それもひとりで。振る舞い、背格好、制服の傷みぐあい。ルネは明らかに、ここへ来たばかりの子供だった。

 ほとんどの一年生は食堂で過ごす。二年になってから複数人で学外の店に出入りするようになり、三年になるとようやく、ひとりかふたりで気兼ねなく遊び歩くようになる。例外がないではなかったが、たいていの子供たちはそうやって、少しずつ自分たちの世界を広げていく。

「パトリスもすっかりお茶を淹れるのがうまくなったよね」

 言われて、私は曖昧に笑った。

 あれこれと仕事をこなしながら、店内に繋がる小さな窓の向こうに、ときおりルネを見る。あまり近くはないが、ほとんど正面にいるものだから、顔も何をしているかもよく見えた。

 ルネはあれこれと本を開き、ページを読むふりをしてはノートにこまごま書きつけ、思い出したようにティーカップに手を伸ばす。

 そうして、店の奥にいる誰かを見ている。

 金髪の学生だった。年はルネよりもふたつ、みっつ上だろう。育ちがよく金を持ち、どのようにふるまえば人に好かれるかを知っている。目立ちはするが、珍しいわけでもない。ここではわりあいに平均的な子供だった。

 どうして彼が足しげくこの店に来るようになったか、私は知っていた。

(見られているほうは気づいているのか、いないのか)

 どちらともわからなかった。ルネと相手の視線はあまり噛み合わないように見えた。相手には連れがいる。黒髪に眼鏡をかけた痩せた学生だ。おそらく金髪と同学年だろう。

 ふたりは毎日のように一番奥の席で落ち合い、長い時間を過ごす。彼らもそれなりに興味深い客ではあった。必ず金髪のほうが多めに物を頼み、黒髪のほうに飲み食いさせようとする。なるほど、黒髪のほうはたしかにかなり痩せていて、顔色もいいとは言い難い。……。

 小窓から、ルネが帰り支度を始めるのが見えた。

 拭いていた皿を棚にしまい、手を洗って厨房を出る。

 ルネはいつも、目当ての相手よりずっと早く会計を済ませた。下宿先の門限でもあるのかも知れない。そういうところは多かった。とくに預かる子供が一年生となれば、なおさら。

「お会計をお願いします」

 テーブルに広げていたものを鞄に詰め終わったところで、ルネが言った。

 紫色の小さなコインケースを手に載せ、細く幼い指先に一枚一枚中身を数えている。どういったこだわりがあるものか、ルネは釣銭の出ないように支払いをした。

 小さな背中を見送って、テーブルを片づける。彼が座っていたソファからは、いつもかすかに柑橘の香りがしていた。それからラベンダー。あるいはローズマリー。

 日が傾いて、床に赤い光が落ちている。そろそろ客が増える頃合いだった。

 私は前掛けにしのばせた万年筆に触れる。

 それは先ほど、ルネのテーブルからもらったものだった。

 トレイを厨房に下げ、湯を沸かし始める。店内に戻ると、ちょうど客が入ってくるところだった。いつもここで夕食を食べる常連のひとり。夕方からくる客は教師や住人が多く、顔ぶれは何年もの間あまり変わらなかった。お互いの顔と名前を覚え、日々の挨拶を交わし、何を飲んで食べるかまで知っているような客たち。

 この時間ともなれば、閉店までは一瞬だ。

 頭で考えることもなく、身体が動いてやるべきことをこなしている。私だけでなく、ほかのふたりも似たようなものだろう。客を迎え、注文を聞き、食事を出し、片付け、これをくり返し続ける。客といくつか話すこともあるが、それも高が知れている。物珍しいことなら本人から聞くより先に噂になるし、当たり障りのない話題には内容がない。

 洗い物を済ませ、床を掃き、照明を落とす。

 仕事仲間の二人は先に帰っていた。

 店じまいは毎日交代ですることになっている。

 私は厨房横の休憩室で帰り支度を始めた。

 前掛けを外し、自分の服に着替える。ルネの万年筆はそのままにせず、前掛けからジャケットのポケットへ移動させた。うっかりそのまま洗ってしまったら、インクが漏れて悲惨なことになる。

 真鍮製の、小さいが造りのいい万年筆だった。携帯することが前提に作られている。蓋のところには、細い線で字が刻印されていた――Rではない。家名とも違っている。親族から譲られたものなのかも知れなかった。たとえば父母。あるいは祖父。それとも兄弟の誰か。

 コーヒーを飲みながらしばらく眺め、カップを軽くすすいで電気を落とした。真っ暗になった店をあとに鍵をかける。空には大きく月と星。

 秋の半ばにしては冷える夜だった。

(今日はなかなかいい日だった)

 ルネも変わりなく店に顔を出し、いまは彼の持ち物がここにある。店はつつがなく開いて閉まり、あとはただ家へ帰るだけ。さほど店から離れていないアパルトマンに、家具つきの小さな部屋を借りていた。毎朝毎晩通い続けてきたせいで、放っておいても足が勝手に歩いてくれる。……。

