第13話、脱出

 暗い蔵書閣、北の高窓だけが雨の日のぼんやりとした光を入れている。扉を内側から大舟が叩くが、まったく開く気配はない。「くそ……」痛くなった手を下ろしたところに、ひとつの手燭がやってきた。尚王が誰だと問いかける前、細い声がかけられる。


「何があったのですか」


 灯に照らされた手は声から想像するよりしっかりと硬い形をしていた。かすかな灯に定かではないが、うるさいと言うように眉を顰めたように見える。そこにいるのが知人であったことに心底安堵し、尚王は彼女の名を呼んだ。


「璃珠」

「おや、天子様でしたか」

「史官様、賊が入りました。王を狙って……」

「では、なぜ大きな音を立てているのです」


 璃珠はたいして驚きもせず答えた。王の居所を知られる危険に思い至り、大舟は返す言葉がなかった。


「その声は、大舟ですか」

「……そうです」


 大舟から尚王へと視線が移る。薄暗い蔵書閣の中で、その視線がはっきりと刺すように感じられた。


「天子様は、大舟と話したのですね」

「ああ……叔父上と会わせたところだった」


 表情が見えないが、さっと彼女の纏う空気が厳しいものに変わる。璃珠が怒りをにじませた声で言った。


「会わせてどうなると思ったんですか。まさか、今更、衡大公こうたいこうを罰することや緑公の名誉回復ができるとでも?」

「……俺は、本当のことが知りたかっただけだ」

「大舟も同じ考えだと? 何もできないのに中途半端に知りたがるのは悪意より面倒ですよ」

「それでも……」


 言い返そうとして、大舟の夜燈を見る目を思い出す。震える手の中、突き出された包丁の鈍い輝きも。本当のことが分かったところで、大舟には何も返ってこないのだ。


「……大舟、悪かった。だが、夜燈はおまえまで殺したくはなかったんだ」


 言った後で思う。それが彼にとって何の救いになるというのか。夜燈は衡大公と共謀して緑公を陥れたも同然なのだから。衡大公の進言を退け、腐刑に減じたのは夜燈だろう。しかしそれが何になる。……真相が分かっても、俺は上手く治めることができない。大舟を初めからいなかった人にすることも、大舟のために国を傾けることもできない。

 けれども、大舟は思いの外、冷静だった。


「今は、賊への対処が先でしょう」

「……そうだな。燿は無事だろうか」


 尚王は少し考える。何者かが賊の裏にいるのだろうが、それは今はよい。夜燈がいれば、兵を揃えて賊を探し出し全てを討つだろう。王がいないからといって何もできない間抜けたちではないのだから。だが……。


「……やはり、俺は外に出るべきだ。国の危機に、王が隠れていたのではいけない」

「あなたのできることは何もありません」

「王とはそこにいるだけで意味を持つものだろう」


 今度は璃珠が言い返せなかった。尚王は雨の強くなりつつある高窓を見上げる。


「あの窓から出る」


 高窓は一番背の高い大舟が手を伸ばしてもまったく届かない高さだ。


「肩車すれば届くか?」

「外に賊がいたらどうします」

「……私が先に行き、周囲を見てきましょう。大舟」


 大舟に肩車され、璃珠が窓に向かう。「ん? おまえ……」。大舟が何かに気づいた。見た目より重い。その上、首に何かが当たる。「今はそれどころではないでしょう」。璃珠は懐から刀子を出すと、壁に突き刺し、大舟の肩からそれを足がかりにして窓枠に手をかけた。


「見た限りは誰もいませんね」


 璃珠は窓に足をかけ、するりと外に出た。誰もいなさそうだ。着地して見回すと、大殿おおとののほうから声が聞こえてきたが、この近くに人はいない。手で窓から首を出した尚王に合図する。今度は尚王が窓から出てくる。窓枠に乗ったままで大舟に手を伸ばした。


「ちょっと……待ってください。これは登れそうに」

「これを使えばなんとかできないか?」


 精巧な細工のついた刀子を渡すと、大舟は二つの刀子を頼りに壁を登った。王の持ち物を足蹴にしたと知られたら、叱責ではすまないだろう。


「すごいな、大舟」

「そんな」


 大舟を引き上げ、尚王は外に降りた。ひんやりとした雨粒が肩を濡らす。大舟も追って降りてきた。複数の人の声がして、そちらで大きな騒ぎが起こっていることがわかる。そこから近づいてくる人影が二つ。


「大殿のほうだな」

「兵か……いや」


 その人影は、その後ろから現れた兵に追われていた。あれが賊か。弓は持っていないようだ。刃物をにぎり、尚王を見つけて駆け寄ってくる。大舟が包丁を手に前に出た。飛びかかろうとする賊に、璃珠が石を拾って投げつけた。尚王も真似をして投げる。石のひとつがひとりの頭に命中、ふらついた隙に、もうひとりに大舟が近づいて腕を叩き切った。

 血しぶきを浴びながらも、身をひるがえし、残りのひとりの肩に刃を食いこませる。ふたりの賊は、痛みにうめきながら地面を転がった。死んではいない。追ってきた兵に引き渡せばいいだろう。


 その追ってきた兵の中に、妙に背の小さな者がいる。思いもしなかった顔に、尚王は飛び上がった。


「燿!?」

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