血涙ー殺人者の涙ー

六散人

血涙ー殺人者の涙ー

「私死んじゃうの?死にたくない」

消え入りそうな声でそう言って、アヤミは訴えるような目で俺を見た。

頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、以前の明るい笑顔はそこにはない。

俺はアヤミの瘦せ細った手を握りしめた。消え入りそうな温もりが伝わってくる。

後ろで彼女の母親がすすり泣く声がしたが、ただ俺の頭を通り過ぎて行くだけだった。

その日アヤミは逝った。

俺は血の涙を流した。

――本当に血の涙なんて出るんだ。

声も立てられずに泣きながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。

その日から、俺は空っぽになった。

そしてその空虚に酒を流し込むようになった。

大学にも行かず、日がな一日部屋に籠って、ぼんやりと過ごす。そして時折思い出しては、酒をあおった。

友達が心配して携帯にメッセージを送って来てくれたようだが、俺が見もしないので、やがてそれも来なくなった。遠くに暮らす親には何も言っていないので、おそらく俺の今の状況は知らないだろう。元々、あまり頻繁に連絡する方でもなかったし、共働きの両親は毎日多忙で、学生とは言え、成人した息子のことを心配する余裕もなかっただろう。

このままでは大学もやがて馘になるだろう。その前に生活が立ち行かなるのは目に見えていた。これまでは親からの仕送りと、バイトの稼ぎとで、かつかつの生活をしていたが、今はバイトにも行っていない。

だが、そんなことはどうでもよかった。このまま野垂れ死にするのも悪くないと、酒で濁った頭で考えていた。親不孝だな――と考えなくもなかったが、それも俺の空虚の中に、瞬く間に飲み込まれて行った。

ある日、そんな生活は、突然終焉を迎えた。

酒が切れたので、コンビニに買い出しに出た俺は、道を歩いていて二人組に絡まれたのだ。何故絡まれたのか、思い出すことも出来ないが、多分肩がぶつかったとかの、どうでもいい理由だったのだろう。相手の顔さえ思い出せない。

覚えているのは、殴り倒されて道に倒れた瞬間に、俺の中で真っ黒な何かが急激に膨らみ、暴発したことだけだった。

我に返った時には、相手は二人とも道に倒れ伏していた。遠くでパトカーのサイレンの音がする。

俺がガキの頃から、空手を習っていたのが、相手にとっての不幸だった。

一人は怪我で済んだのだが、もう一人は現場に救急車が到着した時には、既に息を引き取っていたそうだ。倒れた時の打ちどころが悪かったらしい。

俺は逮捕され、裁判にかけられることになった。

当然だろう。

拘置所に面会に来た時、母親は終始泣き続けていた。父親は沈鬱な表情で、俺がぽつぽつと話す言葉を黙って聞いていた。時々何か訊かれたが、何を訊かれたのかも、何と答えたのかも覚えていない。

拘置所に入って、体から酒が抜けると、頭にかかっていた靄が解けて行った。冷えた壁に背を持たせかけながら、自分の手の平を見る。すると、アヤミの消え入りそうだった手の温もりが思い出された。そして俺の空虚は益々膨らんでいった。

判決は懲役3年の実刑だった。

初犯であったことや、相手が先に手を出したこと、二人だったこと、そして俺が半分酔っていて正常な判断力が働いていなかったことが、情状酌量されたそうだ。

――情状酌量って何?そんなもん、いらないのに。

裁判官が朗読する判決を聞きながら、俺はそんなことを、ぼんやりと考えていた。

当然のことながら、俺は控訴せず、刑に服することになった。

決められたことを、ただ命じられるまま、黙々とこなす日々だった。辛いとも苦しいとも思わなかった。そんな感情が湧いても、すぐに俺の中の空虚に飲み込まれるのだろう。

3年はあっという間だった。俺の中で時間感覚が欠落してしまっているのかも知れない。

出所した俺は、家族と絶縁することにした。両親にも妹にもこれ以上迷惑はかけられない。その程度の感情はまだ残っていたようだ。それを聞いた両親は考え直すように言ってくれたが、頑なに拒絶する俺を見て、遂に諦めた。

出所後の俺は、保護観察官の紹介で、町工場に勤めることになった。機械の部品を作ってメーカーに納める、従業員50人程度の小さな工場だった。

そこでの毎日は、刑務所の日々と大差なかった。

毎日決められたことを、指示されるままに黙々と行う。

これからどれくらいの時間、同じことを繰り返していくのだろう。不思議と死にたいという気持ちは湧いてこなかった。生きるのと同様に、どうでもよかったのだ。

工場には色々な人間が働いていたが、俺は誰とも親しくせず、話し掛けられると返す程度の人間関係に終始していた。多分周囲からは、変人と思われているだろうと、容易に想像できたが、それもどうでもよかった。やがて周囲も俺の反応に慣れたらしく、仕事上で必要な時以外は、話し掛けて来なくなった。

