16

 自室のドアを閉めるなり、あたしは悪魔に向き直った。

「……お母さんに近づいたらただじゃおかないよ」

「近づくも何も、もう一つ屋根の下で暮らしているがな」

 嘲笑あざわらう悪魔を睨んだ。十七歳であたしを生んだ母はまだ三十四歳で、娘のあたしから見てもとてもきれいだ。契約履行中であるあたしには手を出すことできなくとも、母は別だ。

「何かしたら許さない」

 悪魔は、ふんと鼻で笑う。

「どうかな」

 悪魔は本棚から『バイオ実験の基本』を引っ張り出してパラパラと眺めている。その後ろ姿を見ながら、唐突に不安が込み上げてきた。

「ねえ。お母さんに何かしたりなんてしないよね? あたしがいるじゃない! お願い、あたしはどうなってもいいから――」

「ならば願えばよい。母に手を出すなと」

 悪魔が振り向いた。

「前にも言ったはずだが、人間おまえ悪魔おれの意思や行動を制御することはできない。三つの願いを行使する以外ではな。母を俺から守りたければ、それを最後の願いにするしかないのだ」

 灰色の目で見据えられ、あたしは立ちすくむ。

 そしたら、あたしは永久にこの悪魔のものに――。

「どうした。自分はどうなってもかまわないのだろう?」

 死後、生まれ変わることも消滅することもできず、悠久の時をこの悪魔に囚われ続ける。

(嫌……それは嫌……)

 悪魔はテキストを本棚に戻すと、あたしの前に立ち、顔を覗きこんできた。

「それを三つ目の願いとすることができないというのなら――そうだな。俺の望みと《引き換え》ならば願いをきいてやってもいい」

 あたしは顔を上げた。

「三つの願いとは別で?」

「そう。それとは別に契約を新たに結び、互いの望むものを交換するのだ」

「……何が欲しいのよ」

 ふいに悪魔は、あたしをおもむろに抱き上げた。

 ぎょっと身を硬くするあたしをベッドに横たえ、覆いかぶさってきた。

 ――そうゆうことか。

 あたしはぐっと歯を食いしばった。

 悪魔に抱かれたのは新入生歓迎会の夜、あの一度きりだった。嫌な思いは何一つしなかった。むしろ不思議で面白かった体験として、あたしの中に刻まれている。でもは、あの時と違う。契約をけてもらうために、この身を売ったのだ。

 やっていることはまるで変わらないというのに、屈辱感で頭が沸騰しそうだった。情けなさに涙が滲む。

 ――こんなこと、たいしたことじゃない。むしろ、これで母に手を出されないというなら安いものじゃないか。

 必死でそう思い込もうとした。きっと悪魔はあたしの感情さえも快楽のネタにしてるだろうから。

 悪魔はあたしの髪を優しくなでつけながら呟いた。

「今のおまえからかたにとれるのはこれくらいだからな」

 なんだか空っぽになったような気がして、天井の白い蛍光灯をぼうっと見つめた。

 母のために願いを使えなかった――そのことはあたしを強く打ちのめした。死後なんていう曖昧なもののために、願いを使うことを惜しんだのだ。

(……これこそがあたしが悪魔に選ばれた理由だ)

 ファウストは万人の幸福を成すことにこそ生きる価値を見出し、年老いて盲目になってもその理想を願い続けた。だからこそ悪魔から逃れることができたのだ。利己的なあたしは他人のために自分を捧げることなんてできない。こんなにも大切な母のためにすら。

 悪魔はそれをわかっていたのだ。あたしなら、魂も身体も取りはぐれることはないと。

(きっと何回生まれかわったって、どんなに魂を磨いたって、できやしないんだ)

「……そんなことはない。おまえも、おまえ以外の人間の幸せを一番に願う日がくる。自分を犠牲にしてでも」

 そんなこと、ありえない。

 髪をすく手を振り払う気力もなく、目をつむった。目尻にたまった涙がこぼれ、枕を濡らしていった。

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