第32話
遊歩道の中腹。案の定、人のいないトイレで用を足して外に出る。
「これ絶対、飯食ってから急に動いたせいだよな」
腹を擦りながら、戻ろうとするところで、どこからか水の流れが聞こえる事に気づいた。
さっきまでは腹痛に耐えるのに一杯で余裕が無かったが、すぐ向こう側に小川があるらしい。
「行ってみるか……」
鬱蒼とした雑木林を抜けると、水面の眩しさで幻惑されそうになった。
広い川原にはキャンパーらしき男達が横並びで釣り糸を垂らしている。他にはいくつかの家族連れにカップル。炊事場からかなり離れたせいか、同じ学校の生徒の姿は見えない。
「あれ?」
ふと、岩場の一角に見慣れた後ろ姿を見つけた。
赤い髪を陽に輝かせ、片膝を立てながら本を読んでいるのは赤坂。
剥き出しの一枚岩に腰を下ろした姿は、何とも野性味溢れている。でも、その格好は裾にフリルの付いたカットソーにショートパンツ姿なんだよな。女子力が高いし何か可愛い。
俺に気づくと、赤坂は持っていた文庫本を片手で閉じる。
「一之瀬じゃん。結局来たんだ」
「皆のとこには戻らないのか?」
「別に。やっぱ読書してる方が落ち着くし。それに、集合時間だってまだあるでしょ?」
そう言ってスマホを取り出す赤坂。指先をぐいっと滑らせ照度を上げる。強い日差しに負けない程の明るい画面にはデジタル時計が表示されていた。
「つか、あんた。野球してたんじゃないの?」
「まあね。でも、何となく川を見たくなったから来てみた」
「それ、台風の時だと死亡フラグだね」
赤坂は少しだけ口角を緩めた。俺は横の岩場にしゃがみ込む。
川原では家族連れが足まで水に浸かって、あちこちの岩をひっくり返していた。
サワガニでも探しているんだろうか。
「ていうかさ、一之瀬が野球するなんて、本当にできんの? やっぱ話盛ってない?」
また掘り返すのか、この女子は。
しかも、まだ疑われているなんて。
「俺に虚言癖は無い。さっきは三振だったけど、正真正銘の野球経験者だし」
張り合うように言っているのが自分でも意外だった。
俺は、こんなに他人に対して自分を押し付けるような事は言わないのに。何故か、赤坂相手には真正面から言い合えている。トイレの件やら食堂の件を経て、互いの悩みを熟知しているからだろうか?
「うーん……イマイチ信じられないんだよね」
赤坂は俺を見て値踏みするように目を細めてくる。
「何だよ。そんなに俺が野球やるのおかしいかよ」
「だって、野球って走攻守やらないといけないし、ボールを打ったり捕球するのもコツが要るじゃん。慣れてもミスるし、ある程度適性が無いと難しいんだよ? サッカーが世界中で普及してるのに、野球が日本とアメリカくらいでしか流行らない理由を考えた事がある?」
そう言って俺を論破した赤坂は勝ち誇ったように、ふっと息を漏らす。
江崎さん達に見せる時の顔とは全く違う、どこか悪ガキっぽい表情。
さっき、須山達がいた時よりもキレが増している。人の目が無い分、俺に本音で言ってきてるのか。
それとも、単に俺を言い負かすのを遠慮せずに済んでいるだけか。ああ、多分後者だ。
「つーか、さっきから妙に詳しいな」
「だって、私も野球やってたし」
意外な事実を知らされる。まあ、運動神経は良さそうなタイプだとは思うけど。
「と言っても一之瀬と同じ、小学校までだけどね。それに部活でもなんでもなかったし」
赤坂は少しだけ照れ臭そうに言うと、再び視線を川原に戻す。
捕まえたカニを見せつけるように声を上げる男の子。横ではしゃいでいる女の子とは兄妹だろうか。両親らしき大人は、その近くで幼い二人を見守っていた。
「あんな風にさ。兄の影響で何も知らずに野球に付き合わされてたんだ。学校終わった後とかに、ね」
そう言って、思い出を懐かしむように目を細めていた。
「そういえば。最近は須山や工藤君とも仲が良いみたいね?」
と、赤坂は思い出したように口を開く。どことなく皮肉っぽい言い方。