しかしどんな場所にも、やたらと他人に関わりたがる、面倒な連中はいるものだ。

ある日俺は仕事終わりに、クドウという男に呼び出された。指定された工場脇の車両止めに行くと、3人がにやけ顔で待っている。一番体格のいいのがクドウだ。3人は俺を囲んで何やら因縁を付けてきているようだったが、そいつらの言うことは一言も俺の頭に入って来なかった。そのうちクドウが怒り出して、俺の頬にパンチを見舞う。俺はその場に倒れたが、別に抵抗もしなかった。痛みも大して感じない。地面の座り込んだ俺に対して、クドウたちは散々罵声を浴びせてきたが、それも俺の頭には一切入って来なかった。

心底どうでもよかったのだ。

俺のあまりの無反応さに飽きたのか、やがて3人は何やら捨て台詞を残して、その場から去って行く。俺も立ち上がると、何もなかったように家路についた。借りている安アパートに着いても、そこには俺の中身と同じ、虚ろな空間が待っているだけだった。

それから何日か経った後、俺はたまたま昼の休憩時間に、先日クドウたちに呼び出された車両止めの近くを通りかかった。すると同じ場所に3人組が立っている。また誰かを囲んでいるようだ。そのまま通り過ぎようとしてクドウたちの方をちらっと見ると、地面に小柄な女が座り込んでいた。クドウはズボンから、ペニスらしいものを引き出しているようだ。その女に何をさせようとしているのか、容易に想像できた。

その時、3人組の一人が俺に気づいたようだ。クドウに向かって何やら言っている。

するとクドウは何やら喚きながら俺の方に向かってきた。子分二人も後について来る。俺の前まで来ると、クドウは何やら凄みながら、俺の肩を小突く。その時突然、俺の中で黒い塊が膨張し、弾けた。何故そうなったのか、今になっても分からない。

我に返った俺の足元に、3人組が倒れ伏していた。クドウは尻もちをつくような姿勢で、後の2人は這いつくばって呻き声をあげている。

俺はその場にしゃがみ込むと、クドウの胸倉を掴んで言った。

「クドウさん。俺、人殺して刑務所に入ってたんだよ。これから先、碌な人生でもなさそうだし、そろそろ生きるのに飽きて来たんだよな。だからさ。また二、三人殺して、死刑にでもなろうかと思うんだけど、あんたら付き合ってくれないか?頼むわ」

何故そんな言葉が口をついて出たのか分からないが、言っているうちに段々とそうしたい気分になって来た。

突然豹変した俺に、クドウは明らかに怯えているようだった。許して下さい、助けて下さいといった意味の言葉を、涙ながらに訴えて来る。

俺はその無様な姿を見て、急激に冷めた。そして立ち上がると、工場に向かって歩き出す。背後で3人が立ち上がり、走り去る気配がしたが、振り返る気もしない。

すると背後から、「ジュンさん」と声が掛かった。

振り向くと、3人に囲まれていた女が立っている。

俺が怪訝な顔を向けると、女は勢い込んで、

「助けてくれて、ありがとうございます」

と聞き取りにくいほどの小声で言った。

「別に気にしなくていいよ」

そう言って俺が工場に向って歩き出すと、女は慌てて俺の横に並んだ。そして俺が訊きもしないことを、一方的に話し始める。大して興味はなかったのだが、俺は聞くとはなしに、その話を聞いていた。

女の名前はユキコと言った。今年中学を出て、進学せずにこの工場で働き始めたらしい。そう言えば、朝礼で工場長がそんなことを言っていたような気もする。

「私、バカなんです。どんくさくて、いつも周りの足手まといで。相手にされなくて。だからさっき、ジュンさんに助けてもらって、本当に嬉しかったんです。ありがとうございました」

ユキコは、俺が興味なさそうにしていることに漸く気づいたらしく、最後に慌ただしくそう言って去って行った。

翌日から、ユキコが時折、遠慮がちにこちらを見ているのを感じたが、俺は相手にせず、黙々と時間を消費し続けた。大して興味はなかったのだが、クドウたち3人は欠勤しているらしい。

俺が3人組を叩き伏せてから、4日後の週末。

アパートの近所のラーメン店で、夕食を済まして帰るところだった。当たりはもう暗い。

アパート近くの路地を抜けた時、後ろから頭にガツンと衝撃が来た。硬いもので殴られたらしい。一瞬気を失いかけたが、倒れこみながら地面を転がり、路地の方向を見る。

3人立っていた。

あいつらか。

影になっていて顔ははっきり見えなかったが、他には思い当たるふしがない。

3人は、俺が倒れずに中腰になっているのを見て、躊躇っているようだ。

――もういいか。

その時俺は、急にそんな気分になり、落ちていた石を両手に握りしめていた。この前のような激情は湧いてこない。

その時、手に何か棒のようなものを持った奴が、喚きながら突っ込んできた。

クドウだな。

俺は妙に冷静になっている自分に気づくと、心中で冷え切った笑いを浮かべる。

俺はクドウがやみくもに振り下ろした棒を横にかわすと、こめかみに拳を叩き込んだ。石を握った拳で殴ったので、威力は通常の倍以上はあったはずだ。クドウはその場にどさりと倒れ込んで身動きもしなくなった。

