蹉跌慙愧は恋ができない

たまぞう

蹉跌慙愧は恋ができない

 人生の転機といえば、なんとなく成功するに至ったターニングポイントを想像するだろうか。


 彼の人生の転機とは、それまで過ごしていた世界が虚像であったと突きつけられ、いかに己が愚かであったかを思い知らされたその時のことである。


 蹉跌慙愧さてつざんきの心はそのときすでに、煌めきを失っていた。


 乾いて、渇いて、触れれば崩れ落ちそうなほどに。




 蹉跌慙愧は妹と同じく生活の変化により友だちを一新することになった。


 妹とはいうものの、二卵性の双子なのだから、引越し先で同じ学校に通い、クラスこそ分かれたものの同じ学年である。


「お兄ちゃん、具合良くなった?」

「ん……だいぶ」

「それは良かった」


 兄と妹。同じ学年に転入したものの、兄のほうは初日に体調を崩して休んでいた。


(こんなに、か細かったのか、ぼくは……)


 一人称を俺でも僕でもなく“ぼく”と表記したくなるほどには、この蹉跌慙愧は名前の字面とは全く似つかわしくないほどに子どもであった。


 過去形であるのは、この時点で彼自身ぼんやりと感じ取っていることでもあるが、いずれ子どもとして能天気に過ごすことが許されない生活に身を投じることになるからだ。


 そのときに、彼は子どもではいられなくなり、“子どもを落第したただの愚か者”と自身をそう定義付けた。


「お兄ちゃんも頑張って学校にくれば良かったのに」

「新しいクラスとか、なんていうか嫌だよ……」

「めっちゃチヤホヤされたんだよー。休み時間なんて席を立つことも出来ないくらいにさ」

「おまえ、そんなに……いや、そっか」


 どのみちこの国では親は子どもに教育を受けさせる義務があるらしいのだから、どんな形であれ生きる場所を手に入れた母親の庇護下にあるのであれば年齢通りに中学校に通わなければならない。


 知らない土地で、知らない人たちの中に放り込まれる転校というものに難色を示す兄の気持ちを汲んだ妹の無理した振る舞いに蹉跌慙愧が気づかないわけもない。


「おまえは黙ってたら可愛いんだから、口を開かないほうがいいぞ」

「言われなくったって──」


 この妹は妹で嘘を吐ききれない。


 蹉跌慙愧はトーンを落とし、続く言葉を口に出来ずに目を伏せて顔を背けた妹が、実際には友だち作りに失敗したのだろうということが容易に想像できた。


『新しい友だちなんて──』


 両親が離婚し、夜逃げ同然に地元を人間関係ごと捨ててきた兄妹がお互いにそうこぼしたのはつい数日前のことだ。


(あいつら以上の友だちなんて、出来るわけもないし、存在しないし……要らないに決まっている)


 家庭の事情という言葉で簡単にまとめられてしまう程度の、昨今珍しくもないことだったとしても、多感な時期の子どもたちの心にドス黒い影を落とすには親の離婚は充分すぎた。


 やがて熱も引き、起き上がれるようになった蹉跌慙愧は、妹ほどに塞ぎ込むこともなく、持ち前の明るさ──蹉跌慙愧が言うところの、愚かで無知な子どもらしさのおかげで少なからずの友だちができた。


 そして、誠に愚かしい限りだが、好きなひとも。




 蹉跌慙愧の家庭が、大黒柱であるべきだった父親を切り捨ててなお、当たり前に学校に通える生活を送ることが出来たのは、母親が親戚を頼ったからである。


 自営業を営む、母親の弟──つまり叔父は自身の血を分けたきょうだいに対して救いの手を差し伸べることに躊躇いがない。


 蹉跌慙愧の母親はそれを知っていて、頼ったのだ。日本社会の、生活保護を代表とするセーフティに頼ることなく、寄る辺を見つけて身を預けたのだ。


 自身はもとより、我が子らもまとめて。


 現代のインターネットが発達した時代であれば、情報も簡単に手に入り、別の選択肢も取れたことだろう。


 蹉跌慙愧はそのことさえ悔やんでいる。


 もし、その時代にそんな安易な情報の入手手段があったなら、灰色の青春はそれでも春めいた色を宿したこともあったのかもしれないと。


 彼の子どもでなくなった、子どもを落第した理由というのは、この母親の選択に他ならない。


(家族全員が無事に生きていられるんだから、ぼくが働くのもおかしくなんてない──)


