第4話


 帰り道、夕日がもう陰ろうとしている。体感時間の通りに長くあの空間にいすぎたのかもしれない。夕焼けに照らされながら、私はずっとあの男のことを考えていた。


 あんな身なりで、気風も崩れているような雰囲気の人間ではあったけれど、それでもなんとなく懐かしさを感じてしまう部分があるのを、心の片隅で抱いている。


 苦手な雰囲気であることは確かだけれど、嫌いという線引きをするほどではない。


 ──また来なよ、俺は退屈してるんだ。


 彼の言葉を反芻する。どこか、彼は私の兄に似ているのかもしれないと、そんなことを思いながら帰る、夕焼けの道。





 家にゲーム機は一つしか存在しない。いつも買ってもらうのは兄だけで、私はまだ早いから、と両親に買ってもらうことはなかった。私もそれを疑うことはなく、ただそんな環境を受け入れていた。


 兄がそんな環境の中で一人でゲームをやっている。テレビゲーム。リモコンを使ったようなゲームで、私は兄がやるそのすべてがうらやましいと感じている。今家にはお母さんもいないから、私がゲームをやっても、きっと怒られることはない。


 兄は、いつだって私のことを鬱陶しがるけれど、結局最後には頼めばなんだってやってくれる。縄跳びが跳べない時にも、勉強が分からなかったときにも、そしてゲームがやりたいときにも。


 きっと、私がそれだけ兄に対してしつこく声をかけていた、という話だけかもしれないけれど、結局貸してくれる兄の存在は、私にとっては大きかったのだ。


 今日も、そんないつも通りの日常。


 私は兄にしつこく声をかけると、しようがないな、と言いながらゲームのリモコンを貸してくれる。私はそれがうれしくて、テレビに映る画面に夢中になっていた。


 気が付けば、兄は部屋にはいない。


 家のどこかから、がちゃん、と扉の開閉音が聞こえてきて、私はリモコンを置いて兄を探す。そして今から出かけるというように兄は玄関にいた。


「どこにいくの」


「……友達のところ。お前はゲームでもやって遊んでいろよ」


「え、……うん。わかった」


 流れるままに兄は家から遊びに出て行って、私は流されるままに元居た場所に戻る。


 誰もいない、家の中。お母さんが帰ってくれば、玄関のドアの音でわかるから、きっと大丈夫。いっぱい楽しく遊べるはず。


 そうして一人でゲームをやって、それでも、楽しくない気持ちがいっぱいになって、結局すぐにゲームはやめてしまう。


 ようやくそこで気づくのは、私は兄のゲームをやりたかったのではなく、兄『と』一緒にゲームがやりたかった、という気持ち。


 私が遊んでいれば、きっと兄は茶化すし、馬鹿にするかもしれない。下手くそだとか文句とか言われるかもしれない。


 それでも、一緒に見届けて、一緒に遊んでほしかったんだ。





 懐かしい夢を見たような気がするけれど、結局どういう夢だったのかは覚えていない。きっと、昨日のあの男に関わったから、そんな懐かしい雰囲気の夢を見たんじゃないのか、とか寝ぼけた頭の中で整理して、そうして一人部屋から居間へと下りていく。


「あ、おはよー」


「あい、おはよ」


 朝にしては珍しく、兄が居間にいるから挨拶をする。いつもだったら、こんな時間に起きてくるということはないはずなのに。


 母はもう朝食を作り終えていて、テーブルに並ぶいつもの朝食を視界に入れる。今は母は、テレビの前で適当なニュース番組を見ているようだ。


「……大学?」


「ん。一限から」


 兄はしんどいような顔をしていて、大学生とは何とも言えないな、という気持ちが私にわだかまる。


「しんどそうだね」


「しんどいよぉ、めっさしんどい」


 私が笑うと、兄もくすっと笑って、そうして会話が終わる。なんとも、兄妹仲がいいような、そんな会話だ。


 いつもの会話。兄妹の会話。母はそれを笑って、にこやかな朝食の雰囲気がセッティングされる。きっと、母は気づいていない。


 どこか上辺だけの会話。私たち兄妹は、ずっとそんなことを続けている。会話するすべて、どこか上辺だけの会話。それは真に迫るものなんて一つもなくて、きっとこれからも、これまでと同じように、ずっと続いていくのだろう。


 心の中での気まずさを殺して、それでも会話は繰り広げていく。他愛のない雑談、そのどれもが、楽しさにはつながらないけれど、母がずっとそれを望んでいるのだから、しようがない。


 だから、私も、兄も、演じている。


 仲がいいような、そんな兄妹を。


 ──いつからこんなことになったんだろう、と何度も考えたことをまた考える。答えに結局整理なんてつかなくて、きっと最初からここまで続いてきただけなんだと、そう思ってしまう。どうしようもない。


 あの幼少期のころから、もしくは私が物心がつくよりも、ずうっと前から、私たちの関係は、そもそも生まれていないんだ。


 だから、修復なんて出来るわけもない。存在しないものを、直すことなんてできやしない。


 心に大きな憂いを抱いて、能天気な声で、行ってきます、と玄関から居間に声をかける。


 声は返ってこなかった。


 きっと、知らないふりをしたんだろう。

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