残り二人のうち、一人は呆然と立ち竦み、もう一人は泡を食ったように逃げていく。

俺は立ったままの奴に素早く近づくと、ボディに一発食らわした。そして腹を抱え込んで無防備になったそいつの後頭部に、渾身の一撃を見舞う。頭蓋骨に拳がめり込む感触が伝わって来た。

その時後ろから、眩い光が差した。

次に衝撃が来て、俺は意識を失った。

***

目が覚めた時、俺は警察病院の集中治療室にいた。

後から聞いたことだが、あの時逃げ出した一人が激高して、バイクで俺を撥ねたようだ。

騒ぎを聞きつけた近所の住人が警察に通報し、俺はここに担ぎ込まれたらしい。

意識が戻ると、身体のあちこちに痛みを覚えたが、別にそれが苦しいとは思わなかった。

俺の意識が戻ったので、刑事と名乗る男が医師と共にやって来た。事情聴取に来たらしい。その刑事は、クドウともう一人が死んだことを俺に告げた。俺を撥ねた奴は、その場で警察に逮捕されたらしい。

二人が死んだという話を聞いても、特に感慨らしきものは浮かんでこない。殺す気で殴ったのだから、当然だろうと思うだけだった。

刑事が帰った後、その場に残った医師は俺に告げた。

「重度の脊椎損傷を負っています。残念ながら下半身は一生麻痺したままでしょう」

それを聞いても俺は、

「そうですか」

と、淡々と言うだけだった。俺のその反応に、医師は驚いたようだが、俺にしてみればどうでもよいことだった。残りの寿命を消費していくだけの人生だ。三人殺しているのだから、これくらいの重みがあっても当然だろうと思うだけだった。

入院中も、拘置所に移されてからも、俺は一切の面会を謝絶した。本当は弁護士にも会いたくなかったのだが、そういう訳にはいかないらしい。ユキコが何度か面会を申し入れてきたが、その度に断ったので、最後は諦めたようだ。

裁判には車いすで出廷した。

傍聴席にユキコの姿を認めたが、目を合わすこともなかった。

淡々と審理は行われ、結審の日が訪れる。

今回の判決は、懲役15年と決まった。

襲撃されたとはいえ、逃げずに明確な殺意を持って反撃したことが、自己防衛の範囲を遥かに超えていると、陪審員に判断されたらしい。

当然だろう。事実、殺意を持って二人を殴ったのだから。

俺は控訴せずに粛々とその判決を受け入れ、刑に服することになった。

二度目の刑務所生活だったが、一度目と違うのは車椅子に頼らなければならないということだけだった。決められたことを、命じられた通り行う日々が、淡々と過ぎていく。今となっては、アヤミの消え入りそうな手の温もりも思い出せない。

ただ生きているだけだった。

刑務所を出たら、いっそ首でもくくろうかと思う。

刑期を終えて出所する日、刑務官がタクシーを呼んでくれようとしたが、丁重に断った。

外に出ると、20m程向こうに人影が見えた。そいつは俺の姿を認めると、こちらに走り寄って来る。

誰だ?――と、不審に思う俺の前に、地味な服装の女が立っていた。

女はしゃがみ込んで俺の両足に縋りつくと、涙を流しながら言った。

「ジュンさん。お帰りなさい」

ユキコだった。

――こいつ、こんな所で何やってるんだ?

混乱する俺に、ユキコは言いつのる。

「ジュンさん。本当にごめんなさい。私のせいでこんな体になって。それに15年も」

そこまで言って、ユキコは絶句した。

「あんたのせいなんかじゃないよ。俺が勝手にやったことだし。それにあいつらとは、元々因縁があったんだよ」

俺は、何故か言い訳がましくそう言った。

それを聞いたユキコは、袖で涙を拭って立ち上がると、俺の後ろに回って、車椅子を押し始めた。俺は何が起こっているのか分からず、動転したままだ。首を後ろに反らせて、困惑した顔をユキコに向けると、ユキコは涙をぽろぽろ流しながら、まっすぐ前を向いて車椅子を押して行く。そして言った。

「私、ジュンさんのことを待ってました。ジュンさんが、下半身不随になったと聞いて、一生懸命働いて、一生懸命勉強して、学校にも行って、介護士の資格も取りました」

――どういうことだ?15年俺を待ってたって?こいつ何を言っている?バカか?

その時、俺の気持ちを察したように、ユキコは言った。

「言ったじゃないですか。私バカだって。だから私、これからずっとジュンさんと生きていいきたい。いえ、ずっとジュンさんと生きていきます」

その言葉を聞いて、俺は体中の力が抜けるのを感じた。

知らずに車椅子の中で俯せの姿勢になっている。

「ユキコ」

呟いた俺は、人生で二回目の、血の涙を流した。

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