 そう、当たり前のことと信じて、彼は働いた。叔父の家業を手伝うことこそが、家族が生きるために必要で、たとえそのために他の可能性の色々を放棄せざるを得なくとも。




「慙愧くん、元気?」

「あ、うん。元気……いって⁉︎」

「ごめーん、慙愧。ほらほら働くよー?」

「わざとぶつかったな……」

「ふふ、仲いいんだね」

「そう見えますかぁ?」


 にまにまと、笑いながらわざとぶつかって店内を通り抜けた妹に、蹉跌慙愧は悪態をついてみせたりもしたが、そうするとその人はなんとも優しげな表情で見つめてくれるのだ。


「大山さんも姉妹でこんな感じなんですか?」

「うーん、ちょっと違うかな。割とよく喧嘩するし」

「ええ、想像つかない」

「そっかな、ふふ」

「とーもちゃんっ!」

「わっ、もう風華ちゃんはほんといたずら好きだよね」

「だってほら、こんなの放っておけるわけ……」


 それが蹉跌慙愧にとっては同性同士のじゃれ合いでしかいが、とはいえその内に滲み出てくるのはみっともない嫉妬の気持ちであり、その反面、妹が揉みしだこうとした行いを最後まで見たい気持ちがあるのを自覚しつつ、ちゃんとしたお兄ちゃんであるアピールが最良の手だと蹉跌慙愧はギリギリのところでどうにか判断して行動にでた。


「風華、大山さんが困ってるだろ」

「えー、いいよねともちゃん」

「ちょっと困るかなぁ?」

「ちぇっ、けちー」

「こら大山さんに謝れ」

「慙愧くんも、そんな大したことじゃないし」

「そうだそうだ。ともちゃんが許してくれてるんだから──」


 叔父の家業を手伝ううちにアルバイトとして雇われて出会った大山智子は優しい。それは蹉跌慙愧も知るところであり、救いになっている。それどころか蹉跌慙愧はこの大山智子と出会っていなければ心は粉々に砕けて死んでいたのではとさえ思う。


「慙愧も“ともちゃん”って呼べばいいのに」

「そんなことっ……出来るわけ、ないだろ」

「私は全然いいんだけどなぁ」

「……っ」


 そして、その優しさは豊かな泉のように際限なく湧いてくるかのようで、見た目にも可憐な大山智子に恋心を抱くのも無理はなく、そんなことは妹にも、当の大山智子にも知られている──なんてことはこの蹉跌慙愧は気づいていない。


 あくまでも最初から変わらない優しさで接してくれる大山智子に、蹉跌慙愧は心のうちを隠し通せていると思っているのだ。


 片想いが、蹉跌慙愧の場合は周りからすれば初々しくて誰もからかいもしないし、アルバイトに来ている大山智子などは当然として蹉跌慙愧よりもお姉さんで、そこのところ経験豊富とまではいかずとも、生温かい目で見てくれるほどには余裕の相手をしてくれる。


 どうしようもなく大山智子という心優しいお姉さんが好きな蹉跌慙愧は、その恋心は伝えてはならないと思っている。


 その資格はないのだ、と。大山智子を雇うだけの甲斐性があるのは叔父であり、自身の家庭は借金から逃れるために父親を生贄に逃げてきた恥ずべき持たざる者であると、魂に刻まれているから。


 だから、蹉跌慙愧は片想いに縛られて、それが恋なのか愛なのかも分からないまま、青春時代と呼ばれるはずの年齢を過ごして、結果として色々なフラグを素通りしてしまったのだが、それは別のお話。