「たまたま同じ班だったから、その流れだよ」
「その割には随分打ち解けてるように見えるんだけど?」
俺の内心を見透かすように、赤坂が小首を傾げた。さらさらと赤い髪が頬に垂れ込む。
「西崎さんでしょ?」
得たり、と言わんばかりの顔。
「須山達と仲良くなりたい。でも、あのグループにいると、西崎さんがあれこれうざい。違う?」
「赤坂さあ。何で分かるの? エスパータイプ?」
俺が正直に白状すると、赤坂は小さく息を吐く。
「顔に出てるし。遠目に見ても丸分かりだから。本当、感情隠すの下手くそだね」
「何もかもお見通しだなんて……」
本当に赤坂の観察力は尋常じゃない。言葉遣いはなんとかしろって思うけど。
「私はね、確かにリア充的なポジションになればいいとは言ったわ。でも見てる限りだと、西崎さんに言われっぱなしじゃん。嫌な時ははっきり意思表示しないと、いつまでもそういうポジションは変わらない。それじゃ……」
そして、赤坂はまるで何か戒めるように、声を低く落とす。
「それじゃあ、駄目なのよ。あんたの問題は根本的に解決しない」
俺達はそれっきり、会話の糸口を失ってしまった。遠くではしゃぐ家族連れや釣り人達が、どこか別の世界の住人に見えてくる。
「考えたんだけどさ」
深呼吸を一つ。俺は硬直した時間を動かそうと口を動かす。
「赤坂は単にリア充になればいいって言うじゃないか。でも、俺は違うと思うんだ」
赤坂は何故か不機嫌そうな顔。文庫本を丸めるように握り締めている。
「俺はさ。諌矢とふざけあってる時とか、好きな授業の時は不思議とお腹が痛くならないんだ。それに、さっき野球してた時も同じだった。つまり、そういう事なんだろうなって」
「意味わかんないんだけど」
この遠足で自分なりに導き出した一つの答え。
でも、いざ口に出してみた言葉はあまりに断片的で、赤坂は怪訝そうな視線を向けるだけだ。
「リア充だとか、ぼっちだとか……そういうのって結局、横から見た人の勝手な印象だろ?」
「一之瀬。あんたは結局何が言いたいの?」
「クラスの立ち位置とか、誰々がどんなキャラとか言うのは、後からついてくる肩書きみたいな物だと思うんだよ。そんなのにこだわるよりも、もっと気楽に生きていく方が上手くいくんじゃないかって事」
俺はいつもあれこれ考えてから行動してしまう。こうやったら相手にどう思われるかとか、こうすれば相手の機嫌が良くなるかとか。
しかし、広場で草野球をやっていた時は違った。須山も他の男子も、本当に皆楽しそうで、俺もあまり気にせずに楽しめていた。
そのせいか、何気ない流れでトイレに行くという事も須山に言えたのだ。
結局、学校でトイレに行くのが恥ずかしいというのは、気にし過ぎてしまう状況に自分を勝手に追い込んでいるだけなのかもしれない。
大切なのは、そうならない自分でいられる事。
さっきの出来事を通じて、俺ははっきりとそれを感じ取っていた。
「あれこれ考えて構えるよりも、例えば……そうだな。単純に『人生を楽しもう』とか、そういう大雑把な感じで生きてくのもいいんじゃないのかなってさ」
赤坂は俺の話を聞いている間も、不機嫌そうに眉をしかめている。
「他人の目ばかりを気にして、何事からも逃げ続けて来た男が、大層な事を言うじゃない」
そして、しばしの沈黙の後に、押し殺したような口調で言い捨てる赤坂。
「思い上がりも甚だしいわよ、一之瀬。あんたはそれを心から楽しいって思えてるの? 自分の意思を曲げてヘラヘラするなんて、そんな生き方無様なだけよ」
「でも……実際、俺は楽しいって思っちゃったんだよ」
嘘でも建前でもない。俺は声を大にして赤坂に告げる。
我ながら何を張り合っているんだろうと思ったけど、自分なりに色々思う所もあるのだ。
「馬鹿なの?」
しかし、赤坂はこちらを見たまま、
「それは須山達が空気読んで合わせてくれてるだけでしょ? 風晴君だってそう。一之瀬と違って、他の皆は人間関係を円滑にやっていく為に必要な物を持ち合わせているの。別にあんた一人の為にやってる訳じゃない」
