最終話 幼凸

「……ちゃんと警察に行きな」


 僕の言葉は頭に入ってないようで、咲はヘラヘラ笑っていた。


「どーしよっかな……?」


 好きにすればいい。結局のところ、僕の言葉が彼女に届いたこと何てなかった。

 ……来るんじゃなかった。

 そう思う反面で、元気そうな咲を見て安心する僕もいる。複雑な気分だった。

 切っても切れない腐れ縁。

 公園を去ろうと踵を返す僕は、いつも真剣に僕のことだけを考えてくれる片桐さんの顔を思い出して、申し訳ない気持ちになった。


「今さ、ジジイの実家に居るんだ。あたし、生のカブトムシ初めて見たわ」


 『生』じゃない。『自然』のって言うべきだ。訂正せず、僕は興味なさそうに頷いた。


「……そう。おじさんと居たのか」


 ウチまで謝りに来て、何とも言えない表情で僕を見たおじさんの顔を思い出した。


「ジジイが仕事辞めたのはいいんだけど、少し変なんだ」


 変なのはお前だよ、咲。


「悠希のことは忘れて、暫く休めってそればっか言ってさ。育て方間違えたとか言ってんの。育てられてねえっての」


「……」


 咲が、笑いながら言った。


「ジジイの実家で、一緒に暮らそう」


「……は?」


 暗闇の中、足を止め、改めて見た咲の笑顔にズレたものを感じて、背筋に悪寒が走った。


「おじさんとおばさんは、残念だけどもういいや」


 何が、もういいんだよ。口中に湧き出した生唾と一緒に、僕はその言葉を飲み下す。


「……っ、咲……」


 僕が言葉に詰まると、咲は顰めっ面で首を傾げた。


「……まだ怒ってんの? もっと殴るか?」


「い、いや、もういい……」


「だったらいいじゃん」


 何がいいんだよ。その言葉も飲み下し、僕は一歩引き下がる。


 咲に呼び出され、一人でのこのこやって来てしまったことを、僕は強く後悔した。


「ずっと……ずっとずっと、好きだった」


 真夜中の公園を、静かな星明かりだけが照らしている。


「いつか……家族になるんだって、そればっか考えてたんだ……」


 青白い星明かりの中、思い出したのは片桐さんの言葉。


 ――そのことだけを考えて生きて来て、それが台無しになるって、どんな気分ですか?


