指先で花ひらく
中村ハル
花とささくれ
指先だけでなく、心もささくれていた。
自業自得だ。
法螺ばかり吹いていたら、誰も信じてくれなくなったのだ。
指先のささくれが育ちすぎて羽根みたいになってきた、と言ったら、心底軽蔑した目つきで彼女が吐き捨てた。
「そういう嘘とか、面白くない」
嘘ではない。ほら、と見せようとしたら「怒るよ」と絶対零度の声音が僕の頬を殴った。心外だ。
仲のよい友人との会話のノリで、彼女にもいかにも嘘だと判る与太話をしたのが発端だった。ムクドリの群れが空をうねりながら舞う動画を見せて「フライングオクトパスだよ」と話しただけだ。「嘘つけ」と軽い突っ込みが入るところで、彼女は心底驚いた顔で動画を見詰めた。すぐに「嘘だけどね」と言葉を重ねたら、真顔で「は? なにそれ、くだらない」とふたりの仲に亀裂が入った。
それ以来、彼女の僕への態度はひどく冷たい。
ばたん、と騒がしい音を立てて玄関扉が閉まるのを、溜息と共に受け流し、僕はじっと手を見る。
右手のささくれが、尋常じゃなく育っていた。
育つという言い方が正しいのかは判らない。
始めはありがちな手荒れからくるささくれだった。乾燥から人差し指の爪の横、それから続けて中指の甘皮の右下のあたりにずきりと痛みが走った。
ささくれというのはほんの小さな皮のめくれなのに、なぜあんなに痛いのか。とりたてて剝いたわけではない。なにかの拍子に服の繊維に引っかかって、ずきりと痛む。時には赤く腫れたりして、それが猛烈に痛い。ひっかからないように、はさみや爪切りで浮いた部分を切ろうと思ったが、短すぎて刃で捕らえられない、指先で引っ張ったら痛みが増した。
そうこうする内に、小指、親指また人差し指と、ささくれは次々と増えていく。今や無事なのは薬指だけである。
それも、剝けたささくれが伸びている。傷の幅が広がっているのかも知れないが、ぴらぴらとめくれた皮膚が揺れている。大袈裟だと思うだろう。だが指先で軽く撫でつけてやりたいくらいには育っている。ハンドクリームは効果がなかった。ささくれの目立つ親指で中指と小指のささくれを撫でてやる。
「ささくれがひどいんだけど、見る?」
「見ねえよ」
友人が心底興味がないという声で応えた。視線はスマホに釘付けのままだ。
「そう言わないでさ」
差し出した指先をちらりと見て、それからもう一度見て、僕を見た。
「なんだよそれ」
「な、ひどいでしょ」
「嬉しそうな顔するとこじゃねえよ」
正気を疑うような目で僕とささくれを見比べる。
右手は爪の周りがデコラティブに見えるほど、白くふんわりとしている。折角なので、もう帰ってこない彼女が置いていった藍色のネイルで爪を飾ってみようとしたが、ささくれが邪魔で断念した。左手は、小爪なのかささくれなのかよく判らないモノで指先が埋まりつつある。右よりもとげとげとした感触なのが楽しい。
「楽しいならいいけどさ」
友人は僕の手を取って、ためつすがめつして、直ぐに飽きた。写真を一枚だけ撮ったが、SNSに投稿する気はさらさらないらしい。
「意外とふわふわなのな。ふわふわって言えばさ」
顔に似合わず甘い物が好きな友人は、何をどう連想したのか、ふわふわのショートケーキの店の話を見つけたエピソードを語り出した。僕は指先で、ささくれを弄る。乾いた皮の感触と、微かで鋭い痛みが、僕の心を別の場所へ連れて行く。友人のショートケーキエピソードは終わる気配を見せなかった。
「親不孝者」
「え」
「ささくれができるのは親不孝だって言うでしょうが」
「親の死に目に会えない、じゃなかった?」
「それは夜に爪を切ると、でしょ」
「蛇が出るのは」
「夜に口笛を吹くと」
「どれもこれも迷信じゃん」
電話の向こうで姉が鼻で嗤った。
ささくれが治らないので、ないかよい方法がないかを聞こうと思ったのだ。
「皮膚科に行きなさいよ」
「わざわざ? ささくれで?」
「ささくれで数年ぶりに姉に連絡してくるんだから、病院ぐらい行けるでしょうよ」
「面倒臭い」
「じゃあ知らないわよ」
切り際に「ネイルオイル送ってあげるから」とさりげなく言葉を放り込んでくるのが姉のよいところだ。礼を言う前に通話は一方的に切られてしまった。
もはや両手の指先は、花のようだ。いや、鳥の羽のようでもある。このまま翼にでもなるのではないか。だが、指先だけで、一向に第二関節から下には広がる気配はない。それはそうだ。さすがにそこまでささくれが広がったら、僕と雖もSNSに上げる。
「いや、もしかしたら、解決の糸口になるかも」
同じような目に遭っている人が一人くらいいるだろう。いや、僕が知らないだけで、さほど珍しい症状ではないのかも知れない。人類の英知の結晶、SNSよ。
僕は己の指先の写真をSNSに放り投げた。
もともとそれほど使っているわけではない。
それでもすぐに、フォロワーからリアクションがある。
