雨とくちなし

綿雲

ささくれの理由

「あ。はなちゃん、ささくれできてる」


お母さんに心配かけてるんでしょ、と言いながら美雨はきらきらピンク色に光る爪の先で私の人差し指をなぞった。曇天のファミレスの午後、人がいるわけでもないのに、私たちはひそひそ話をするみたいに小声で話している。


「なにそれ」

「よく言わない?ささくれができるのって、人から心配されてるからなんだって」

「ふーん」


話半分に相槌を打って赤くなった部分を引っ掻く私を、だめだめ、と制しながら、美雨は化粧ポーチから爪切りとハンドクリームを取り出す。おまけにリップクリームや何かも飛び出してきて、よくその小さなポーチにそんなに詰め込めるものだ。


「ほら、出して。お手入れしたげる」

「ん」

「もう、はなちゃんはしょーがないんだから」


美雨はそんなふうに言いながら嬉々として私の手を取る。恭しく手の甲を撫ぜるその様子は、物語の王子様でも気取っているみたいでなんだかこっちが小っ恥ずかしくなった。どちらかと言ったら保湿も疎かな私より、いつも可愛い美雨の方がお姫様という感じなのは言うまでもないけれど。


「なんで雨の日なのにこんなに乾燥してるの、このお手ては」

「……遺伝?」

「適当ばっかり」


美雨はピンクの水玉模様の小さな爪切りをそうっと私の指に宛てがう。心配そうな眼差しを向けてくる美雨から、スマホを見るふりをして視線を逸らした。そんなに壊れ物を扱うみたいにしてくれなくてもいいのに。剥がれて薄ら白くなった皮膚が、ぱち、と小さな音を立てて切れる。


「だいじょうぶ?痛くない?」

「心配しすぎ……お母さんか」

「はなちゃんがずぼらなのが悪いんだよ!手ぇ冷たいし」


美雨はほっぺたをハムスターみたいに膨らませて、これまたピンクの水玉模様のチューブを手に取った。お気に入りのブランドでひととおり揃えているらしい。白いクリームを自分の手のひらに揉み込むようにすると、ふたたび私の手を貸すよう求めてくる。

かさついた手指に、花の香りに染まった肌が触れる。まだ少し冷たいクリームが私と美雨の手に馴染んでいくうち、じわじわと指先が温まってくるのがわかった。


「どお?いい感じ?」

「たぶん」

「ちゃんとこまめに保湿しなきゃだめだよ、クリスマスんときにあげたの使ってないでしょ、オイルのやつ」

「使ってるよ」

「うそ。持ち歩いてるとこ見たことない」

「うちで使ってるし」「ほんとに〜?」


その時もらったのも、このハンドクリームと同じ花の香りがする保湿剤で、私が乾燥しがちなことを知ってのチョイスだったようだ。ただ、いい匂いすぎて蓋を開けるたび机周りの空気がフローラルになるので、学校で使うのは躊躇われたのである。それに。


「……美雨って、いつもその匂い」

「んー?ああこれ?気に入った?」

「うん。何?」

「えーとね……ホワイト、ガーデニア?だって!いいにおいだよね」


ガーデニア。ググってみると、和名ではクチナシの花のことらしい。美雨にそう伝えると、なぜだかひとりでウケてけらけら楽しげに笑った。ギャルの沸点はよくわからない。


「あはは、だからかなあ、あたしがこのにおい好きなの」

「なんで?」

「だって、くちなしって、はなちゃんみたい。はなちゃんてあたし以外には大人しくてぶあいそで無口だし」

「……」


多少口数の少ない自覚はあったものの、無愛想とまで思われているのか。若干ショックを受けて黙っていると、飽きずに私の手を揉んでいた美雨がぽつりと零した。


「だからさあ、いつも心配してるの、あたしも。もしあたしがいなくなったりしたら、はなちゃんは大丈夫なのかなぁって……」


私は無言のまま、ふたり分の手の下敷きになったノートや参考書たちを見下ろした。いつか来る卒業の日のことを言っているのか、それかもっと遠い、あるいは近い未来のことを言っているのだろうか。彼女の瞳は長いまつ毛の下に隠されてしまって、そこになにが映っているのかはわからない。

だけど私は、いつもの彼女らしくもなく湿っぽいその様子に、少しだけほっとしてしまった。


「……心配しててよ。ずっと」


全然大丈夫じゃないよ。

呟いたせりふに、美雨は大きな目をまん丸にして私を見つめていた。握った手と顔がいやに熱くて、ふいと顔を背けると、おそろで買ったピンク色のスマホケースが寄り添うようにテーブルに並んでいた。


「……も〜!はなちゃんてば、あたしがいなくちゃダメなんだから!」


こんな口先に乗せられて、キャンディみたいに甘ったるい笑顔を浮かべてしまう、ちょっぴりちょろくて、やっぱり可愛い美雨。こんなどうしようもない私を、どうかもうしばらくは世話してやってほしい。君に気にかけてもらえるのなら、ささくれなんかいくらできたって構わないから。


「あ、ねえ、手ぇちゃんと治ったらさ、ネイルもしたげる。ピンクの、あたしとおそろのやつ」

「別にいらないんだけど……」

「え〜いいじゃん、たまには付き合ってよ〜!」


乾いた花弁に降り注ぐ優しい雨。いつまで降るかわからないけれど、少なくともこの傷が癒えるまで。

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