ムーンライト

うみべひろた

ムーンライト

 確かにその瞬間、音楽室の中には月の光が輝いていた。

 眩しくて目が開けられない。雲一つない満月の夜だった。

 世界は黄金の光で満たされる。静かで透明で、ふわふわと揺らぐ。


 その最後の一音を弾き終えた瞬間に音楽室の扉が開いた。


「トリック・オア・とりーーーーーぃと! 私は甘いものを求めています!」


 弾いていたのはドビュッシーの「月の光」。

 自分でもその世界に浸れるほど、まれに見る良い出来だったから。突然の大声に心臓が跳ね上がる。


「篠塚さん……脅かさないでよ……ただでさえ声が大きいんだから、せめて入る時くらいは静かにして」


 そう言った私に。

 身長に比べてずいぶん大きく見えるショルダーバッグをこちらに向けて、篠塚さんは言う。


「月がきれいですねっ!!」


「は?」

 一体なにごと。


「だから、月がきれいですねっ!!!!」


 いや、意味わかって言ってんのか君は。


「月なんて出てないじゃん、まだ4時だよ」

 ドビュッシーの世界から戻った後で、窓から見える空はとても青い。

 秋の空。

 女心と秋の空。

 っていうか、入ってきた瞬間のハロウィンイベントはどこ行った。


「そんなん知ってますよ! そうじゃなくて!」

 そうじゃなくて?

「ドビュッシーですよ、演奏を邪魔しちゃ悪いかなって思って、ドアの向こうでこっそりひっそり聞いてました凄いですサインしてください頭撫でてください」


 やっぱり分かってなかった。


「せめてもう少し余韻が欲しかったし、感想よりも要求のほうが多いのは何故」

「なんかテンション上がっちゃって」


 そう言いながら歩み寄ってきて、頭をこちらに向ける。

 本当に要求してるの??

 だから私は仕方なく頭を撫でる。


「んー。やっぱり雪乃先輩の手、すべすべしてて気持ちいー。私だけのものにしたーい。だから私の頭以外触らないでくださいね」

「うん。さっきまで思いっきりピアノ弾いて触ってたけど」

「無生物ならセーフです。生物はアウト。だから猫ちゃんとか撫でちゃダメですよ。撫でるなら私で」


 ふぅ。という吐息が手に当たってくすぐったい。


「んー。このまま寝たい」

「寝ないで。立ったまま寝たら大変なことになるから」

「先輩が支えてくれるから大丈夫です」

「私は楽譜より重いものを持たないようにしてるんだ」

「音楽部なんだから、せめてピアノくらいは持てるようにしましょうよ」

「それはもう文化部じゃなくて運動部だね」

「世界を目指しましょう」


 っていうか。

 いつまで撫でてればいいんだこれ。


「ちがーう!」私の腕の中で突然大声を出す篠塚さん。

 また心臓が跳ねる。


「至近距離で本気の大声出さないで、ノーモア腹式呼吸」

「ボーカリストから腹式呼吸を取ったら、肺式呼吸しか残らないじゃないですか!」

「うん、多分ボーカリスト以外でも、誰でもそうだね」

「あと皮膚呼吸……じゃなーい! 話がそれまくりです!」

「私のせいみたいに言わないで」


「私は甘いものを欲してるんです! トリックオアトリートです!!」

「突然そんなこと言われても」

「私は先輩の手作りお菓子を欲しています! 早くください!」

「どういう思考をすると、音楽部で手作りお菓子がもらえるって結論に至るの」

「美人の先輩は手作りお菓子! 部活の後輩には手作りお菓子! かわいい子には手作りお菓子! 三位一体攻撃ですよ! だから私が手作りお菓子をもらえるのは確定的に明らか! ……間違ってます?」


「何も間違ってないね凄いね。でも私はお菓子なんて作ったことないよ」

「そうなんですか??」

「だって、5歳の頃から、土日はずーっとピアノ。そんな余裕はどこにもございません」


「なるほど、分かりました」腕を組みながら、むーっと頬を膨らませる篠塚さん。「先輩はトリートじゃなくてトリックをご所望なんですね」

「いや、必要ならコンビニで買って明日渡すから……」

「ハロウィン当日だから意味があるんですよ! トリート! トリートミートゥデイ! でもいいです! 先輩の私に対する扱いなんてそんなものなんです! やーっと分かりました! 二人きりの音楽部、その後輩なのに」