『なにこれwww』
『ささくれすぎでしょ』
『でた、いつもの与太話』
返答に困って、そのままスマホを閉じた。
通知音が立て続けに鳴って、スマホに目を向けた。
拾い上げて通知を見る。バズるほどではないが、いつもよりはリアクションが多い。とはいえ、たかがささくれだ。フォロワーからのしょうもないコメントと、幾つかの通りすがりの罵倒と、本気なのか判断のつきにくい対応策がリプについていた。読むともなしに流していると「呪い」という文字が過っていって、慌ててスクロールを止める。
『魚の呪いに見えます。それはウロコではないですか。または、鳥の呪いである可能性もあります。最近、鳥か魚を殺したり傷つけたり、食べたりはしませんでしたか』
「そりゃ、魚か鳥は大抵食べるでしょ」
ぼつりと呟く。もっと面白い話かと思ったのに、がっかりだ。すい、っとスマホ画面をなぞる指先は、白くふわふわで可愛い。自分の一部なのに、可愛い。
毎朝、毎夕、香りのよい石鹸で綺麗に洗い、ハンドクリームを塗ってやる。姉から届いたハーバルオイルを塗り込むと、かさついたささくれは、しっとりと艶を帯びて可憐だった。
指先を見詰めていると、自然と口元がほころぶ。
穏やかな時間に割り込んできたチャイムの音に気付いて、僕は立ち上がる。
宅配でも届いたのだろう。新しいハンドソープかも知れない。
かちゃりと扉を開けると、グリーンのキャップと揃いのジャンパーを着た男がにこにこと立っていた。
「毎度、どうも」
「あー、っと、ハンコ?」
「今日は回収です」
「え、集荷依頼は出してないけど」
戸惑う僕の、扉のノブを握った手を見て、男はまたにっこりと笑う。
「ご依頼を受けて回収に来ました。それ」
と指さすのは、僕の手だ。
「ずいぶん立派に育てましたね。魚か鳥だと伺っていたんですけど、これは花ですねえ」
「え、ちょっと、何」
「あれ、ご連絡いっていませんか。DMしたって言ってたんですけど」
咄嗟に頭に浮かんだのは、SNSで呪いがどうとか書いていたリプのことだ。
「え、呪いって」
「やっぱりご連絡いってたんすね。そうです、それです。呪いかどうかは調べてみないとなんともですけど。ちょっと失礼」
男は脚で扉を押さえると、僕の手をするりと取って、じっくりと観察する。
「んー、専門ではないので断言は出来ないですけどね、呪いって感じはしないっすね。ささくれができたときに、なんか触りませんでした? 恐らくその時に種子か花粉か胞子が入り込んだんだと思いますけど。植物の増え方には詳しくないからアレっすけど、これ、シロツメクサじゃないかなあ」
「花冠とかにする?」
「そうそう、それ。ほら、現に、爪が白くなってきてますよね」
シロツメクサのツメって、爪のツメだっけ。尋ねる間もなく、男は懐からひらりと銀色の大きな鋏を取り出すと、怯む僕の目の前で、刃を閃かせて素早く手首を刈り取った。
ぼたり、と落ちたのは、鮮血ではなく青い香りの透明な液体である。
ひ、っと悲鳴を上げるより早くに、もう片手もばつり、と剪定された。
目の前が急速に暗く落ちていく中で、そういえば、痛くはないな、とぼんやりと思っていた。やっぱり、ささくれは、親不孝なのだ。記憶はそこまで。
痛い。
びりびりと、無くした指先が痛む。
はっと目を覚ます。息が止まりそうになる。
手首が。
慌てて押さえた手の甲に、逆の手の指先の感触と暖かさが触れて、パニックになった。手がある。指がある。ここは、どこだ。
僕は玄関で、扉に頭を付けるように身体を丸めて倒れていた。どれくらいそうしていたのかは判らない。ノブに手をかけて身体を引き起こすと、鍵はしっかりとかかったままだった。
では、先程の男はいったい。
夢だとしたら、何故、僕は玄関までいったんだっけ。
ぶるぶると頭を振ったが、記憶が零れてくることはなく、ただ手首を刈り取られた時の鋏の刃の冷たさが手首を疼かせた。
指の先には、幾つかのささくれが小さく鋭い痛みを主張するだけだ。
はっと思いついて、SNSを開く。
投稿したはずの、僕の指先を映した写真はどこにもみあたらず、ただ、見知らぬ相手からのDMが一通だけ未読のまま残されている。おそるおそる開いてみたが、差出人はAIで作ったような合成美女のアイコンで、怪しげなリンクがぽつんと載っているだけだったので削除した。
そして、気がつく。
今さっき削除した人物のアイコン。AI美女だと思ったのは、手の指がたくさんあったように見えたからだ。顔の前に揃えた、指がたくさんある両手に、花を乗せていた。あの花が、僕の手首だったとしたら、指がたくさんあるように見えないだろうか。
だが、今さら、削除してしまったDMが見つけられるはずもなく、真相は藪の中である。
指先で花ひらく 中村ハル @halnakamura
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