 そうしてふいに、何か大きなものにぶつかった。

「すみません」

 頭の右側から声がして、それが何かでなく、誰かだったことがわかる。若い声だった。学生の誰かだろうと思われた。知らない声だった。

「いや、こちらこそ」

 暗闇のなか、つかのま相手がどこにいるかわからない。

 ここはちょうど建物のかげになって、街灯や家の明かりがほんの十数歩分ばかり届かない。落とし穴のように、突然ぽっかりと暗くなっている一角だった。

「びっくりしました。こんなに暗いと思わなくて」

 愛想のいい返事が返ってくる。

「怪我はしていない?」

 あまり強くぶつかったわけではなさそうだったが、念のために訊ねる。

「はい」

「それはよかった。気づかなくて悪かったね」

「いえ。僕も、ふだんこんな時間に外に出ないので」

「道はわかる? もっと明るい通りまで送っていかなくて大丈夫かな」

「大丈夫です。寮の3番棟に戻るところですから」

「ああ」

 うなずく。相手には見えていなかったかも知れないが。

 店の裏手にある寮へ帰るところらしい。それならたしかにもうすぐそこだった。

「それじゃ、失礼します」

 軽くお辞儀をするような気配とともに、靴音が足早に遠ざかっていく。

 靴音。

 ぶつかるまでは、聞こえていたかどうか定かでなかった。

(案外疲れているのかもわからないな)

 首を振って、私もまた、彼が去っていったのとは反対のほうへ歩き出した。角を曲がると、ぱっと街灯の光が現れる。それから家々の窓に点るいくつものかすかな明かり。いままで周囲に溶けていた自分の影が、地面に浮かび上がって長く伸びる。

 道を突っ切った先の門の鍵を開けて、庭と呼ぶには狭すぎる中庭を通り、奥にある階段を上る。私の部屋は五階にある。眺めのいい屋根裏部屋だった。それくらいしか取り柄のない、ささやかな住処。

 上着を脱いでドアの横に吊るす。軽くシャワーを浴び、そのまま寝支度も済ませてしまう。ここは私にとって、単に眠るための場所だった。生活はすべて外にある。必要なものも、そうでないものも。

 クローゼットを開ける。服はほとんどかかっていない。しばらく袖を通すことはないだろう夏服が数着。作りつけの衣装棚は空っぽだった。荷物らしい荷物もない。

(たったひとつ、)

 棚の上に置かれた、大きなブリキの缶をのぞいて。もとは焼き菓子が入っていた。子供のころ、たしか誕生日に親から買ってもらったものだった。

 いまは菓子の代わりに、ルネからもらったものがいろいろ収まっている。いろいろとは言っても、そう多くはない。片方だけの手袋にハンカチ。くしゃくしゃになった手書きのメモ。それから、彼が珍しくお茶をこぼしたときに使ったナプキン。ボタンがいくつか。目立たないように、何度か落とし物を返したこともある。あまり高価なものはもらわないつもりだった――傘や時計といったものは。

 私は蓋を開けたまま缶を置き、上着のポケットに万年筆を取りに行った。胸ポケットに入っているはずのそれを手探りし、……。

 そこには何も入ってはいなかった。

 思い違いだろうと、ほかの場所を探す。しかし見つからない。どこにもない。洗濯のために持ち帰った前掛けに入っているのでは? と思いかけ、今日は持ち帰らずそのままにしたことを思い出す。上着にもなく、ズボンにもなく、するともう探すところは残っていなかった。

 いまや心当たりはひとつしかなかった。

 悔やんでも悔やみきれない。

(あのとき)

 誰とも知れない学生とぶつかったとき、落としてしまったに違いなかった。


     5


 ドアを後ろ手に閉める。静かに、音をさせずに。

 ずいぶん久しぶりに歩いた夜道は、暗く冷たく心地よかった。

 マティアスは鍵をかけてから、部屋の明かりを点ける。手のなかには小さな真鍮の万年筆。それを、ときおり宙に抛ってはくるりと受け止め、手元に遊ばせる。

 もちろん、つい先ほどパトリスから手に入れたルネの万年筆だった。

 このところ、パトリスはルネの持ち物を集めるようになっていた――宝物とでも思っているのかも知れない。ひどいときには週に一度の頻度で。本人はよく用心しているつもりらしいが、あの店でばかり物を失くすとなればそのうち妙だと思うようになるだろう。ことに、祖父からもらった大事な万年筆を落としたとあっては。かわいそうな落とし物は、明日朝のうちに学校へ届け出ておくつもりだった。

 マティアスは笑った。声もなく。

「まだ早すぎる」

 このままもう少し見ていたって構わないだろう。

 マティアスは自室の壁一面に貼り出した街の地図を見つめた。地図には、ほかでもない彼の手で無数の書きこみがしてある。名前。年齢。学生か否か。職業。外見の特徴。何を好み何を嫌うか。平日と休日にはそれぞれ何をして過ごすのか。

