浴場の狗

「これはあたしの日ごろの行いが良いからだな、うん」

「そうじゃない、運が良いだけだ」


 予定外にも宿泊することとなったアラゴの街。

 この街は、なんとおあつらえ向きにも温泉地だったのである。


 行きずりで宿をとることになった場所が温泉地とは、なんという僥倖ぎょうこうか。

 これを日ごろの行いの賜物だと言うシィナに対して、ただ運が良いだけだとレオンは反言するのだった。



「あたしたちはオークと戦ってすっごく疲れたんだよ、この疲れを癒すには高級旅館のおもてなしがないといけない。だからこれも必要経費なんだ」


 などと言って、シィナは安宿の前を素通りして、見るからに高級そうな旅館に飛び込んでいった。

 そして、ちゃっかりグレードの高い部屋をとる。

 レオンが止める隙は無かった。ふだんは怠け癖があるのに、こういうときだけは手際が良いのである。




 ***




「こんなの税金の無駄遣いだ……」

 ――と、レオンの深いため息が、あたたかな湯気の中に溶ける。


 部屋は高級感にあふれ、料理はとても豪華……そして極めつけがこれだ、広々とした露天風呂。

 旅館の大浴場とはべつに、この部屋には専用の露天風呂があった。


 この湯は疲労回復の効能があるというが、自分はいま国民の血税をつかって贅沢をしているんだと思うと、レオンにはむしろ心労がたまる。


 夕食を終えたあと、シィナは「先にでっかいお風呂も見てみたい」と大浴場へ行ってしまった。

 彼女が戻ってくるまでにゆっくり浸かっておこうと思ったが、どうにも落ち着かない。


 もう上がろう。レオンは岩風呂の縁に手をついて、体を起こした。



 そのときだ。

 カラカラ、と浴室の戸が引かれる音がした。



「お。なかなかいい雰囲気だにゃあ」


 ぺたぺたと床石を踏みながら、シィナが浴場へと入ってきた。



「シ、シィナ⁉ おまえ、大浴場に行ったんじゃ……」


「うん。どんなもんか気になったから、見るだけ見てきた。せっかく部屋に露天風呂ついてるんだから、入るならこっちだよね」


 平然とした顔でシィナは言う。

 一応タオルを巻いているが、尻尾があるせいで裾が引っ張られている。かなり、きわどい。



「脱衣所に俺の服があっただろ、俺が先に入ってるのは分かったはずだ!」

「そりゃもちろん分かったけど」


「じゃあなんで入ってきてんだよ!」

「せっかくだから、レオンの背中ながしてあげようと思ってさ。今日、レオンには危ないところを助けてもらっちゃったし、お礼しなきゃね」


「は⁉ そ、そんなのいいって!」

「安心しなよ、どうせレオンは恥ずかしがるだろうと思ったから、ちゃんとバスタオル巻いてきてやったんだ」


 なぜか偉ぶり、堂々と胸を張るシィナ。



 まだ十三歳、しかも同年代の平均よりは小柄な体格のシィナ。

 それでもちゃんと成長期は向かえている。

 わずかながら、タオル生地を押し上げるふくらみはあった。ほとんど寸胴のように見えて、実はしっかりとくびれもある。



「背中流してやるって言ってんだから。ほら、早く湯船から出てきなよ」


 シィナが手招きをしても、レオンは湯から出ようとしない。


「出てこないと、あたしからそっちに入りに行っちゃうよ? もちろん、お湯にタオルを浸けちゃいけないのがマナーだよね」


 そう言って、シィナはタオルの結び目に指をかける。

 タオルを脱いで、裸ですり寄ってくる気だ。こいつなら本当にやりかねない。


 レオンはついに観念した。手早くタオルを腰に巻いて、湯から出る。

 風呂椅子に腰かけると、少女が満足そうな顔で後ろについた。



「強引に風呂に入ってくるなんて、あきらかにセクハラだ。セクハラは男がするものだってのは偏見だぞ。女から男に対しても、セクハラって成立するんだからな」


「ふうん。それで? この状況をマリアに報告して、セクハラされましたって言うの?」


「…………」


 無駄だ。

 あの長官に言いつけたところで、『ふふ、あなたたちは本当に仲が良いのね』なんて優しく微笑まれるだけだ。まともに取り合ってもらえるわけない。



 レオンの目の前に鏡があった。


 高級旅館なだけあって、鏡の磨きにも余念がない。

 曇り止めの加工もされているらしく、鏡面には少女の姿がくっきりと写っている。


 しっとりと濡れた髪、その間から生える二つの猫耳も湿気を帯び、柔らかそうにしなだれていた。

