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 翌朝。目が覚めると、部屋にはあたしひとりだった。

 のろのろとベッドから身を起こし、下腹部に手を当てる。はじめて悪魔と交わったときと同じく、なんの違和感もなく、いつもの寝起きの身体だった。

 あんな目に遭ったというのに、この身が何も傷ついていないことが情けなかった。

 うつむいて深く溜め息を吐く。悪魔に会いたくなかった。母をたてに都合よく欲望の捌け口にされ――顔を見るのも嫌だった。

(でも契約履行中であるかぎり、あいつはあたしから離れない……)

 そして悪魔はきっと昨夜のことなど気にもとめていない。余得や雑収入くらいにしか思っていないに違いなかった。思いついたように軽い口調で昨夜のことを口にするかもしれない。そして、傷ついたあたしを見てわらうのだ。

 悔しさが込み上げ、知らず毛布の端をかたく握りしめる。

 それでもあたしは気丈にふるまうんだろう。自分の心を守るために。

(講義、休んじゃおうかな……)

 義父と同居が始まってから、悪魔は家にいるときはどこぞに消えて姿を見せないこともあるが、なぜか大学にだけは必ずついてくる。行けば会うことになる。

(……だめ。お義父とうさんに出してもらった大学をずる休みするなんて、とんでもないことだ)

 あたしは意を決してベッドからおりると、身支度を始めた。



 大学に着いたあたしは、講堂の入り口であたりを見渡した。

悪魔がどこにもいない。

 大学での悪魔はいつもあたしから付かず離れずの距離にいて、空いた席で講義を聴講していたり、テラスで見知らぬ集団にさりげなくまじってこっちを見ていたりする。まわりからものすごく浮いているのでどこに紛れていようとすぐにわかるのだが、その日はどんなに探しても発見できなかった。

 翌日も、その翌日も悪魔は姿を見せなかった。

 あたしは考え込んでしまった。どうしてとつぜん姿を消したのだろう。――最後のひとつの願いが残っているというのに。

(無意識のうちに、最後の願いを言ってしまった……?)

 悪魔があたしの前から姿を消す時。それは、願いを三つかなえ終わった後から、あたしが死ぬまでの間のみだ。

 だが、あたしは冗談でも悪魔に願い事や頼み事などはしない。

(……まさか事故にでも遭ったとか)

 悪魔はホログラム映像のように実体をもたない姿のときもあるし、質量のある肉体のときもあった。ちょうど実体のときに事故に遭い、姿が見えないがゆえに誰にも助けられずに放置されていたとしたら――。

(理由なんてどうでもいい。大事なのは、この状況が一時的なものなのか、それとももう二度とあたしの前に現れないかよ)

「詩織ちゃん!」

 あたしは我に返って足をとめ――息を飲んだ。

 眼前十センチの距離に電柱が迫っていた。危うく顔面に衝突するところだったのだ。

「大丈夫? 前を見て歩いたほうがいいよ」

 隣に並んで歩いていた西森くんが心配そうにこっちを見つめている。

「うん、ありがとう……」

 不意に眩しく感じて顔をあげると、昼過ぎの日射しが目をうった。この眩しさを感じないほど考えに没頭していたのか。

「詩織ちゃんてしっかりしてそうで、ちょっと抜けてるところがあるよね。たまにひとりごとしゃべってるしさぁ。……でもそうゆうとこも可愛いと思うけど」

 西森くんは言いながら顔を赤らめた。その横であたしは身をこわばらせる。それはひとりごとではないからである。

 大学からの帰り際、西森くんは駅まで送ると言ってくれた。断る理由も思いつかなくてこうやって並んで歩いているのだが――申し訳ないことに、隣でしゃべり続ける西森くんの言葉はちっとも頭に入ってこなかった。

 うんうんと適当に相槌を打ちながら再び悪魔のことを考える。

(やっぱり、あたしを抱いたことが規約違反になったんだろうか)

 契約主が生きている間はその身体にも魂にも干渉してはいけない――。悪魔などという不確かな存在との個人的な契約であるにもかかわらず、そこには確固たるルールがあるようだった。そして悪魔は厳密にそののりに従っていた。

 悪魔が姿を消したのは、契約主あたしとの交わりが契約の禁忌に抵触してしまったから。そうとしか考えられない。

 でも――あの几帳面で神経質な悪魔がそんなミスをするだろうか。

 悪魔はまるで第三者に了承を得るかのように、あえて三つの願いとは契約であるとはっきり言語化していた。あたしもそのつもりでいた。

(やっぱり、何かほかの原因で悪魔は姿を消した……?)

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