そうか。今日はハロウィンだったか。だけど。

「んー……」

こうなると、この子は手が付けられない。どうしよう。


「私は先輩を大切に思ってるんですよ? だからはい。これどうぞ」

 持っていたショルダーバッグをごそごそやって。

 渡されたのは、透明なパックに入った、明らかにどこか適当なところで買ってきたクッキー。


「何これ」

「知らないんですか? ムーンライトです。森永のムーンライト。私これ、マリーとかチョイスより全然好きで」

「いや、ムーンライトは見れば分かるけど。何故こんな、ちょっとイオンで買ってきましたみたいなやつ」

「もらったんですよ」

「はぁ」

「クラスの男子から。トリックオアトリートって無理やり渡されて。ハロウィンってそういうんじゃないでしょって、死ぬほどテンション下がって」

「で、テンション下がることを私にやったわけか」

「違いますよ。トリックオアトリートの記憶を雪乃先輩が上書きしてくれたら、すごくハッピーになれると思ったんです」


「まぁ仕方ないよね。渡したかったんだよ、その男子も」

「ハロウィンだから?」


 じゃなくて。あなたが可愛いからだよ。

 だから、そんなこと言ってあげない。


 何も言わない私を見て、篠塚さんはにっこりと笑う。

「先輩、トリートの内容、別にお菓子じゃなくてもいいですよ」


「そう? 何が欲しいの」

「先輩のピアノで歌いたい」

「そんなの、いつもやってるでしょ」

「分かってないなぁ先輩」もう一度にっこりと笑って、「ハロウィン当日だから意味があるんですよ。私をトリートしてください」




 「月の光」。

 じつは2作品ある。

 ドビュッシーの有名なピアノ曲ともう一つ、その元になったピアノとボーカルが奏でるフォーレの歌曲。

 篠塚さんはそれを歌いたいと言った。



 この曲の良さは、ピアノの悲しげな旋律と透き通ったボーカルの絡み合いが全て。

 月の光は悲しいだけでもない。透き通っているだけでもない。その二つが重なってこそ美しいんだ。だからしっかりと呼吸を合わせないといけない。

 お互いの目を見て、ゆっくり頷いて、ふぅ、と息を吐いて。

 この瞬間、いつも心臓がどきどきと高鳴る。


"Votre âme est un paysage choisi. Que vont charmants masques et bergamasques"

 ――あなたの心の中はとびきりの景色。

 ――魅力的な仮面とおしゃれな衣装が行き交う。


 前に身長を聞いたとき、150cmだって言ってた。

 この小さな身体のどこから、こんなに美しいソプラノが出てくるんだろう。

 だけど確かに、芯の通ったこの歌声。これは篠塚さんの性格そのものだと思う。


 篠塚さんを見ると、いつも猫みたいって思うけど。

 猫は決して、他の誰かに惑わされない。



"Ils n'ont pas l'air de croire à leur bonheur, Et leur chanson se mêle au clair de lune, "

 ――だが自らの幸せを信じることなんてない。

 ――その歌声は溶けていく。月の光の中へ。


 月がきれいですね。

 私もそう思う。


 こんなにきれいな月だから、私も溶けていく。

 あなたと向かい合わせで、ピアノを弾きながら、あなたの声の中へ。



"Et sangloter d'extase les jets d'eau, Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres."