 いつも飄々ひょうひょうとしている少女の顔が、今は妙に婀娜あだっぽく見える。


 ……だめだ。相棒の少女をそんな目で見てはいけない。

 レオンは視線をそらして、石のタイルを凝視した。



「レオンもやっぱり男のコなんだね。身長はあんまり高くないけど、こうやって間近で背中を見ると、大きく感じるよ」


 一方、シィナは一切はばかることもなく、相棒の少年の体をまじまじと見つめる。


 その視線は背骨の凹凸をたどり、下がっていく。


 ……シィナはふと思い立ち、腰に巻かれているタオルの上から、少年の尻のあたりをまさぐった。



「な、なにすんだっ⁉」


「いや、ちょっと気になってさ。人狼って、変身して狼になるんでしょ。でも変身する前の状態でも、狼の名残みたいなところあるんじゃないかなって。

……うん、思った通り。尻尾の名残があるね。ふつうの人より尾てい骨が大きいや」


「気になったからって、いきなり触るなよ!」



 レオンが抗議しても、「いいじゃん、減るもんじゃなし」と、シィナは触りつづける。



「あたしの場合、そのまま尻尾が生えてるわけだからさ、根元の骨だけ触るってできないんだよね。……ふうん、こんな感触なんだ。なんかコリコリしてておもしろいにゃ」


 尻の割れ目の少し上。

 骨の出っ張りをくりくり触られると、もどかしい掻痒感そうようかんが背筋を駆けのぼった。


「いい加減、やめろよ!」とレオンは顔を真っ赤にして制止するのだが、その反応がおもしろいのか、シィナの手つきはさらに大胆になっていく。



 そして二人は、激しい攻防の末、つい泡で体をすべらせて転んでしまう。



「うわっ」

「んにゃっ」


 互いの体を巻き込みながら、洗い場の床に転倒する。


 風呂椅子が跳ね飛び、カポーンと小気味よい音が響いた。




「…………う」


 石の床にはげしく体をぶつけてしまい、うめくレオン。


 背中には硬くひんやりとした感触がある。

 一方、体の前面は柔らかくあたたかい感触。


 素っ裸の少女が、自分のうえに覆いかぶさっていた。



 転んだ拍子に、体に巻いていたタオルが脱げてしまったらしい。

 シィナが、なにもまとっていない状態で、ぴったりと自分の体にくっついている。


 なにからなにまで柔らかかった。



 ……そして、良い匂いだった。



 二人そろって泡まみれなのに、せっけんの香りを押しのけて、シィナの匂いが直撃する。

 甘くて暖かい少女の香気が、鼻腔をつきぬけて頭蓋のなかで踊りまわった。


 全身に血がたぎるのを感じた。

 動悸が急加速する。

 爆速で体内をかけ巡る血液。

 血がまるで沸騰したように熱い。



 なにかが目を覚ましそうだと感じた。

 自分のなかに眠るなにかが、理性を押しのけて飛び出てきそうだと。



「――――っ‼」

 尾てい骨が風呂場の石床に押しつけられて、鋭い痛みが走った。



「わ、悪いっ‼」


 痛みで我に返ったレオンはすぐに起き上がり、泡まみれなのも気にせず脱衣所に飛び込んでいった。


 そしてピシャリと戸が閉められたあと、シィナがゆっくり起き上がる。


「……背中を流すだけのつもりだったのに、思いがけずサービスしちゃったにゃ」


 あんな事故があったというのに、シィナはあまり気にしていない様子だった。

 そもそも恥じらいがあるなら、風呂に入ってきたりしないだろう。


 何食わぬ顔で、自分の体を洗い始めた。呑気にも鼻唄を吹かせている。




 一方、脱衣所に逃げ込んだレオンは、息も絶え絶えだった。


 レオンは洗面台に手をついて、ゆっくり息を落ち着ける。

 脱衣所の床に泡をぼたぼたと落としているが、そんなことを気にする余裕はなかった。



「いてっ……」


 突然、口内に痛みを感じた。

 鏡で確認してみると、どうやら犬歯で口の中を切ってしまったらしい。


 レオンはもともと犬歯が大きい。これもイヌ科の血ゆえだ。

 ……だが、噛み間違えでもないのに、犬歯で口内を切ってしまうなんて初めてのことだった。


 鏡で歯を見る。

 自分の犬歯は、ここまで大きかっただろうか……。


 じわじわと、血の味が口の中に広がっていく。


 不思議と、それを不快と感じない。



 自分の体になにが起こっているのか、よく分からない。

 少年は裸のまま、呆然と鏡の前で立ち尽くしていた。

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