カフェ・クラムジイ4~君のために、心をこめて~

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君のために、心をこめて

 大勢の人達が行き交う立川駅のペデストリアンデッキ。そのど真ん中で、冬樹と緋色は向き合った。

 走りながら必死に叫んだ冬樹は、息が絶え絶えになっていた。一方で緋色は、何事かと言わんばかりの様子で目を見開いて冬樹の顔を見つめていた。


「僕は、大事なことを見落としていました……」

「何をですか?」

「僕の家には、まだ店の道具が残ってるんです。自分でやろうと思えば、いつでもコーヒーを淹れることができるんです。だから……グホッ」


 そこまで言いかけて、冬樹は胸を押さえながら咳き込んだ。緋色は慌てて冬樹に駆け寄り、背中を何度もさすった。


「大丈夫ですか?」

「き、気にしないで。慌てて走ってきたから、息が切れちゃって……」


 冬樹は大きく深呼吸して息を整えると、背中をさする緋色の方に向き直り、その大きな瞳を見つめ返した。


「よかったら、僕の家に来てくれませんか……? 今度の土曜日なら仕事が休みになるので、その時、緋色さんが来てくれるならば、家にある道具でコーヒーを淹れますから!」


 すると、緋色の大きな瞳が突然潤みだした。冬樹は彼女を安心させたい一心で言ったつもりはなのに、緋色は片手で何度も目の辺りを拭っていた。


「ごめん。嫌だよね、こんなおじさんの家に若い子が一人で行くなんて。無神経な提案をして、ごめんなさい」

「違いますよ!」


 緋色は涙声でそう言うと、両手で顔を押さえ、鼻を何度もすすりながら泣き出した。


「だって……マスターの淹れてくれたコーヒーを飲めるなんて、もう二度と無理だろうと思ってたから」


 泣きじゃくりながら、緋色は冬樹の上着に顔をうずめた。突発的な緋色の行動に、冬樹は慌てふためいた。


「緋色さん、嬉しいんだけどさ……周りの人達が僕らをジロジロ見てるみたいだから」

「あ……そうですよね。やだ、私、何やってるんだろ?」


 緋色は冬樹の上着から顔を離すと、行き交う人達が自分達を奇異の目で見つめながら通り過ぎていくのを見て、顔を赤らめて冬樹の元から後ずさりしていった。


「とりあえず、今度の土曜日にこのペデストリアンデッキで待ち合わせしましょうか。僕はそれまでがんばって勘を取り戻さないとね。アハハハ」


 冬樹がおどけて笑いながらそう言うと、緋色は極まりの悪そうな様子で、ダッフルコートのフードを揺らしながらそそくさと駅の改札口へと走り去っていった。

 冬樹の上着には、緋色の温もりがまだ残っていた。その感触を確かめるうちに、冬樹の心は急にときめきだした。

 五十歳を迎えてから、年齢差のある若い子達には縁もないし、ときめくこともないと思っていたけれど、まさかこの歳で、今まで感じたこともない胸騒ぎを味わうとは思いもよらなかった。

今の冬樹の頭の中は、中古住宅の契約件数を上げることよりも、自分のコーヒーを心待ちにしている緋色のことで一杯になった。仕事から帰ったら早速箱の中に詰め込んだ道具を取り出し、練習を開始する決意を固めた。



 土曜日の昼下がり、いつもはサラリーマンや学生が行き交う立川駅のペデストリアンデッキには、家族連れや若いカップルの姿が目に付いた。

 冬樹はスマートフォンを片手でいじりながら、駅舎の壁に寄りかかっていた。


「くそっ……痛いなあ」


 スマートフォンをいじる指には、細めの絆創膏が巻かれていた。緋色の心を満たすコーヒーを淹れたい一心で、何度も練習を繰り返していたが、練習後に濡らした手を十分ケアせず乾燥させてしまったせいか、爪の辺りに大きなささくれが出来てしまったのだ。

 ささくれの出来た辺りは赤く腫れあがり、痛みに耐えきれず絆創膏を貼って応急措置をしていた。


「こんにちは」


 冬樹の背後で手を振る緋色の姿があった。

 長めの髪の毛をポニーテールに結び、ダッフルコートの下に膝小僧の見える短めのスカートを穿いた緋色を見て、冬樹はちょっと顔を赤らめた。


「どうしたんですか? ちょっと顔が赤いですけど」

「な、何でもないですよ。じゃ、行きますか」

「はい」


 二人は肩を並べて立川駅の改札をくぐり、多摩モノレールに乗り込んだ。車窓から多摩川の流れや立ち並ぶ住宅街を見る冬樹の傍らで、緋色はずっとスマートフォンを見続けていた。座席に座った緋色のスカートから白く肉付きのよい太ももが半分近く見えてしまっていたが、緋色は気にする様子も無く、スマートフォンの画面に気持ちを集中させていた。

 画面には、都内の著名なカフェのマスターが、ペーパードリップでコーヒーを淹れる動画が延々と流れていた。

 なぜそんな動画を見ているのだろうか? すぐ隣に、元カフェのマスターでコーヒーマイスターの資格を持った男が座っているのに……冬樹には緋色の行動がいまいち理解できなかった。


 やがてモノレールの車両が「甲州街道」駅に到着すると、冬樹は緋色をそっと手招きした。駅から少し歩いた所々に畑の残る落ち着いた雰囲気の住宅街の中に、冬樹の住むアパートがあった。