表情を険しくさせながら滔々と述べるだけ。そこに俺への肯定は一切存在しない。
「結局、みんな……いい人ぶりたいのよ」
斬り捨てるように言い切ると、赤坂はそっぽを向いてしまった。
「ああ。そうかい」
何故か心が締め付けられた。
俺は別に赤坂と対立する為にこんな話を始めた訳じゃないのに。何で……
「じゃあ、赤坂は違うのか?」
「え?」
それでも俺は、赤坂に問いかけ続けていた。一瞬だけ呆気に取られたように開かれる赤坂の小さな口。
「お前が俺を助けてくれるのも、全部建前でやってんのか?」
彼女はいつも本心を遠慮なくぶつけてくる。
しかし、今この瞬間だけは、俺に対抗して強がっている。そんな風に思えたからだろうか。
念を押すように。俺が信じる答えを赤坂の口から告げられるのを求めるかのように、尋ねる。
「――そうよ」
しかし、赤坂は俺を突き放す言葉を今度こそ、はっきりと口にする。
「あんたが須山達と仲良くなってストレスで腹壊すなんて事も無くなれば、外で出くわす事だって無くなる。そうすれば、私は前みたいに一人で気楽にやっていける」
手近な石を川に投げ入れる。とぽんと水音をさせた所で、赤坂はもう一度俺を睨む。
「だから、助けるつってるだけなのに。何、他の期待しちゃってんの? 私が慈善事業で一之瀬の世話をしてるとでも思った? そうやって良い所ばっか見ようとして、バカじゃない?」
「まあ、他の人から見たら……きっと、俺ってそうなんだよな」
秒で反応した赤坂が敵意の眼差しを向ける。いつもなら逃げてしまいたくなるような眼光だ。
「確かに、俺ってくだらない事をいちいち気にするような、そんなどうしようもない馬鹿だよ」
所詮、今の俺はお情けで皆に仲良くしてもらっているだけなのかもしれない。
だって、俺はいつも弱腰で我慢弱くて、逃げ道ばかり探しているヘタレなのだから。
「それでも俺は、赤坂も諌矢も須山や工藤も、いざ話してみたら皆良いヤツだって思っちゃったんだ。実際話してみたら、もっと仲良くなりたいなって思っちゃうんだよ」
赤坂の視線から今だけは逸らしたく無かった。
彼女から逃げたくなかった。
「私は違うわ。一之瀬みたいに振る舞うなんて無理」
赤坂はぐっとこらえるように喉奥で息を詰まらせる。
「あんたみたいにお人好しじゃないから」
赤坂の目はどこか遠い。その先の川辺で遊んでいた家族連れやカップルはもうどこかに行ってしまった。後に残るのはさらさらと流れるせせらぎだけ。
彼女の背中を見ていると、何故か俺は一抹の寂しさを覚える。
だから、精一杯茶化そうと、
「そう言うけどさ。赤坂だって――」
「世の中の人間がさ」
しかし、その言葉は赤坂に止められた。
川を眺める儚げな横顔。頬にかかる髪が柳の葉みたいに揺れ続ける。
「皆……あんたみたいになれたら、戦争なんて無くなるね」
もう一度こちらを見る赤坂は世の中を斜に構えて見たような、何故かこっちの心が辛くなるような、そんな笑顔。
「そりゃどうも」
ここで冗談の一つでも返せばいいんだけど、悔しいことに俺は弁舌で赤坂に太刀打ちできない。
「じゃあ、そろそろ行くよ。集合時間には遅れないようにな」
「お心遣い……ありがと」
結局、俺は言いかけた言葉を言えずじまいのまま、川原を去った。
雑木林は、昼下がりで絶好の散歩日和にも関わらず、俺以外誰も歩いていない。
陽が遮られ、冷たくじめっとした土臭い空気。
休憩も直に終わる。それを自覚しているからなのか遊歩道は一層物寂しく見えた。
だからだろうか。
「でも――赤坂だって、十分お人好しに見えるんだけどな」
俺は、先ほど言い損ねた言葉を一人呟いていた。
赤坂に言うべきだった言葉。それは、どんな形だとしてもはっきり口にしなくてはならない。
そんな強迫観念に駆られながら。
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