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父が蒸発してから、母は寝る間も惜しんで働き、母親としても完璧にこなしていた。そのつけが回ってきたのだろう。疲労で倒れ、入院した。母が倒れた後、千尋と妹は祖父母の家に預けられた。祖父母は千尋や妹にはいつも明るい表情を見せていたが、年金暮らしで母の入院費や子供二人を育てる金銭的余裕はなかった。
千尋が五歳の頃、新聞に挟まっているチラシにキッズモデルを募集している広告が目に留まった。文字はまだ単語しか読めないが、キッズモデルになればお金が貰えることだけは分かった。チラシを指差し、祖母に「コレやりたい」と言った。祖母はそのチラシを見て、苦笑いをした。
「千尋ちゃん、これは難しいと思うわ」
「ヤダ! やる!」
やるったらやる! と言うことを聞かない千尋に根負けし、祖母がキッズモデルに応募し、書類審査は簡単にクリアし、一次審査、二次審査と通過。見事グランプリを獲得した。
デビューからとんとん拍子に売れっ子になり、千尋と妹の養育費や母親の入院費を稼ぐことができた。五歳から十二歳は人気子役としてそれなりに仕事はあったが、十三歳になってから千尋の仕事は激減し始めた。成長期に入り、身長は伸び始め高かった声も成長に連れて声変わりし始めて低くなっていく。小さい頃は天使そのものだったが、大きくなるにつれて天使ではなく美しい青年になっていった。
芸能界はライバルが多く、入れ替わりが激しい。千尋はオーデションを受けるがクライアントが求めているのは、天使だった頃の恵であり、成長した恵ではない。「元人気子役の印象が強すぎて、作品のイメージを壊してしまう」、「時代遅れの元子役はもう要らない」、「天使だった頃だったら採用したんだけどね」など酷い言葉を浴びる日々。それでも千尋はオーデションを受け続け、妹や母親の為に働いていた。
二十歳の頃、子役時代にお世話になったディレクターから食事に誘われた。子役の頃から千尋を贔屓にしてくれたディレクターは出世して敏腕プロデューサーになっていた。食事をしているのは個室で、部屋には千尋とプロデューサーだけ。テーブルの上には、高級懐石料理が並んでいた。久々のご馳走に溢れ出る唾液をゴクリと飲み込んだ。
「さあ、遠慮せずに食べて」
なんでいい人なんだろう。千尋は両手を合わせ、「いただきます」と一言いうと、懐石料理に箸を伸ばす。久しぶりに食べた大トロの刺身が口の中で蕩ける。
「本当に美味しそうに食べるね」
プロデューサーは美味しそうに食べる千尋の姿をじぃっと見つめる。その視線に居心地の悪さを感じたが、気にせず箸を進めた。
「千尋くんは、もう二十歳になったんだね。もう、大人の仲間入りだね。お酒は飲めるの?」
「少しだけなら」
「じゃんじゃん飲むといい。ここは私の奢りだから」
プロデューサーは注文したビールを千尋に飲むように勧める。恵はビールジョッキを持つと、半分量を一気に飲んだ。
「いいの飲みっぷりだね」
「どうも」
「こんなに大きくなって僕は嬉しいよ」
「はい。子役時代はプロデューサーのおかげで売れたようなものなので感謝してます」
「そんなことないよ。千尋くんの実力だよ」
プロデューサーは日本酒を一口飲む。ねっとりとした視線が千尋に向けられる。
まただ。なんだろう、この感じ。
(……気持ち悪い)
美味しいはずの懐石料理が喉を通らない。
箸が進まない千尋に疑問を抱き、プロデューサーが声をかけた。
「もしかして口に合わない?」
「そんなことないです! とっても美味しいです!」
「貴方の視線が気持ち悪いです」なんて、言えるはずもない。千尋にとっては、大恩人であるプロデューサーに不快な思いをさせることは許されないことだ。もしかしたら、また仕事を貰えるかもしれない。
(我慢だ、俺)
千尋は無理やり口角を上げて笑顔を作った。
「千尋くんはさ、子供の頃は天使だったけど、今はなんていうか綺麗になったよね」
再び向けられるネットリとした目線に背筋がゾゾゾッ…とした。
「そ、そうですか?」
「うん。美人だよ。ずっと見ていたいくらい」
見つめられる視線の圧が強すぎて、顔に穴が開きそうなくらいだ。
(笑顔だ、俺。ほら、カメラの前だと思って笑え)
演技は得意だ。今までだって、どんなことがあっても笑顔で乗り越えてきたじゃないか。
プロデューサーの手が伸び、テーブルの上にある恵の左手に重ねられた。千尋の手の形を確かめるようにゆっくり動くプロデューサーのゴツゴツした指が気持ち悪い。全身に鳥肌が立った。
「プロデューサー、これじゃあご飯食べれないんですが」
そんなのお構いなしに、プロデューサーは手を撫でる指を止めない。それどころか、指を絡めてこそばゆい指の間や掌を撫でてきた。
「ねぇ、千尋くん。聞いた話なんだけど、お金に困ってるんだって?」
家庭の事情は誰にも話していない。家族にも言うなと念を押している。恐らく調べられたのだろう。ちっ、と内心舌打ちをする。
「千尋くん、今、仕事ないでしょ」
「まあ…。昔よりは減りましたね」
「だよね。だって、使いづらいもんね。元人気子役なんて」
元人気子役は使いづらい。何度も言われてきた言葉だが、お世話になったこの人から言われたのはショックだった。
「私だったら、君をまた昔みたいに売れっ子にしてあげられるよ。私には権力があるからね」
プロデューサーの指が千尋の左手に絡まる。恋人繋ぎのように絡まれ、親指は千尋の指を愛撫するように動く。
「私と寝る気はあるかい?」
プロデューサーの言葉が頭の中で何度も反芻した。
(今、なんて言った? 寝る? 俺が、この人と?)
思い出すのは、子役だった千尋を自分の子供のように可愛がってくれた、かつてのプロデューサーの姿。千尋が変わったように、この男も変わったのだ。千尋は虚しさで胸がいっぱいになった。
「千尋くんは、どんな仕事がしたいんだ? なんでも言ってくれて構わない。君が望む仕事を用意してやろう。その代わり、週に3回は私のところへ来なさい。住む家は私が持っているマンションに引っ越せばいい。私が会いたい時に会うことが条件だ。いい話だと思わないか?」
売れている俳優は皆んな枕をしてるだの、ただ寝るだけでいいだの、聞きたくない言葉が耳に入ってくる。こんなことをしないと稼ぐことができなくなった自分が悔しい。千尋は唇を噛んだ。
「どうだい? 試しに今夜でも」
プロデューサーの興奮した鼻息。千尋を上から下まで舐め回すように見る眼が気持ち悪い。大きな顔が迫ってくる。唇を突き出し、千尋に口付けを求める男に思わず平手打ちをしてしまった。
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