 鉛筆といろとりどりのインクが、薄黄色の地図の上に群れをなして飛んでいた。字と印と数字に覆われてはいても、しかし目を凝らせばどれも判読可能。地図に描かれた地形、シンボル、通りの名前さえ読みとることができる。彼の文字はひとつひとつ鳥のはばたきに似ていた。

 地図だけだはなかった。そのすぐ下に置かれた書きもの机には大きなノートが広げられ、そこにもまた夥しい量の字があった。地図と並んで、そこにもまたこの街の住人たちの人となりと暮らしぶりが書き出されている。その横には双眼鏡が、マティアスの意図する用途に合わせ、ぜんぶで三台置かれている。ほかに机の上にあるのは、大量の鉛筆とペン、そうしてコーヒーがなみなみと注がれた大ぶりのマグ。中身はすっかり冷めているが、彼にとって大事なのは飲んで眠気が覚めるということだけだった。

 部屋のなかにあるものは少なかった――地図と机。日中はほとんど閉められることのない紺色のカーテン。背の高い棚がひとつと、その上に置かれた電気ケトル。クローゼットの内容は多少なり豊かだったが、さりとて替えの制服と、気に入りのシャツやベストが何着か吊るしてあるくらいだった。寮のシャワーと洗面所は共用で、マティアスはめったに使うことがなかった。眠気がもっとも強まる夜明けころに街を歩き、学校へついてから身支度をするのが常だった。

 それはあまりに愉快で、あまりに面白く、そうしてあまりに莫迦ばかしいことだった。

 彼はほとんど眠らずに見続け、そして書き留めた。

 もちろん、まったく睡眠をとらずにいられるかといえば、そんなことはない。さしもの彼も、人間ではあったから。いくらかなりと眠る必要はあり、食事をとる必要もあった。生きているためのこまごまとしたこと、日々の暮らしに費やす時間もないではなかった。

 そんなことをしている場合ではないのに。

 やらなくてはならないことは山ほどあった。

 見ていなくてはならないものが。

 知らなくてはならないことが。

 学生でいることはおおむね具合がよかった。昼間は誰にどう思われることなく、大勢の人間を見ていられる。話も入ってくる。食堂へ行けば、その日の食事を腹に入れられる。料理を頼んで、持ち帰りのパンを包ませ、それで十分だった。学校では誰も彼もきやすく、他愛なく自分や他人のことを教えてくれる。こちらが頼みもしないうちから。そうして街は学校を中心にぐるぐると回り、そのために必ず誰かが何かを知っていた。

 この街は視線に埋め尽くされている。

 同じ学年のロジェはリュシアンを見つめていた。

 後輩のルネはロジェを。

 さらにそのルネのことを、あの店のパトリスが。

 パトリスの暮らすアパルトマンの下階にもまた彼を見つめる住人がいるが、パトリスはまるで気づかない――その住人は二年ほど前から、パトリスの同僚に熱心に見つめられている。

 彼のことは店に通う常連客の、一年生向けの地理の教師が。

 そうして今年三年生になったある学生は、はじめて授業を受けてからずっと彼を見つめていた。

 彼の同級生であるまたべつの学生は、彼が自分を見てくれるように願っているが、どうもうまくいかない。

 おまけに、彼のことを見つめてばかり過ごす後輩に、どうしたら良いものか相談している始末。

 かわいそうな二年生は、憧れの先輩に振り向いてもらいたい一心で、彼に見てほしくもない相手の話に耳を傾ける。……。

 誰もが誰かを見ていた。

 いつも。どこでも。どんなときにも。

 マティアスは明るくなった部屋を横切り、椅子を引いて机に向かった。万年筆はハンカチに包み、一番上の引き出しにしまった――そこにはほかにも、落とし主に返しておかねばならないものや、しかるべきところへ届け出るべきものが収められていた。あちこちに散らばる個々の関係を壊すのはたやすく、維持することは難しい。放っておくに任せるときもあるにはあったが、まだ見ていたい住人たちにはこうして手を貸すこともある。

 外を見る。

 暗い夜のさなかに、点々と明かりが揺れている。人々がそこに存在していることを示す輝きが。けれども、いま彼が見ることのできるものは、それだけだった。

 いまや日は落ち、窓の外は暗闇だった。見たいと思うものは数知れず、しかし見ることのできるものはそう多くない。

 ここから先は書く時間だった。

 見たことを捉え、文字にし、取り返しのつかない形に保存するための時間。彼はたくさんのことを知っていた。すべてではないにせよ。誰に何を教え、何を隠し、何をうやむやにするかで人々は目まぐるしく行動と人生を変えた。いくらかなりと金が手に入ることもあったが――マティアスにとってそれはあくまで二の次、見ることの副産物でありおまけに過ぎなかった。

 見ていたかった。

 知りたかった。


 きみも見てみるといい。きっと面白いことがわかるだろう。





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ストーキング・マトリョーシカ 十戸 @dixporte

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