はなさないで

神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)

第1話

「はなさないでらすけな」

 そう言って、小さな女の子が私の腕を引っ張る。おかっぱ頭に白い三角巾、スカートの上には白い前かけ。壁時計を確認する。

 ああ、もう学校が終わったのか。

 ここ、月岡つきおか病院は、高貴な女子のための施設である。その性格上、男性職員は極力減らしている。

 また、施しの意味もあり、身寄りのない少女を引き取り育てている。学校に通わせてもらえる代わりに、小間使いのようなことをしている。

 もしかして、タダ働きをさせられているのではと危ぶみもした。サボらなければ、お小遣いはもらえるとのこと。ほっと胸をなでおろした。

 私はそもそも幼なじみの頼みで、ここまでやって来たのである。

 もちろん、私自身も病んではいたのである。しかし、結局、それは自業自得なのである。

 友人は、違う。不治の病であった。こんな生家から遠くの病院に追いやられた時点で、もはや彼女は家族にとって死人だった。

 私も私で、前後不覚だったとはいえ、大きな間違いをしてしまった。

 もう家には居られない。

 そこに、友人の手紙である。天の助けかと思った。私は、兄から兄の生母の形見である銘仙を貰い受け、家を出立したのである。

 とにかく、その友人が亡くなった。

 予定調和である。しかし、弱った身には、年若い娘の死がそら恐ろしかった。

「お嬢さん、さあ、行くべし」

 講堂での簡易な葬式が済んでから、私は部屋からほとんど出られなくなってしまっていた。

 娘は、今日も私を連れ出そうとする。そのうち諦めるだろう。下を向いて、耐える。

「ね、お嬢さん。はなさないでらすけな」

「はなさないで…?」

 フランス語のような響きに、小首を傾げる。

「見だらわがるすけ」

 ふわっと立ち上がる。ろくに食事も取らなく、随分軽くなってしまった身体。娘が、ぐんぐん引っ張る。娘の背中が、小さかった頃の友人に重なる。

 はなちゃん、ねえ、あそぼうよ。

 涙が溢れる。私の、ともだち。

「はい、お嬢さんのブーツ」

 玄関へ着くと、部屋から持ってきたらしい靴を示された。

「草履では、駄目なのかしら」

「だんめ」

 運動靴をはいた娘は、待ちきれないらしい。足をバタバタ鳴らしている。

「眩しい」

 外の明るさに、目が痛む。

「良い?」

「ええ」

 再び、手を取り歩き始める。病院の裏へ回る。平気で、板塀の扉を開ける。向こう側には、鬱蒼とした森。息を呑む。

「でえんじょんぶだよ」

「うん」

 意を決して、頷く。

 草履では駄目だと言われた理由はすぐに解った。紛うことなき山道なのである。

「ここはね、月岡つうでしょ。お月さまが、きれいに見えるすけな」

「岡…。岡なのかしら…」

 息も切れ切れ、応える。汗なんて、久しぶりにかいた。

 小さい頃、あの子はお転婆だった。おリボンを交換しようと言い出したのも、あの子だった。それで、兄にひどく叱られたっけ。

 今は、兄の戸惑いの理由が解る。本当に悪いことをしたのだ。あの子は、死の間際まで、ごめんなさいと繰り返していた。あの子は、理由を知らないのに。

「可哀想なことをしました」

 涙が。

「お嬢さん、見で」

 顔を上げる。花が凪いでいた。はなさないでらすけな。

 一面の水仙。ラッパのまわりに、花弁が並んで。ニラによく似た細長いはっぱ。

「お嬢さんの友達に頼まれでらったすけ」

「うん」

 さわさわと水仙が揺れる。

「あの人、言ってらったよ。お兄さんがお嬢さんのために選んだリボンだったのに、勝手に取り換えっこしたから怒られたんだって。これだば、愛情どろぼうだって。だがら、人前で怒鳴られても当然だったって」

「ううん」

 首を振る。そんなことないのに。

「ねえ、お嬢さん。きっとあの人も、お兄さんが好きだったんでない。だすけ、そんなこと言ったんでしょ」

 ……。愛情どろぼう。

 ぷっとふきだす。

「そうね。それなら、愛情どろぼうに違いないわ」

 目元を指先で拭う。

「はあ、面白い」

 あの子、わざとね。自分の死に際まで使って、私を笑わそうとしたのだ。

「さあ、お嬢さん。泣いで、笑って元気出たでしょ」

 小さな手を伸ばしてくる。帰り道は、歌をうたいながら。

「ねえ、あなた。大きくなったら、看護婦におなりなさいな。そうして、月岡病院に帰ってくると良いわ」

「ええ?」

 私みたいに落ち込んでいる子がいたら、どこへでも連れ出してやればいい。そう伝えると、彼女は振り返りにっと笑った。

「秘密の花園なら、いくらでも知ってらすけ」

「頼もしいこと」

 娘は勢いづいて、駆けていった。





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はなさないで 神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ) @kamiwosakamariho

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