忘れていない

 時間はあっという間に過ぎていき、稽古が終わった。生徒さん達が列を作って一礼する様子を写真に収めた所で、久し振りに斑鳩さんの声を耳にする。


「あざらし! 手伝え!」


 体育館の出入口に立つ斑鳩さんの両手には、パンパンに膨らんだレジ袋があった。かなり大量に買ってきたんだなと思いながら近寄れば、雨も降っていないのに、かなりの水滴が袋に付着しているのが目に入る。

 これ配れと短く命じられた。袋の中身は──市販のアイスキャンディー。見た感じ全てソーダ味、たまに食べるけれど美味しいやつだ。

 人鳥と共に一袋ずつ受け取る。その際、斑鳩さんからふわりと煙草のにおいがした。戻る前に一服してきたらしい。白熊さんのと同じ、だと思う。似たようなにおい。白熊さんも今頃、吸っているんだろうか。

 壁際に座り込む生徒さん達に順に配っていく。五月とは思えない暑さの中で稽古をしていたからか、皆さん嬉しそうに受け取ってくれた。

 全員に配り終えても、アイスキャンディーは僅かに残っている。斑鳩さんの元に行くと、僕達も食べていいと言ってもらえたから、人鳥と一緒に一本ずつ食べた。


「はー生き返るわー」

「はぁ……」


 冷たい、甘い。咀嚼するたび喉が潤う。夢中で食べ進めていくと、後には何も記されていない棒だけが残った。


「ハズレだー。あざらしどうだった?」

「僕もハズレ」

「残念。でも、旨かったな!」

「うん」


 お礼を言おうと斑鳩さんの元に行くと、ご婦人と話している最中で、二人は僕らに気付くと会話をやめた。


「あざらし君にペンギン君、今日はお手伝いありがとうね、助かったわ。次は人が来るから大丈夫だけれど、また困った時には助けてもらっていい?」

「もちろんですよー! おれらで良ければいつでも使ってください!」

「頼もしいわね、ありがとう」


 いくらか話をした後、それじゃあねとご婦人は生徒さんのいる方に行ってしまった。僕らとそんなに変わらない歳のお嬢さんが、汗を拭う手を止めて、ご婦人に手を振っている。娘さんだろうか。

 俺らも行くぞと斑鳩さんに言われ、体育館を後にした。


「……っ」


 外に出た瞬間、音もなく吹く風が身体を撫で上げ、ちょっとした解放感があった。五月でこれなら夏本番はどうなるのかと、少し不安になってくる。熱中症にならないといいな。

 いつの間にそうしたのか、今や空になった箱は台車に積まれ、行きと同じく斑鳩さんが押していく。

 このまま何事もなく、駐車場に行くんだなと思っていた。


「そういやペンギン、さっき将棋部の奴と会ったぞ」

「そーなんですか?」

「たまたまな。ここ入る時に会ったおっさんいたろ? 書類渡してきたあの。話し出すと長い人でな、部員が一人捕まってたからそれとなく助けた時に、お前らと同じ制服着てるのに気付いたから、お前らのこと知ってるか訊いたら、ペンギンは部員だって言うじゃねえか。近くにいるんだったら一局指したいってよ」

「おれ合宿参加してないから行きづらいですよー。どうせ学校始まれば部活行くし、その時で」

「歓迎してたから、行ってきていいぞ」

「……え?」


 斑鳩さんが足を止めて振り向く。そうなると僕らも立ち止まるしかない。校門は目の前なのに。


「駐車場の場所、分かるか?」

「取り敢えずは……いや、いやいや斑鳩さん、悪いですよそんな。ほんと、今度でいいですから!」

「気にすんな。せっかくだからやってこい」


 お前も別にいいよなあ、と訊ねてきたけれど、斑鳩さんの視線は人鳥に向けられたまま。何も言わない、言えない僕をちらりと見て、人鳥が何か言おうとしたけれど、その前に斑鳩さんが口を開いた。


「それにな、ペンギン。俺とあざらしでちょっくら話したいことがあんだよ。丁治……白熊のことでな」


 忘れてなかったか。

 視線は徐々に下に移ろい、汗が一粒地面に落ちる。身体が急速に冷えていき、閉じた口に、無意識に握っていた拳に、力が入る。


「……おれに聞かれると、まずいんですか?」

「まあ、そうだな」

「……」


 何か言いたげな視線を感じるが、何も言えそうになかった。


「そんな心配しなくても、取って食ったりしねえよ。本当に、話すだけだからよ。お前は楽しく仲間と将棋してこい」

「……大丈夫か、海豹」


 斑鳩さんに返事もしないで、人鳥はそう訊ねてくる。そんな心配されるような感じなんだろうか、今の僕。

 平気だ、平気。斑鳩さんは悪い人ではない。白熊さんのお店で会う時とは違う顔を今日はいくつも見たじゃないか。暴力を振るわれるわけじゃない。だからきっと、大丈夫、なはず。


「……平気。行ってきて」


 我ながら声が震えていた。

 僕がそう答えたから、人鳥はもう何も言ってこなくなり、お言葉に甘えてと固い声で言って、人鳥は校舎の中へと入っていく。


「えらく心配性な友達だな」


 ぽつりとそう呟いて、斑鳩さんは歩きだし、僕もついていく。

 ああ、何を言われるんだろう。

 忘れていた不安が、胸や頭の中を駆け回り、ほんのり腹が痛くなってきた。とにかく足を動かすことに集中する。他のことは考えない、今は歩けと。

 そうしていたら、すぐに駐車場に着いた。


「先に中で待ってろ」


 鍵を開けてもらい、命じられるまま車内へ。

 煙草のにおい。

 条件反射で白熊さんを、そして白熊さんの紅い蝶を思い出し、何だか無性に見たくなってきた。

 一目でも見られたなら、どんなことでも堪えられそう。

 もしも白熊さんが目の前にいたら、後先考えずに自分から、白熊さんの髪を払い除けてあの蝶を見ようとするかもしれない。さすがにそんなことをしたら、白熊さんも怒るだろうか。

 美しき蝶に救いを求めながら、斑鳩さんが乗り込んでくるのを待った。

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