放さないでと、僕は言う

lager

放さないでと、僕は言う

『放すなよ』


 氷壁に映る僕が、恐い目をして僕を睨みつける。

 音の消えた世界。

 真っ白な闇の中、強く吹きすさぶ風が全身を打ち付けている。

 けど、もう僕の耳には何の音も聞こえない。

 ただ、頭の中に声が響くだけだ。

 

『それだけは絶対に放すな』


 怒りだろうか。悲嘆だろうか。いや、最後の希望に縋りつく、それは懇願の声か。

 もう一メートル先も見通せない僕の目の前には、宇宙に向けて聳え立つ霊峰の、ほんの一部のはだ

 神秘的な程に真白い絶壁。

 そこに映る、死にかけた男の姿。


『それだけは、何としても』


 放すな、か。

 思わず苦笑してしまう。

 いや、もう口の端を持ち上げることもできそうにない。気持ちの問題だ。


 そう。

 僕はもう、色んなものを手放してしまっていた。

 アックスも、サングラスも、酸素ボンベも。そして、大事な相棒――アンディも。


 ――ジョージ、あんたが酸素ボンベ嫌いなのは知ってるが、こいつは頼りになるぜ。


 なあ、アンディ。

 結局、酸素足りなくなっちゃったな。

 けど、分かってるよ、お前の言ったことは間違いじゃなかった。


 とうに感覚をなくした胴体に食い込んだザイルの重みを思い出す。

 山に蹴落とされた僕たちを繋いでいたザイルは、やはり山に断ち切られて僕たちを別った。

 白い闇に墜ちていった相棒の姿が、その伸ばされた手が、僕の手を離れて行った。

 

 間違いはなかった。

 ただ、負けた。

 アンディは死んだ。そして間もなく、僕も。


 けどさ、アンディ。

 お前の言ったこと、間違いじゃなかった。

 僕たち、やったよな。


 地球の頂点に。

 宇宙に一番近い所に。

 なあ、アンディ。

 僕たち、立ったんだよな。


 には何もなかった。

 なんにもなかった。

 空と、風と、雲と、光と、闇と、そして、僕たちだけがあった。

 僕たちはあの瞬間、剥き出しの魂だった。

 全てが満たされて、そして空っぽだった。

 永遠だった。


 だから、きっと持ってかれちまったんだ。

 

 帰る力を。生きる力を、あの時、山に持っていかれた。

 重力は平等だった。僕とアンディは、揃って滑落した。

 僕は平らな岩場に引っかかり、アンディは引っかからなかった。

 僅かにアンディを支えたザイルは凍り付いた岩によって裂かれ、彼はそのまま消えた。


 僕の手には今、一台のカメラだけが残っている。崖の縁、アンディが消えた奈落の底へ同じく落ちかけている、ヴェスト・ポケット・コダック。その紐バンドを僕の手が握っている。いや、僕の手に紐が絡みついている。

 安いのはともかく、軽量なのがいい。そう思って買った最新モデル。

 この中には、僕とアンディが山頂で撮った幾枚もの写真がしっかりと収められている。


『そうだ。絶対に放すな』


 氷壁が作り出した鏡の向こうで、今にも死にそうな男が僕を睨みつけている。


『お前はもう助からない。けど、そのカメラさえ残っていれば、証拠は残る』


 そうだ。

 世界の頂き。エベレストの初登頂。

 それを成し遂げた男たちの姿が、この中には残っている。

 

 歴史的偉業だ。

 僕の名前は世界史に刻まれる。

 僕の名誉は永遠のものとなる。


『そうだ。だから、絶対に手を放すな』


 はは。

 ははははは。


 心の底から笑いが込み上げてきた。

 けど、僕の凍りかけた体はぴくりとも動かない。

 やっぱり気持ちの問題だ。


 おいおい、馬鹿なこと言うなよ。

 歴史的偉業?

 世界的栄誉?


 ふざけるな。

 僕たちは敗けた。

 僕たちは失敗したんだ。


 山の上に立ったからなんだ。

 その後で生きて帰れなかったなら、それは登山家としての敗北だ。


 考えてもみろよ。

 僕たちが山の中に消えて、それで人類がエベレストを諦めると思うか?

 いいや。

 人類は必ずまたエベレストに登る。

 これは大いなる挑戦なのだ。人類から地球への、なんの意味もなく、それいて最高にカッコイイ挑戦なのだ。

 そうだ。またきっと、あの究極の無垢へと辿り着くものが現れる。

 きっと、無事下山するものも現れる。


 栄光は彼らのものだ。

 僕たちは敗北者だ。

 

 彼らが栄光を手にした後で、凍死した僕の死体からカメラが見つかって、「実は僕たちが先に登頂してました」って?

 そんなみっともない話があるか。


『何を言っている。馬鹿なことを考えるな』


 僕の頭に声が響く。

 僕は凍りゆく体に最後の血を巡らせ、指先に全神経を、全感覚を、全力と全霊を込めた。

 人差し指を開く。


『やめろ。放すな』


 中指を開く。


『よせ』


 薬指を開く。


 するり、と。

 指先をバンドが滑った。


 永久凍土の底へ。

 白い暗闇の中へ。

 僕の栄光が落ちていく。

 墜ちていく。

 堕ちていく。


『ああ。なんて馬鹿なことを』


 頭の中に声が響く。

 これは僕の本心だろうか。

 それともただの良識だろうか。


『なぜ放してしまったのだ』


 何を言っているのやら。

 栄光はこの手の中にある。

 僕は知っている。

 真の無窮を。

 世界の頂き、その本当の意味を。

 鮮明に思い出せる。

 何も手放してなんかないさ。

 

『だが、それは誰にも知られることはない』


 それがどうした?

 

『ならば、どうしておまえは山に登ったのだ』



 ふふ。

 簡単なことだろ。



――Because it's there.そこに山があるからさ

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