アリアの手記

糸電話

アリアの手記

12,11

 戦争に負けたという知らせが、私たちのところまでやってきた。家族みんなで寝ていたので、目が覚めた時に一番最初に話を聞くことになったのは私だった。お父さんは逃げることを提案したが、家に食べ物はあまりない。市場は品切ればかりで、いつもの十倍三十倍の値段で売られている。大変なことだ。まだわからないが、この辺りは隣国の領土になるかもしれないらしい。


12,12

 兵士たちが帰ってきた。昨日のあれは誤報で、最前線では激しい戦いが繰り広げられているらしい。

 夕食の時、姉はご飯の半分を私に譲ってきた。「私の分まで生きるのよ………!」と言っていきなり号泣した時は何かと思ったが、貧民ごっこであるらしい。不謹慎だが、笑った。


12,13

 隣国の兵士がやってきた。やはり我が国は敗北していたのだ。町の情報通はみんな出払っているので、私たちは完全に出遅れた形になる。今日だけで、隣国に五百人は連れて行かれた。私たちも、明日にはそうなる。


12,14

 本国に帰ろうと思う。


12,15


12,16(紙がくちゃくちゃに汚れている)

 まず、両親は牢に入れられることになった。私と姉は幼いので、隣国の施設で教育を受けなければならないと兵士は言っていた。

 もうずっと、離れ離れなのだろうか。


12,17

 国境付近の拘置所にいる。面倒な手続きが必要らしく、私たちは一ヶ月もここで寝泊まりしなければならないらしい。

 悔しいが、今のところは、そう悪い生活ではない。姉は同室だし、不味くもない食事も出るし、日記だって取り上げられたりはしなかった。言葉だって、通じるし聞き取れる。

 意外なことに、兵士たちは友好的だ。


12,18

 一日中牢屋の中にいる。連れて来られるのは女の人ばかりで、皆国境を抜け出そうとして捕まったと言っていた。恋人と離れ離れになった人、家族が射殺された人、難病を患っている人………少なくとも、私たちは幸いだった。

 どうしてこんなことを書かないといけないのだろうか。


12,19

 盗み聞きに過ぎないのだが、ここでは人身売買がされているらしい。お里が知れるとはこのことだろう。

 ため息ばかりだ。毎日、姉がご飯を分けてくれる。私は少食なのに。


12,20

 親切なのは、面の皮だけなのだ。夜、耳をすませば聞こえてくる。誰かが交わり合う音だ。あいつらの逸物が腐り落ちることを切に願う。

 姉は同室の人たちと脱走計画について話し合っている。正直なところ、賛同はできない。

 今日もまた、亡命者たちが運ばれてくる。


12,21

 隣の牢がうるさい。どうしてあいつは就寝時間になってから歌い始めるのだろうか。豚でももう少し上手く歌う。

 ただ、お陰であの煩わしい水音は聞こえなくなった。


12,22

 怒鳴り声が聞こえると、一層歌声が大きくなる。夜が深くなるほど、歌声が大きくなる。

 よく喉が枯れないなと思っていたら、そいつは射殺された。顔も知らないし、一日だけの付き合いだったが、少し寂しい。

 私も子供の時は音楽家になりたいと思っていたのだ。適当な紐と棒を用意して、弦楽器を作ろうとしたのを覚えている。もちろんまともな音が鳴るはずがないのだが、指の使い方次第でいい音が出ると信じていた。旅をして、弾き語りをしようなんて考えていた。

 退屈だ。姉は今日も、脱走計画を立てている。


12,23

 死は名誉への手向けだと、姉は言った。正義であるためには、天国へ立ち入るためには、それが必要らしい。

 天国なんてと、私は思う。私はまだ何もしていない。悪いことも良いことも、何一つできてはいない。そんな私たちを、一体誰が裁こうというのだろうか。

 死は名誉への手向けだ。私もそう思う。


12,24

 姉には私と違って、人を惹きつける何かがある。無茶な作戦でも、きっと成し遂げてくれると信頼できる。いつ仲良くなったのか、姉の周りにはたくさんの人がいた。


12,25

 勇気が出ないと私が言うと、姉はいつもより多くご飯を譲ってくれた。いらないと言っても、聞き届けてくれないのだ。

 私には体力がないし、根気もない。逃げ出す勇気すらないのかもしれない。

 そういえば、今日はクリスマスだ。


12,26

 私を信じられるかと、姉は言う。

 怖れることなど、何もない。


12,27

 この拘置所は、あまりにも厳重だ。前のページに書いた通り、脱走を防ぐための柵が三重に展開されている。地雷すら設置されているようで、脱走を試みた一人が爆散したという証言が複数あった。

