第8話 お見舞い
「杏、とってもとっても申し訳ないんだけど、6月も札幌帰れそうにない」
「え、なにそれ、マジ?」
私たち夫婦は、少なくとも月に1回は札幌か東海村かのどちらかの家に泊まることを約束していた。だけど今夜のビデオ通話でいきなり修二くんに謝られてしまった。5月については連休中、修二くんのご両親の北海道旅行に二人で同行したことで一応約束は消化したことにしていた。気に入らないのはまだ修二くんは札幌の家にまだ泊まっていないことだ。確かに女性専用の集合住宅で新婚特有の騒音を立てるのは問題だろうが、それは別の場所でこなしておいて、文字通り家では寝るだけにすればいい。私は何度も修二くんにそれを力説していたのだが、どうやら今回も単純に実験の問題らしい。
「いやほんと、杏、ごめん。だからこっち来てよ」
「え~、榊原先生は?」
前回東海村に行ったとき、まだ家が見つからない榊原先生が居候していたのだ。
「あ、大丈夫。なんとかなった」
「あ、そう」
じゃあしゃあない、大聖女様が東海村へ行幸してやるか。
それならば私は、東海村でしたいことがあった。
「そう言えば修二くん、新発田先生のお加減はどう?」
「うん、もうとっくに退院はしててね、僕も何回かご自宅にお見舞いに行った」
「そうなんだ、お嬢さんかわいいでしょう」
「うん、なんだか懐かれてるよ」
「私もさ、問題なければお見舞い行きたいな」
「杏も、お世話なってるもんな」
「そうだよ、ご都合、聞いてみてよ。私の都合はなんとでもなるから」
「理論はいいなぁ」
「実験できない私にそれ言う?」
「言う」
笑い合って、今夜の通話を終えた。
6月になり、私は雨の茨城空港に着陸した。北海道は梅雨がないから新千歳で傘を持っているのは恥ずかしかったが、梅雨時の内地に向かう人の一定数は傘を持っている。ちょっと安心した。
なお、北海道の人は、本州などのことを内地という。これでは北海道は自分たちで「外」と言っているようで、それでいいのかと私はいつも思う。
空港のロビーで、修二くんはすぐわかった。ライトブルーのポロシャツに濃い目のブラウンのカーゴパンツである。私はと言えば、オレンジのポロシャツにGパンだった。お互い気楽な格好であるが、修二くんのカーゴパンツはのぞみと同じ発想なのだろうか。念の為聞いてみる。
「カーゴパンツいいね。私も買おうかな」
「え、杏は実験しないじゃん」
やっぱりのぞみと同じ発想だ。ちょと妬ける。
「それさ、まさかとは思うけど、のぞみの真似?」
「え、緒方さんも履いてるの?」
安心した。
傘を出して、駐車場を歩く。新発田先生の家に持っていくお土産が濡れないか気になる。修二くんの車は展示されている2機の戦闘機の近くにおいてあった。想像より大きい。
「戦闘機って、大きいんだね」
と言ってみたが、ちょうど現役の戦闘機の爆音で私の言葉はかき消されてしまった。もう笑うしかない。
「修二くんは、戦車のほうがよかったかな」
「うん、まあね」
「次来るときは大洗着がいい? 大洗に行く口実ができるでしょ」
「それは大丈夫、お義父さんとときどき行ってる、ていうか行かされてる」
「なにそれ、聞いてない」
父と修二くんが仲良くしてくれることはいいことだが、若干不満がある。
「あのさ、修二くん、お父さんと大洗に行く時間はあって、私と札幌で合う時間は無いってこと?」
「いやいやそんなんじゃないよ。だいたいお義父さんがいきなり来て、大洗に食事に連れて行ってくれるんだよ。それだけ」
「ほんとにそれだけ?」
「ほんとにそれだけ」
修二くんをここで問い詰めてもうまくはぐらかされそうだから、今度父を尋問してみよう。
一旦家に行って荷物を置き、お土産だけ持って新発田先生のご自宅へ向かう。雨が強く、真っ昼間なのに空が暗い。その空を見ているだけで新発田先生の様子が心配になってきてしまう。
「杏、大丈夫だよ。僕何回かお見舞いに行ってるけど、確実に良くなってきてるから」
「ならいいんだけど」
「だいたいさ、新発田先生、杏に会いたがってたよ。ていうよりお嬢さんかな」
「ふーん」
新発田先生のご自宅はマンションの2階だった。玄関のブザーを押すとしばらくして中から「はーい」という返事があったが、若いというか幼い。ガチャガチャと鍵を開ける音がしてドアが空いたら、視界の下の方に可愛い女の子がたっていた。
「しゅうじくん、こんにちはー」
私の記憶のお嬢さんより、ずいぶん幼くびっくりした。でも落ち着いて考えたら、一般公開で会った子の妹なのだろう。
「おねーさんは、しゅうじくんの、およめさんですかぁ?」
私はしゃがんで目線を合わせた。
「そうです、修二くんのおよめさんの、杏です。よろしくね」