 ――噴水は陶然とすすり泣く。

 ――大理石の、やさしく吹き上げる噴水は月の光の中で。


 ピアノとボーカル。本当に呼吸が合ったときって。

 二人でどこまでも行ける気がするんだ。そう。たった二人だけでだよ。

 月の光の向こう側、夜の暗闇の向こう側、もっと、ずっと、明るくて暖かい場所。ずっと遠くへ。

 お互いに、何を考えているのか、次に何をしたいのか、それが全部わかる。

 過不足のない、二人だけの世界。


 余計なものだらけだった世界の中、

 ふたり、ぴったりくっついて。

 それがあまりにも暖かくて、もう離れられなくなる。


 暖かく、熱く、私はすすり泣くみたいに。




「月がきれいだった」

 私は言った。

「まだ4時半にもなってませんよ。暗くなり始めてますが、月はもう少し先です」

したり顔で笑う篠塚さんに、私は手元のクッキーをぱたぱたと見せる。

「ムーンライト。まるで満月みたい」


 いやいやいや。って、篠塚さんは笑う。

「1枚10円とかですよ。そんなので満足しちゃうなんて、先輩はそんな安い女だったんですか」


 違うよ。って私は言う。

「あなたがくれたものだから。全部きれい」


「やっぱり安いじゃないですか」

 だって私ですよ? って。

 私の横まで歩いてくる。ゆっくりと。


「月がきれいなのだとしたら。それは太陽に照らされてるからですよ。月は自分で輝けません」


 ねえ、先輩。

 篠塚さんは言った。


「気が変わりました。トリックオアトリート。お菓子をくれない先輩を、私はやっぱり許しません」



 篠塚さんの顔がどんどん近づいてくる。

 それをぼーっと見ていると、いつの間にか二人の唇が重なっている。


 あぁ、これがキスなのか。

 って、私はぼーっと考えていた。

 唇って、思ったほどやわらかいわけじゃないんだ。硬くて弾力がある。

 キスそのものよりも、湿った熱い息が唇を撫でる、そっちの感覚のほうがくすぐったい。


 だけど足りない。

 さっき演奏してた時のほうが、よっぽど深くまで触れていたよ?

 だから。もっと。もっと先まで。


 触れていた唇を開くと、向こうも同じタイミングで開いた。

 目なんて合わせなくても呼吸は合うんだな、って、少しだけ感動する。


 舌を伸ばすと、篠塚さんの舌とぶつかる。

 お互いの舌が邪魔で、次にどう動けばいいのか分からない。

 だからとりあえず、舌先で篠塚さんの舌先をちろちろと舐める。

 篠塚さんも同じことを返してきて、遠慮がちに舌先を舐めあう。


 熱くて甘い唾液にまみれた舌。

 絡めたいというよりも、もっと奥を見たい。もっと深く触れたい。

 そんな衝動に動かされている。

 二人でもっと、ずっとどこまでも。


 Votre âme est un paysage choisi. あなたの心の中はとびきりの景色。

 舌を絡めあう深いキスは音楽に似ている。

 心の奥をさらけ出して、ふたりで覗きあってるみたい。

 あなたと一緒にいたい。

 あなたをもっと知りたい。


 あなたとふたりだから、

 生きてるって実感する。

 

 誰も触れないくらいに、二人でぎゅっと触れ合っている。

 唇。舌。鼻。唾液。体温。

 心、感情、

 今まで生きた時間すべて。

 これから生きたい時間すべて。

 私の舌は、唇は。あなたの全部に触れている。


 甘いキスをしましょう。なんて。昔からよく聞く言葉。


 私たちのこれが、キスとして正しいのか間違っているのかは分からないけれど。

 確かにキスは甘かった。


 すすり泣く噴水の、甘い、甘い湧き水は、

 月の光の中で。




「先輩の持ってるクッキー、半分ください」

 篠塚さんが突然手を伸ばしてきたと思うと、さっきのムーンライトを半分奪われた。

 袋を破って、ぱきっと半分に割って。

「結局自分で食べるんだね……」

 嵐みたいな篠塚さんに振り回されて、ちょっとだけ疲れてしまった私に。

「先輩、残りの半分食べてみてください」

 小さくぱくつきながら、にこにこと言ってくる。


 仕方なくかじりついた私に、篠塚さんは笑って言った。

「キスのほうが甘かったですね。先輩の勝ちー」


「ムーンライトに勝って嬉しいだろうか……」

 そんなことしか言えない私に、


「でも、ほら」

 篠塚さんは窓の外を指さした。


「月は、とてもきれいですねっ!」


「そうだね、とてもきれい」


 10月も、もう終わり。

 外が暗くなるのは早い。

 もう既に明るくなっている月は、まだ半月にもなっていない。

 これから少しずつ大きくなっていく。

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ムーンライト うみべひろた @beable47

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