 安全だと断言できる場所は、出入り口だけだ。その先に、祖国はない。


12,28

 この窓を遠く向かうと、そこには故郷が続いている。愛国心なんてあってないようなものだったけれど、今、私の心は燃え上がっている。

 私の描いたスケッチと地図は、幹部たちから重宝されている。それが誇らしい。


12,29

 一人ずつ名前を呼ばれて、私たちの牢からも二人いなくなった。

 これで確証が持てた。

 拘置所からの移動は、一度に十人から二十人。第四週に軍用車で運ばれるようだ。

 移動の際は手錠をかけられるわけでもなく、兵士二人が監視につくだけだった。希望は、確かにある。


12,30

 兵士は私たちの名前をまともに記憶していない。名前をバラバラにして呼び合ってみると、すぐに混乱して私に詫びを入れてきた。

 間抜けな奴らだ。これを利用すれば、大規模な脱走が成功するかもしれない。計画を練り直さなければ。


 ♢

 「12,31」と日付を書いていると、足音が聞こえた。念の為に日記を懐に隠して、音のある方向に視線を向ける。

 見知らぬ顔の兵士だった。私はここに所属する兵士の顔を全て記憶しているので、こいつは恐らく新人か………外の警備をしている人間だろう。

 見知らぬ兵士と目があったが、気に留める様子はなかった。警備兵が通りがかって、その兵士と話し始める。距離があるので、内容までは聞き取れない。

 息を潜めて、男たちと距離を積める。バレないように、ゆっくりとだ。

「コイツらは、俺でも買い取れるのか?」

 そんな物騒な話が聞こえて、身が縮こまった。いつから起きていたのか、姉が私の服の裾を掴む。

「まあ、金さえあれば買い取れますよ。ただ、こういう女を所有するのは、個人だとリスクが高い。相場の倍を払っていただくことになりますよ」

「金さえあれば良いのか。相場がわからないからな、出せる分だけ持ってきたんだが、どうだ」

 心臓が、ドクンドクンと高鳴っている。さっきからチラチラと、あの兵士が私を見てきているのだ。奴は軍服から布袋を取り出して、警備兵に手渡した。

「俺も足がつくのは困るんだ。できるだけひっそりと引き取りたい」

 警備兵は布袋の中身を確かめると、悩みつつも「どの子をお求めで?」と尋ねる。

「あそこの子供が欲しい。起きて、こっちを見てきているやつだ」

 男がニヤけると、姉がいきなり起き上がる。引き止める暇なんて、私にはなかった。

「私ですか」

「いや、お前の足元の女だ。顔がいい」

 嫌な褒め言葉だった。姉はとぼけるように笑ったが、もはやこの状況は覆らない。

「密売だ!」

 姉が叫ぶと、警備兵は迷わず撃った。顔だ。姉の顔に当たった。

「姉さん!」

 姉が声にならない声をあげている。こんなに血が流れているんだ、死んでしまうかもしれない。

「待てよ、可哀想だろ。女を撃つのは、ポリシーに反する」

 他人行儀な男の物言いが気に食わなかった。ただ、吐きそうだ。世界が傾いている。

「もう喚くな、悪いようにはしない」

 牢の鍵が開けられて。兵士は私を舐めるように見た。抵抗らしいこともできずに、私はみっともなく連れて行かれる。

「待って!」

 数メートルほど引きづられた辺りで、誰かが叫んだ。

「必ず、助けに行くから!」

 信じると決めたはずだった。しかし、後ろ髪を引くその声は、あまりにも頼りなかった。

 ♢

 1,3

 思い出の品だと私が言うと、主人は続きの記録を書くように命じた。こうして思い出を書き連ねることができるのは、主人の御心によるものだ。

 日記というのは素晴らしい。読み返すだけで、色褪せた思いが蘇る。


 1,4

 逃げ出したいほど、苦しくはない。ここには人が手に入れることのできる、おおよその幸福がある。無様に野垂れ死ぬなんて、姉が浮かばれないではないか。

 主人は夜になると、私を呼ぶ。私の仕事はそれだけで、清掃のメイドなどには頭が上がらない。日中は暇なので、空ばかり眺めている。

 与えられた部屋は綺麗だ。新居のように、何もない。


 1,5

