16
自室のドアを閉めるなり、あたしは悪魔に向き直った。
「……お母さんに近づいたらただじゃおかないよ」
「近づくも何も、もう一つ屋根の下で暮らしているがな」
「何かしたら許さない」
悪魔は、ふんと鼻で笑う。
「どうかな」
悪魔は本棚から『バイオ実験の基本』を引っ張り出してパラパラと眺めている。その後ろ姿を見ながら、唐突に不安が込み上げてきた。
「ねえ。お母さんに何かしたりなんてしないよね? あたしがいるじゃない! お願い、あたしはどうなってもいいから――」
「ならば願えばよい。母に手を出すなと」
悪魔が振り向いた。
「前にも言ったはずだが、
灰色の目で見据えられ、あたしは立ちすくむ。
そしたら、あたしは永久にこの悪魔のものに――。
「どうした。自分はどうなってもかまわないのだろう?」
死後、生まれ変わることも消滅することもできず、悠久の時をこの悪魔に囚われ続ける。
(嫌……それは嫌……)
悪魔はテキストを本棚に戻すと、あたしの前に立ち、顔を覗きこんできた。
「それを三つ目の願いとすることができないというのなら――そうだな。俺の望みと《引き換え》ならば願いをきいてやってもいい」
あたしは顔を上げた。
「三つの願いとは別で?」
「そう。それとは別に契約を新たに結び、互いの望むものを交換するのだ」
「……何が欲しいのよ」
ふいに悪魔は、あたしをおもむろに抱き上げた。
ぎょっと身を硬くするあたしをベッドに横たえ、覆いかぶさってきた。
――そうゆうことか。
あたしはぐっと歯を食いしばった。
悪魔に抱かれたのは新入生歓迎会の夜、あの一度きりだった。嫌な思いは何一つしなかった。むしろ不思議で面白かった体験として、あたしの中に刻まれている。でもこれは、あの時と違う。契約を
やっていることはまるで変わらないというのに、屈辱感で頭が沸騰しそうだった。情けなさに涙が滲む。
――こんなこと、たいしたことじゃない。むしろ、これで母に手を出されないというなら安いものじゃないか。
必死でそう思い込もうとした。きっと悪魔はあたしの感情さえも快楽のネタにしてるだろうから。
悪魔はあたしの髪を優しくなでつけながら呟いた。
「今のおまえから
なんだか空っぽになったような気がして、天井の白い蛍光灯をぼうっと見つめた。
母のために願いを使えなかった――そのことはあたしを強く打ちのめした。死後なんていう曖昧なもののために、願いを使うことを惜しんだのだ。
(……これこそがあたしが悪魔に選ばれた理由だ)
ファウストは万人の幸福を成すことにこそ生きる価値を見出し、年老いて盲目になってもその理想を願い続けた。だからこそ悪魔から逃れることができたのだ。利己的なあたしは他人のために自分を捧げることなんてできない。こんなにも大切な母のためにすら。
悪魔はそれをわかっていたのだ。あたしなら、魂も身体も取りはぐれることはないと。
(きっと何回生まれかわったって、どんなに魂を磨いたって、できやしないんだ)
「……そんなことはない。おまえも、おまえ以外の人間の幸せを一番に願う日がくる。自分を犠牲にしてでも」
そんなこと、ありえない。
髪をすく手を振り払う気力もなく、目をつむった。目尻にたまった涙がこぼれ、枕を濡らしていった。
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