 僕は息を飲み込んだ。

 片桐さんは勝利した。徹底的に咲を叩き潰して勝利した。

 咲は穏やかな笑みを浮かべている。でも、星明かりの下で『本当』の姿は隠せない。


「さっき、確信したんだ。あたしがお前から離れられないように、悠希、お前もあたしからは離れられないんだって」


 切っても切れない腐れ縁。僕らは、あまりにも強く繋がり過ぎていて――


「それを、あのクソ女が……」


 何処までも醒めた夜。誰もが本性を隠せない。青白い星明かりが映し出したのは、両の瞳を怒りに燃やす羅刹だった。


「お、遅いし、もう帰るよ……」


 恐怖に震えそうになる身体を押さえ付け、僕は何とかその言葉を吐き出した。


「……そうだな」


 咲は少し残念そうにしながらも、小さく頷いた。


「あたし、お前が嫌がることはもうしない。言うことはちゃんと聞くって決めたんだ」


「そ、そう。それは良かった」


 また一歩引き下がりながら、僕は一目散に逃げ出してしまいそうになる。

 醒めた星明かりの中、咲は笑う。


「キスしてくれたら、あたしも帰るかな……」


「……」


 断れない。

 恐怖以外の強い何かが僕を引き留めて動けない。間合いを詰め、僕を引き寄せる咲の手を振り払えない。


「ん……」


 唇が合わさる。幼馴染との初めてのキスは熱狂的で、錆び臭い血の味がして――


 その瞬間は、星が落ちて来たように思った。


「勘違いするなよ? これが、あたしのファーストキスだからな? 北条のヤツには、あたしの身体にも唇にも触れさせてない」


 離れると、紅い雫が糸を引く。


 雰囲気に強く当てられて、ぼうっとしながらも何とか僕が頷くと、咲は唇の端を釣り上げて嗤った。


「……最高の気分だ」


 強すぎる繋がり。運命すら超越して存在するその絆は――


「また、後で……」


 愛、という名の狂気。


◇◇


 真夜中の公園で咲と別れた。

 家に帰れる幸運を喜ぶと同時に、僕は強く意識した。


 咲とは、もう二度と会わない。


 部屋に帰ると思い出したように身体が震え、冷たい汗が噴き出した。

 嫌な予感がする。片桐さんに会いたい。全部、嘘だって言ってもらいたい。夜明けの到来を強く待ちわびて、僕はまた眠れない夜を数える。


 時を刻む秒針は遅々として進まず、明けない夜が続く。脳裏にこびりついたのは、恍惚とした咲の掠れ声。


 ――また、後で……。


 後で、なんだ? この後、咲はどうするつもりだ?


 頭痛がして吐きそうだ。


 片桐さんとは、何度もキスしてる。彼女は執拗で情熱的。僕は殆ど負けていて、先に進んでしまうのは時間の問題。そんなものを、咲は一度のキスで押し流してしまった。

 洗面所に行って口を濯いだ。

 咲が好きな訳じゃない。でも、抗えない引力を感じている。それを押し流そうとして、僕は何度も口を濯いだ。


 振り返ると、いつだって咲がいるような気がして、僕はおかしくなりそうだった。


◇◇


「……どうした。今朝は早いな」


 早朝の食卓。いつも時間ギリギリまで惰眠を貪る僕が朝一番に顔を見せたことを訝って、父さんが片方の眉を釣り上げた。


「酷い顔だ。ちゃんと寝たか?」


「……」


 一瞬、咲と会ったことを父さんに話すかどうか悩み……結局、僕は沈黙を選んだ。


 そんな僕の心境を知ってか、父さんが神妙な面持ちで言った。


「……悠希、本当に片桐さんでいいのか……?」


「……!」


 ハッとして顔を上げると、いつになく真剣な表情の父さんと目が合った。


「…………」


 台所から、母さんが煮炊きする音とお味噌汁のいい匂いが漂って来て鼻腔を擽る。


「どういう意味……?」


「……いや、な……」


 父さんは思慮深いタイプだ。冗談も言うけど、真面目な話をするときは、決まって僕に無視できない警告を促す。

 でも、今朝の父さんは妙に歯切れが悪かった。


「……父さん、何かが違う気がするんだ。決定的な、何かが……」


「……なに?」


「それが分からない」


 その父さんの言葉は、混乱した僕の心を正確に写し出しているように聞こえて……。


「何か、とんでもないことが起こりそうな気がするんだよ」


 父さんの言葉に、僕も胸騒ぎが強くなる。


「ちょっ……脅かさないでよ」


 父さんは、難しい表情で言った。


「決定的な何かを失念している」


「……」


「何も起こらんといいが……」


 遠回しに咲の存在に対する警告を促されたような気がして、僕は俯いて視線を伏せる。


「おはよう、悠希。今朝は早起きなのね」


 母さんがやって来て、僕の前に温かいコーヒーを置いた。


「素子ちゃん、ブラックなのよ。あの娘、大人よね」


 気分良さそうに言って、母さんはまた台所に行ってしまった。


 新聞を読みながらコーヒーを飲む父さんと向かい合って食卓を囲む。何気ない朝の一時が無駄に流れて行く。そして――


◇◇


 インターホンが鳴り、漸く片桐さんがやって来た。


「おはようございます。悠希くん…………?」


 片桐さんは目敏く僕の失調を見抜いた。


「すみません。ちょっと……」


 父さんや母さんへの挨拶もそこそこに、今朝も片桐さんが僕の世話を焼き始める。


 僕の額に手を当て、顔色を確認する様子を、母さんが遠目から微笑んで見つめている。


 ほんの少し前まで、咲がやっていたこと。


 決定的な何かを失念している。


 父さんの言葉が脳裏を過る。


 何かが違う。おそらくそれは、慣れ親しんだ気配。脳裏に咲の笑顔が浮かんで消える。


「……熱はないみたいですけど……顔色がよくありません……」


 心配そうにして目尻を下げる片桐さんの手を、そっと掴んだ。


「ん……大丈夫。片桐さん、少し話があるんだけど、いい?」


「はい、なんでしょう」


 眼鏡を掛けた、僕のクールビューティー。いつだって僕を見つめている。そんな彼女にむくいたい。

 そう思うのは、間違いだろうか?