 今日、主人が本を数冊買ってきた。ポピュラーな軍記小説と、ファンタジー。恋愛にまつわるものもあった。退屈とは、これでおさらばだ。


 1,6

 恐ろしいことに、一日で三冊も読んでしまった。実家で暮らしていた時は、体力がなくなってしまってせいぜい二冊が限界だったのに、三冊だ。

 あの軍記小説だけは長くかかりそうだが、それも些事だろう。


 1,7

 主人が家を出ると、間も無くしてメイドが掃除にくる。迷惑になるのはわかっていたが、一時間ほど雑談してしまった。

 いい人だ。

 不幸自慢はしたくないので、聞き手に回った。メイドさんは、私と違って正規雇用されているらしい。元々は詩人として旅をしていたのだが、その最中に主人に口説かれて、ここで働くことになったそうだ。長くは居座るつもりがないようで、再来月にはここを発つそうだ。

 戦前には、私の故郷にも訪ねたことがあるらしい。そう、あの街の宿屋の売り子は、ハゲ頭の爺さんなのだ。

 こんな話ができるとは思っていなかったので、今日は楽しかった。


 1,8

 しかしやはり、仕事もせずにダラダラ過ごしていると、心が腐ってしまう。生きているかもわからないが、母は私によく言った。「本ばかり読んでいると、馬鹿になってしまうわよ」と。かつての私は、読書こそ脳を活性化させると信じて病まなかったが、今はそうでもない。

 人はきっと、自分自身と社会について考えることで成長する。だから、やはり労働こそが正義なのだ。

 食べて、寝て、その場しのぎに自らを慰める。それでは動物と変わらない。主人は熱心に仕事をしている。私も、そうでありたい。


 ♢

 名前を呼ばれたので、主人の元へ向かう。今日は月が高く、廊下はそれほど恐ろしくなかった。窓に格子はなく、逃げようと思えばいつでも逃げられる。

 しかし、どこに向かえというのだろうか。ただ、脱力感だけがあった。

 扉を開けると、バスローブ姿の主人の姿があった。他に人影はない。申しわけ程度にメイドが奥で控えているが、呼ばれてここに来たのは私だけのようだ。

「お待たせいたしました」

 頭を下げると、主人は「問題ない」と呟いた。

「まあ、なんだ。不満はあるだろうが、俺はお前たちの面倒を生涯かけてみるつもりではある。そう睨まないでくれよ」

「私はもとより、このような顔つきです。お気に触られたのなら、顔の皮でも剥いで見せましょうか」

 お前たち、という言い方が気に食わなかった。気を遣っているような素振りをされるのが、かえって気に障った。

「はは、勘弁してくれよ。そういうのは見飽きているんだ」

 呼べば私から向かうというのに、主人はわざわざ椅子から降りて、こちらの方によってきた。

「なあ、君の話を聞かせてくれないか。腰を据えて話したことなんて、ほとんどなかっただろう?」

「私のような者に、語るべき過去などありませんよ」

 主人が私の腰に手を回してくる。ぐっと力を入れて押してくるので、私は逆らうことなくベットまで移動した。

 他人の匂いがする。ベッドというのは、やはり日の半分を過ごす場所であるので、その人の香りが強く残る。ここにきてもう一週間になるが、他所の家だと、そういう印象が拭えなかった。

「お前は幸せだよ。俺といる限り、理不尽な不幸に曝されることがないのだから。あの拘置所にいた者たちは皆悲惨な人生を送るだろう。救われたのは、君だけだ」

 主人が笑う。手を握りしめる。

「姉さんを、悪く言わないでください」

「おっとすまない。そういえばあそこには、君の肉親がいたんだったね」

 申し訳ないと思っているのかいないのか、主人は軽く戯ける。沸々と、私の中何かが煮える。

「ご主人様は、私にどう言ってほしいのですか」

「それはもちろん、幸せだと。そう笑ってほしい」

 主人が手を重ねてくる。木の幹のような、乾いた手だ。

「なぜ?」

「趣味さ。俺は女の子に、一方的に貸しを与えるのが好きなんだ。女の命を救ったとき、女の望むものを全て買い与えてやったとき、やせ細った女を太らせたとき。俺は、自分が絶対的な存在であるということを確信することができる」