 自身が下賤の者だと思えば気は楽になる。いつだってそれを理由に諦められるのだから。


 それなのにこの想いだけはどうしようもなく蹉跌慙愧の中で大きくなって、大山智子無しでは生きていけないとさえ思うこともしばしば。


 ひとりプラトニックに片想いをしつつ、それでも年ごろの男子らしく妄想の中で消化することも頻繁にあった。


 そしてその度に、蹉跌慙愧は己の汚さを思い知って、ますますその胸を焦がす想いなどは言葉に出来なくなる。


 そうしているうちに、ちょうど三歳ちがいの蹉跌慙愧と大山智子は、蹉跌慙愧が高校に上がる頃には、看護学校に通い始めてアルバイトも卒業することになる。


 それなのに、会えなくなってもなお、蹉跌慙愧が高校生活を送っている時でさえ、仲良くなったクラスメイトの女子のアピールにさえ気づかない鈍感系になるほどには、ずっと片想いを続けており、もはやそれは呪いと言っても良いほどであった。


 そう、呪い。


 甘美で、妖しい呪い。


 蹉跌慙愧はまだ中学生の頃に大山智子から誕生日プレゼントを貰っていた。


 それは彼が、蹉跌慙愧が高校を卒業し大人になった頃にはやっと何も特別なものではない、挨拶レベルのものだと知ることが出来る程度のものでしかなかったのだが、そこは蹉跌慙愧だ。


 色恋など無縁の超子ども時代を親の離婚で過去にし、引越し先では大山智子という心優しき天使のようなお姉さんに片想いし続けて、あったかもしれないクラスメイト女子との恋愛フラグも目に入らずに過ごしてきた蹉跌慙愧だ。


 女子高生がカバンに忍ばせていそうな苺ミルクの飴を一袋まるまるであろう量を、可愛らしいタオルハンカチでくるんでラッピングしただけの誕生日プレゼントを贈られた蹉跌慙愧はこの世の至宝を手にしたかのごとく喜び舞い上がり、確かな幸福感で満たされたのだ。


 さて、そんな蹉跌慙愧だ。彼のとった行動は至ってシンプルで、大山智子の誕生日に贈ったのだ。悩んだ末に自分が好きな女性アーティストのCDアルバムと、自作のポエムを。


 大人になっても思い出せば蹉跌慙愧は頭を抱えてのたうち回ったものだ。それを黒歴史と呼ぶのだと知ってからは、黒歴史という単語だけで連想しては恥ずかしさに悶えて死にたいとさえ思ったりしたものだ。


 高校を卒業し、進学を選ぶことさえ出来ずに何の夢も希望もなく就職した蹉跌慙愧でも彼女が出来たりしたこともある。最長で二年しか続かない恋愛は、しかしあの時の多幸感などカケラほども感じなかった。


 あの頃は想像の中でしかなかった繋がりを、体温を感じる抱擁も快楽も、実体験として得たにも関わらず、幸せはどこにもなかった。


 蹉跌慙愧は恋が下手くそだ。


 彼自身がそう決定づけているからそうなのだ。


 あのとき、蹉跌慙愧は抑えていた恋を、片想いをほんの少し、ほんの少しだけ漏らしてしまったのだ。


 手酷く、とまではいかずとも、それまでの関係は脆くも崩れ去ったのを、いかに無知で愚かな蹉跌慙愧でさえ気づいて、気づいたことさえ悔やむほどに後悔した。


 それまで弟のように優しく見守ってくれていたお姉さんの大山智子は、無垢な弟から“男”の片鱗が見えたとき、後ろを振り返ることなく、背を向けて去ってしまったのだ。


 子どもとはいえ中学生だ。すでに大人の体にもなり、どんなに他の子どもたちと隔絶された私生活を送っていたとしても、目にして耳にすることはある。


 だから、魅力的なお姉さんの肢体にそんな目を向けたとして、誰が責められるものだろうか。


 ごく自然な、子どもであるのに、子どもではいられなくなった存在が、むしろ普通の子どもであるのだと思える、そんな視線に、不埒な欲望がちらとよぎったせいで、蹉跌慙愧は片想いのまま、この上なく救われて、恩義を感じて、この人のためなら死地にだって飛び込めるほどの、感謝と敬愛の念を抱いたまま、思春期の気の迷いのおかげで──呪われた。