「みほです。よろしくおねがいします」
そんな会話をしていたら、さらにひとりやってきた。
「やっぱり去年のおねえさんだ!」
「久しぶり~。元気だった?」
「うん!」
さらに奥様もいらした。
「どうもはじめまして。新発田の家内です。天気悪いのにわざわざ来てえもらっちゃって」
「はじめまして。杏と申します。唐沢がいつもお世話になっております」
ちょっと奥様は考えて、発言した。
「ねぇ杏さん、今のって言ってみたかっただけなんじゃないの?」
「ばれました?」
「ねぇ、早くあがってよ」
姉妹の姉の方に手を引っ張られる。
「そうだ、お名前教えて」
「まほです」
「まほちゃん、これお土産、持ってってもらっていい?」
「うん、ありがとう。パパー、お土産もらったー」
新発田先生は、リビングのソファにジャージ姿で座っていた。
「ああ神崎さん、じゃないや、杏さん、この度はいろいろと申し訳ない」
「なんで先生が謝るんですか?」
「いや、君から唐沢くん、引き離しちゃったみたいで」
「まあ物理的にはそうですけど、法的には入籍しちゃいましたから、結果オーライです」
私達のことより新発田先生のお体のほうがよっぽど心配だったので軽く返事したのだが、新発田先生は涙ぐんでしまった。
「あ、先生、そんなふうにお気になさらなくても」
「いや、ほんと悪いことした。一回ちゃんと謝らないと、死んでも死にきれないと思ってたから」
「そんな事言わないでください、実際私達は幸せですから」
奥様がトレーにお茶とお菓子をのせてリビングに入ってきた。
「あなた、そんなに思うんだったら早く復帰して、唐沢くん札幌に返してあげなさいよ」
「いや、それはまた話は別だ。彼には来年SHELに来てもらうことになってるんだから」
「それじゃ杏さんはどうなるの? まだ別居させるの?」
「それは大丈夫、彼女もね、SHELに来るの決まってるから」
「杏さん、それでいいの?」
「さ、札幌は快適ですけど、私は理論なのでどこでもだいじょうぶです。ていうより、お加減はいかがですか」
「うーん、とにかくリハビリがきつい。君たちより若い子にさ、猛烈にしごかれてるよ」
「必要なんでしょうね」
私も祖父がリハビリに苦しんでいたのを見ていたから同情的になった。
「杏さん、だめよ。男は甘やかしたらきりがないわよ」
「は、はい」
まほちゃんが、やってきた。
「ねぇ杏ちゃん、わたし研究者になるためにお勉強がんばっているんだよ」
学校のものだろう、ノートをみせてもらった。大きいが丁寧な字でしっかり書いてある。
「まほちゃん、筆算が丁寧に書いてあって、とってもいいね」
「うん、筆算ちっちゃく書くと、パパ怒る」
「筆算はね、大きく、まっすぐに丁寧に書かないと、結局計算まちがえちゃうよ」
「パパとおんなじこと言うー」
「そうだよー。真理は一つ!」
「なにそれー?」
「本当のことはひとつだけってことだよ」
「わかったー」
私も修二くんも姉妹に歓待され、幸せな気分で過ごせたお見舞いだった。
夕食までいただいてしまい、先生のお宅を辞して外に出ると真っ暗だった。
「晴れていると、結構星見えるんだけどね」
修二くんが言う。そう言えば、去年の秋、みんなで星見キャンプに行ったのを思い出した。
「キャンプ行ったのが、ずいぶん昔みたいな気がするね」
「楽しかったね」
「また行きたい」
「うん、なんとか行きたいな」
車に乗り、家に向かう。
「新発田先生のお子さん、かわいかったろ」
「うん、修二くん、すっかり懐かれちゃってたね」
「ははは、パパが遊んでくれないからじゃないかな」
「そうかもね、でもね、私もちょっと子供欲しくなっちゃったかな?」
車の姿勢がちょっと乱れた。
「修二くん、しっかり運転してよ」
「そうだけどさ、まだ子供は早いんじゃない?」
「何、修二くん、欲しくないの?」
「いや、欲しいよ」
「でしょ。私は理論だから、いつでも大丈夫」
「こういうとき杏は、理論理論ってずるいよ」
「えへへー」
「真面目な話、つわりとか大変かもよ。学位どころじゃなくなっちゃったらどうする?」
「それもそうか」
「第一さ、やっぱり経済的に独立してからじゃないと」
「うーん、そうするとポスドク終わって、どっかにポスト確保してからか~。30超えちゃうんじゃない?」
「いまどきの女性は、そんなもんじゃない」
「そうだけど~、修二くん、私もうおばさんくさくなっちゃってるかもよ」
「杏はいくつになってもきれいだと思うけど」
そういうことを普通に言わないで欲しい。
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