「さ、遠慮せずに中にどうぞ」


 部屋の中には、コーヒーの香りが充満していた。緋色が来るのが分かって以来、冬樹は箱に詰め込んでいた店の道具を使って、コーヒーマイスターとしての腕と勘を取り戻すための試行錯誤を行っていた。豆を挽き、湯の温度を調節し、様々な淹れ方を試してみた。コーヒーにこれだけ気持ちを入れ込んだのは、本当に久しぶりだった。


「豆や淹れ方の希望はありますか?」


 冬樹はカフェで使っていたメニュー表を緋色の目の前に置いた。


「じゃあ……コロンビアで。そして、ペーパードリップでお願いできますか?」

「分かりました。ちょっと待っていてくださいね」


 冬樹は豆を取り出し、ミルで丁寧に挽くと、計量スプーンでフィルターの上に少しずつ載せていった。

 その時、冬樹の背中に息が吹きかかるような感覚があった。冬樹は「え?」という声を上げて後ろを振り返ると、そこには中腰の姿勢で目を広げてじっと作業を見守る緋色の姿があった。


「ずっと見てたんですか?」

「はい。どうやったらあんなに美味しいコーヒーを淹れられるのか、この目で直に見てみたくて」

「じゃあ、こっちに来てみて。目を凝らしてよーく見ていてくださいね」


 緋色は冬樹の脇に顔を近づけると、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開き、冬樹の手の動きをじっと見つめていた。

 冬樹は細い口のポットを取り出すと、フィルターの上に湯をゆっくり注ぎ込んだ。すると豆はじゅわっと音をたてながら泡立ち、コーヒーサーバーの上に一つ、また一つと茶色い液体が落ち始めた。

 やがてサーバーの半分が液体で満たされると、冬樹はサーバーを取り上げ、可愛らしい青い花柄のカップにゆっくりと注ぎ込んだ。


「すごい……こんなに手際よく淹れられるなんて」

「まあ、これでも店をやっていた時よりは腕は落ちたと思いますけどね」


 緋色はカップの中に鼻を近づけて香りを味わうと、一口、二口と飲み込んだ。


「美味しい……」


 緋色はカップを見つめながら、白い歯を見せて感嘆していた。


「どうですか? お父さんの淹れたコーヒーと比べてみて」

「はい、まさしくこの味です。父が淹れてくれたコーヒーを思い出しました」

「よかった。もう腕が落ちたと自信を失っていた所だったから」

「そうなんですか……? 全然そんな感じはしませんでしたけど」

「いや、こないだ久しぶりに道具を出して淹れた時には、あまりにも出来が悪くてね。こんなものを緋色さんに出したら、喜ばせるどころか逆に悲しませてしまうと思って……それ以来、夜もあまり眠らずに毎日練習をしていたんですよ。そしたら、指がこんなになっちゃって……」


 そう言うと、冬樹は絆創膏が巻かれた指を緋色に見せた。


「どうしたんですか、これ……」

「ささくれです。コーヒーを淹れる練習しているうちに出来ちゃったんですよ」


 冬樹はコーヒーを飲みながら、苦笑いを浮かべた。


「何だか、すごく痛そう……」

「そう。ちょっとでも何かに触れると全身に響く位ズキズキ疼くんですよ。でも、みんなこのささくれの痛みに耐えながら、一人前のコーヒーマイスターになっていくんですよね」

「じゃあ、私もささくれに耐えながらがんばろうかな」

「え?」

「実は私、最近、自分でコーヒーを淹れる練習を始めたんです。動画サイトで有名なカフェのマスターの動画を見ながら、ですけど……」


 だから緋色は、モノレールの車内でコーヒーの動画を一心不乱に見ていたのか……。冬樹はようやく腑に落ちたが、一方の緋色は空になったコーヒーカップをテーブルに置いて、何か言いたげな様子で真正面に座る冬樹を見つめていた。


「マスター、またここに来て良いですか? 今度は飲みに来るんじゃなく、淹れる練習をしたいんです」

「じ、自分で?」

「今日、マスターが私のために特別に淹れてくれたことには感謝しています。だけど、いつまでもマスターに頼ってばかりじゃ、申し訳ないですから」

「でも、心から美味しいと思えるコーヒーを淹れるのは、簡単なことではないんですよ。僕だってここまでたどり着くのに、どれだけ時間がかかったことか……」

「それでもいいんです。時間がどれだけかかってもいいんです。いつの日か、自分が心から納得できる一杯を淹れて、亡くなった父に捧げたい……そしたらきっと、父もきっと天国で私のことを褒めてくれるかな? って思って」


 緋色は真剣なまなざしで訴えると、小さな声で「お願いします」と言って深々と頭を下げた。


「まあ、ちゃんとしたことを教えられるかどうか、いまいち自信はないですけど……」


 冬樹は絆創膏の貼った指で額を掻きながらそう言うと、緋色は「やったあ!」と叫び、両手を叩いて大喜びしていた。

 無邪気な笑顔を見せる緋色の様子を見ながら、冬樹はささくれの出来た指を何度も撫でていた。まだ痛みが残っているけれど、その分緋色が喜んでくれたならば、何にも気にならなかった。


「やれやれ、またささくれが出来そうだな。この子が美味しいコーヒーを淹れられるようになるまでは……」


(了)

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