 毎晩私を求めて置いて、出てくる言葉がそれなのか。反論する気にすらなれなかった。

「わかるか?聖人達がやろうと思ってもできないことを、成金共がやろうとすら思わないことを、この俺がやるんだ。お前達の顔を見るたびに、俺は全てを優越することができるのさ」

「左様でございますか」

「もし君が俺に微笑んでくれるのなら、この上なく満たされてしまうのだろうな」

「そうやって奥様方を口説いてきたのですか?」

 主人が黙る。私は心の中でガッツポーズを決めた。

「はは、いいね、その顔だよ。それを見たいから、君を選んだんだ」

 主人が触れてくる。私は天井を眺める。

「夢はあるかい。子供の時、なりたかった職業は?」

「いえ、特には」

「嘘は良くない。日記には音楽家になりたいと、そう書いてあったよ」

 耳元で囁かれる。私は脚を狭める。

「悪い子だ。見られるかもしれないと思っていたから、あんな風に書いていたのだろう?」

「やめてください」

「楽器でもかってあげようか。会場くらい用意するさ」

「………必要ありません」

「そうかい、それなら仕方ない」

 主人が私に覆いかぶさった。視線を逸らそうとすると、顎を掴まれる。

「俺の前で、歌ってみせてくれ」

 主人が私の服をはだけさせた。もう、目を瞑ることしかできない。

 ———月が高く、上っていた。


 1,9

 私の部屋と、主人の部屋の掃除を任された。あと、読みかけの軍記小説がどこかに片づけられていた。趣味に合わない内容だったので構わないが、どこに行ってしまったのだろうか。

 読んでおられるのですね。


 1,10

 主人が日記を書き始めた。交換日記でもしたいのだろうか。

 しかしながら、私は使用人という立場なので、主人の私物を勝手に読んだりすることはできない。

 なので、そう、そのまま話せばいいだけではないだろうか。

 夜が来るたびに思う。寝ていても、起きていても、きっとそこに違いはない。


 1,11

 ここにきてからというもの、自分自身のことばかり書いているので、少し、この館について書き留めてみようと思う。

 この街は主に綿業で栄えているのだが、館自体は都市部から離れているので、正門側は大都市、廊下側は大自然と、かなりエキゾチックだ。産業革命とはこういうことかと、合点がいった。館に屋上がないことを、残念に思う。一度、この景色をぐるりと見渡してみたいものだ。


 1,12

 主人は金融機関を経営していて、大変お金持ちだ。私のような立場の者も、何人かいる。日中は別館でお過ごしになっているので、奥様方とは滅多に話す機会がない。そのため、これは書くことも躊躇われるのだが、顔を合わせると気まずくなってしまう。

 案外、気の合う御方であるような気がする。何せ、私は奥様方の下の毛の本数まで知っている。恥ずかしがることなど、どこにあるのだろうか。


 1,13

 信じられない。私が本気で毛の一本一本を数えているわけがないじゃないか。そもそも人の日記を覗きに来る精神が理解できないし、それを本人に伝えに行く人間性も理解できない。

 噛みちぎりますよ。


 1,14

 今日、別館に初めて招かれた。内装は本館とほとんど変わらないのだが、奥様の部屋はそう、上品だ。何せ、インテリアがある。


 1,15

 欲しいものは、特にない。つい不満を口にしてしまったが、別に観葉植物の類も嫌いではない。今の生活には、それなりに満足している。

 強いて欲しいものをあげるとするなら、家族のことだけだ。生き別れた肉親との再会を望む。

 私は、今でも、銃で撃たれた姉の姿を夢に見る。


 ♢

 私の部屋には大きな鏡台があって、目が覚めるとまず、睨めっこをする羽目になる。しかし、それもあと数週間もすれば慣れきってしまうのだろう。

 私ももう、14になる。去年は母がフルーツタルトを作ってくれたんだったか。一応、私にとって今日は物日だ。昨日は嫌味なことを言ってしまったが、主人のことだ、どうせスカしたプレゼントでも買ってくるのだろう。

 閉じてから眠ったはずなのに、机上の日記は開きっぱなしだった。

 本当に癪だ。こんな姿、どこかで生きているであろう家族たちには、決してみせられない。自由はないが、不自由もない。私はまるで、植物のようだった。手に職を付ける努力くらいしないと、枯れ落ちてしまいそうになる。