 蹉跌慙愧は恋を口に出来なくなった。


 恋した時には終わりのことを考えている、そんな人間になってしまった。


 好きだと、伝えることが怖い。それは伝えた途端に始まってしまう呪いの言葉。終わりは間違いなく惨めに傷つき嘲笑されるのだ、と。


 恋をするほどに、心がささくれていく。何も始まってもいないのに、蹉跌慙愧は勝手に死んでいく。始めたら終わるのだと、知っているから。


 だから、好意を向けられて、外堀を埋められて付き合ってしまったときには、いかにして波風立たせずに別れるかだけに尽力した。


 何も持たず、何も知らず、いまだにあの人への恋心が烙印のごとく胸に焼きついたままで、普通の女の子と付き合えるわけがない、と。


 思わせぶりをして、嫌われない程度に関わる。蹉跌慙愧は、胸に刻まれた呪いの多幸感に縛られ、芽生えかけた恋心のカケラに気づくたびに、ひとを遠ざけた。


 きっと自分を好きになってくれた同僚も、友だちも、後輩も、仕事仲間も、遠ざけるほどに、蹉跌慙愧は人の心を忘れた。


 彼自身が失くしたわけじゃなく、他人の心を忘れてしまった。


 無味乾燥な人付き合いは、薄っぺらいテンプレートの会話で簡単に築かれるだけに、心がささくれるのを感じたら簡単に捨て去ることができた。





「蹉跌さん、その……相談に乗ってもらえませんか?」


 蹉跌慙愧もそんな世界最大の恋心を抱いていた時代は昔のことだと、黒歴史に悶えたりしない、そんな歳になって、後輩の面倒を見ることも珍しくは無くなった。


 酒が飲めるのは当たり前。後輩女子に相談ごとを持ちかけられるくらいには、やはりそつなく人付き合いをこなしており、この後輩のことも浅く薄っぺらく関わるだけであった。


 そのはず、なのに。


 蹉跌慙愧は不覚にも知ってしまった。思い出してしまった。


 他人のなかにある、ひとの心を。


 ひとを遠ざけるほどに、他人にも感情があって思考してるのだと知りながらも忘れていた。


 仕事に一生懸命に向き合い、それでもつまずき悩み打ちのめされた後輩の涙を止めるために、それらしいポーズで抱いた肩に、宥めるために撫でた頭に。


 自然とそれはポーズではなく、蹉跌慙愧としても驚くほどに、もっともらしく抱き寄せた。


 蹉跌慙愧には分からない。どれくらいぶりにひとの心に触れたのかということが。


 だけれども、それは確かに過去の慙愧の念を忘れていまいちどぶつかってみたいと思わせるだけのものであった。


「きみは間違っていない」


 ひどく自己肯定感の低い後輩に、蹉跌慙愧は自身を重ねながらも、話に聞き入り、宥めるためではあれど、そこに薄っぺらな言葉も気持ちもない。


 気づいて認めれば一気に広がる。かつて胸を満たしたモノが、いま再び──蹉跌慙愧はひとの心と向き合う覚悟を決めた。


 すでに、あっという間に、目の前の、腕の中のこの子は、有象無象じゃない。遠ざけてきた他人じゃない。


 これが、ひと、なんだと。知ればそうなってしまう。だから遠ざけたのに、いまは腕の中に抱いて、感謝している。


 ひととは、なんなのかを思い出させてくれて。


 だからこそ認めてあげなければ、この子まで──。


 弱ったところにつけ込む行いだろうか、と蹉跌慙愧はやはり躊躇う思考が頭に浮かぶが、それでも今回ばかりは踏み出してみようと思えた。


 ひとの心に触れて、ひとを好きになる心に気づき、忘れてしまっていた心を呼び覚まして、蹉跌慙愧は口にした。


「僕はそんな一生懸命なきみが、好きだよ」


 とても、とても好きだよ、と。


 それは愚かにも再び繰り返す呪いの言葉だろうか。それとも──。



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