「君が好きだ」


「……」


 片桐さんが微笑んだ表情のまま固まって、向かいの父さんがコーヒーを噴き出して新聞を濡らした。


「あら嫌だ、もう……!」


 母さんは照れ臭そうに言って、父さんの肩をひっ叩いた。


 僕は僕。誰がこの胸に住むかは、既に決まっている。咲とのことは、僕を少し大人にした。

 それだけのことだ。


「いつかは……君に言わせて、ごめん」


「…………」


 片桐さんは思い切り固まっていて、いつも冷静な彼女らしくない。それだけ、僕の告白が意外だったんだろう。


「これからも、よろしく」


「…………」


 片桐さんは焦ったように目を泳がせて、その頬が真っ赤になった。意味もなく闇雲に辺りの物に触りまくり、口元が、にへっと弛む。


「おっ、おっ、こここ、こちらこそよろしくお願い――」


 結果として、片桐さんのその先の言葉を聞くことはなかった。


 ――瞬間、耳を打ったのは、世界が破れたかと勘違いするような轟音。


 稲妻が落ちたんだと思った。


 視界の端に映ったのは、夜の闇を溶かしたような黒い乗用車。


 咄嗟の判断で僕を思い切り突き飛ばした片桐さんは、黒い奔流にぶつかって、押し流されるようにして視界から消えた。


 突き飛ばされた僕は壁に強く背中を打ち付け、激しく咳き込んだ。

 耳の奥がキンキン鳴っている。

 黒い奔流は、向かいに居た父さんと母さんも巻き込んで押し流してしまった。


「…………」


 何も理解できない。

 僕は馬鹿になって、もうもうと埃が巻き上がる我が家の食卓をボンヤリと見つめた。

 奇妙な静寂が漂う。

 鼻に衝いたのは、木造家屋の木の匂い。割れ砕けた柱や木の梁なんかから煙のようなものが巻き上がっていて、視界は酷く悪い。


「……」


 目の前に、黒い乗用車が停車している。


 僕の家の食卓に、黒い乗用車が停車している。


「なんだこれ……」


 あり得ない。でも――


 この乗用車が、ウチの食卓に突っ込んで、全てを押し流してしまった。


「…………」


 僕は馬鹿になっている。何も理解できなくて視線を上げると、助手席側に座った中年男性と目が合った。


 咲のお父さんだ。


 咲のお父さんは、申し訳なさそうな、誤魔化すような愛想笑いを浮かべていて――ちょっとだけ、咲に似てる。


 運転席のドアが開いて、そこから咲が顔を覗かせた。


「おはよう」


「……」


 僕は馬鹿になった。尻餅をつき、大口を開けたまま、ボンヤリと咲を見つめた。


「おー、朝飯の途中だったか」


 飛び散らかった朝食の残骸を見て、咲は本当に嬉しそうに笑っていた。


「迎えに来たよ」




『……ずっと、悠希くんと結ばれることだけを考えて生きて来たんですよね?』




 咲は敗れた。徹底的に、疑問の余地もなく、片桐さんに敗れた。




『そのことだけを考えて生きて来て、それが台無しになるって、どんな気分ですか?』




 今なら、その時の咲の気持ちがよく分かる。


 変わらざるを得なかった咲の気持ちがよく分かる。


 全てを失った咲の気持ちがよく分かる。


 奇妙な静寂の中、反応のない周囲を見回して、咲が呟いた。


「これで邪魔者は居なくなったな……」


「…………」


 僕は馬鹿になった。大口を開いたままの口元に、つっと涎が伝って落ちたけど、あまり気にならなかった。


「うふ、うふふふふ……!」


 口を衝いたのは、僕自身、僕のものとは思えない乾いた笑い声だった。


 笑い出した僕を見て、咲も堪えきれなくなったように笑った。


「あは、最高だな」


 小さい頃、時折見掛けた笑顔。

 とびっきりの悪戯を成功させたときにだけ見せた、あどけない笑顔。


 僕の幼馴染。


 なんてことはない。最初から、僕らは僕らだけだった。それに漸く気付いた僕は、おかしくて堪らず、ひたすら笑い続けた。


 笑う笑う、僕らは笑う。


 嗤う嗤う、僕の幼馴染。


 あまりにも、強く繋がり過ぎてしまった、僕ら二人。

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幼凸~幼馴染みにガチ凸された僕~ ピジョン @187338

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