 このまま一生。

 大きな不満があるわけでもないのに、時々叫びたくなる。いや、私が初めてここに来た日、私はずっと叫んでいたはずだ。私にはもう、あんな激情は抱けない。

 主人はまだ帰ってこないのかと、外を眺める。入り口周りには、見知らぬ集団が集まっていた。あいにく主人は留守なのだが、一体彼女らは何の用があってここにいるのだろう。私のせいで二の舞を踏ませるようなことになって欲しくはないな。

 私が誕生日の件を伝えなければ、主人は今日も館で働いていただろうから。

 することもないので、彼女らを観察する。ノッカーを鳴らすこともせずに、門と睨み合いばかりしていた。仲間と話し合い、辺りをうろうろしたりして、最後には一人の女が塀のそばの木に上った。

「待って待って」

 女が塀に無理やり飛び移って、屋敷に入り込んでくる。一人二人、十人ほど入ってきたところで、私は数えるのを止めた。

 誰かに伝えようと、まず廊下に出た。私の部屋の周りには、常に使用人が一人は控えている。彼女にまず伝えようと思ったのだ。

 しかし、いない。

 ———パンと、正門方向から発砲音が聞こえた。

 考えるべきことは、逃げるか、隠れるか、戦うか。逃げるという決心は、中々つきそうになかった。驚くべきことに、逃げたくないのだ。少なくとも、一人では尻尾を巻けそうにない。

「はぁ、はぁ」

 足がすくんだ。

 二階に止まるのは危険だと、私の冷静な頭が訴えかけてくる。だからと言って、今更階段を降り立って手遅れだ。

 現実逃避気味に、私は私室に戻る。怖いもの見たさだったのか、私は何故か、窓から頭を出した。

 死体があった。見知った顔だった。

 その流れで、襲撃者の一人と視線が合う。おかしなことに、彼女にもまた、既視感があった。右目には眼帯を巻いているし、髪の長さだって違うけれど、確信できる。

 ああ、そうだ。見間違えるはずがない。

「お姉ちゃん………」

 置いてきてしまった姉が、今、そこにいた。

 ———遠くから、馬車の足音が聞こえてくる。

 ♢


 1,16

 姉と再会した。拘置所で捕まっていたメンバー全員で協力して、正面突破で脱走したらしい。なんでも、協力的な兵士が一人いたらしく、武装やら何やらを融通してくれたらしい。まあ、あまり興味はない。

 とにかく、仲間達と私は再会を喜び合い、主人の食糧庫にある食べ物をくすねて宴会を開いた。

 追手が来たらどうするんだと私は姉を説得しようとしたが、息抜きは必要だということで、今、火を焚いている。不安だ。

 主人は、私にヴァイオリンを用意していたようだ。コーティングがされていて、木目に艶がある。丁寧に梱包されていて、箱の中には手紙が同封されていた。

『アリアへ。

 まだ私は君のことを何一つ知らない。いや、どれだけ言葉を交わしても、君の日記を読んでみても、君の全てを知ることなんてできないのかもしれない。だから、奏でてみせてほしいんだ。これからの君を、俺に教えてほしい。

 再会させてあげることはできないが、せめて、君の生誕を祝いたい。何処かにいるであろう、君の家族とともに』


 1,17

 姉は慕われている。指示を出しているのは、常に姉だ。仲間達はみんな武装していて、どうやってここに来たのかは、聞かずとも想像できる。

 今は、森を抜けるためのルートを模索している。この先には大きな川があって、そこを越えれば、大きな国に行けるらしいのだ。ただ、私たちの多くは向こうの言葉がわからないので、少し不安だ。しかし、大きな国を経由すれば、祖国に帰れるかもしれない。


 1,18

 弱音は吐きたくないので、思うことを、ここに書き連ねようと思う。

 まず、殺すことは罪ではないと、それを前提にしなければならない。暴力が罪とされるのは、秩序が保たれている時だけだ。戦争が………もう終わってしまったが、とにかく、意識の暴力は罪ではない。それは間違いない。

 罪があるとするなら、それを無意識に振りかざした時だけだ。信念のない、例えば、蟻の巣に水をかけて遊ぶような、そんな些細なことだけなのだ。

 前置きが長くなってしまったが、今から川を渡る。冷たいし、死ぬかもしれない。ただ、一番に気掛かりなのは、そう、日記が濡れてしまうことだ。

 それだけが、恐ろしい。

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