第11話 奇跡の痕跡

リミュエール王国 フェーブル領 セーズ村――



ありふれた話なのだ。

赤ん坊が体調を崩し、そのまま息絶えてしまう等ということは。


100年以上も前はもっと酷かったのだと、当時を知る人物がもし存命で頭もはっきりしていれば言うだろう。



今では4つに割れてしまっているこの大陸を1つに纏め上げていた建国王ヒロウシ・サトゥーは、衛生の概念を広めることに腐心していた。

毎日のように水浴びを行っており、特に水をためて加熱した温水を「風呂」と呼び身を入れることを非常に好んでいた。

自身に侍らせた女性らにも風呂に入るよう徹底し……入浴を拒んだ女性は、例えどれほどの美貌を持ち、代えがたい地位をもつ女王や令嬢であろうと、側室に迎えるどころか近寄ることすら許さなかったとされる。

そして他の貴族はもちろん、国民全員に風呂に入ることを強く推奨し、それ専用の恩寵風呂銭湯まで公費で拵え、主要な都市には必ず配備させた。

湯は定期的に入れ替えるよう指示し、もし管理者がそれを怠れば処刑されていたほどである(流石に後に減刑されたが)。

開拓村のような風呂を設置し運営管理するだけの人も物資も不足する場所では、蒸風呂サウナと呼ばれる蒸気で身体を温め身を清める施設の設置が義務付けられている。このセーズ村にも当然に存在する。

他にも、糞尿などその辺に適当に捨てていたものを一か所にまとめ処理する施設を作り、汚れたときには手を洗ってから食事をとる作法を広めるなど。

とにかく、建国王は衛生に拘っていた……妄執的と言っていいほどに。

だが、その甲斐もあり、そして建国王が貴族らを説得をする際に力説していたとおりに、疫病のような大規模な流行り病は劇的に改善されていった。

子供や老人のような体力のないものが次々に倒れていくこともなくなり、この衛生という概念は国が割れた今でも4つすべての国で徹底された項目である。


そう、病にかかる人間は確かにのだ。

しかし、病にかかる人間がわけではない。

そして、突飛で革新的な施策や発明をいくつも進めた建国王であったが、病気になった人間への治療という分野にまではその叡智は及ばなかった。

弁明するのであれば病人の身辺もまた綺麗に保つことは徹底したため、改善が全くされなかったわけではない。

しかし例えば飲ませる薬などについては、従前の薬師や白魔女の作るものに頼らざるを得ない。



だから、ありふれた話なのだ。

衛生を保ち、病気にかかりにくくなったといっても。

赤ん坊が病気にかかってしまい、そのまま命を落としてしまうことなど。

どうしようもないほどに、ありふれた話なのだ。




「お願いします!この子を、この子を助けてください!!」


我が子を助けてくれ、と赤ん坊を抱え泣き叫ぶ母親を、しかし開拓村に住まう薬師のおきなは沈痛な表情を浮かべるほかなかった。

手持ちの薬で使えそうなものはすべて用いたが、しかし赤ん坊はぐったりとしたまま、容体は回復しない。

手の施しようが、もはや残っていないのだ。

いや、全くないというわけではない……例えばこの森の奥の奥に生える世界樹の麓で飲みとれる万病に効く薬草、それがあれば助かるかもしれない。

しかし、そんなもの薬師の生涯で今まで一度も見たことがない。

開拓村に来る前は王都で薬学を学び、現場での治療にあたることを使命としてからは、各地を転々としていた薬師ですら見たことがないのだ。

たまにあったと持ち込まれても、それは詐欺師の用意した偽物か、それを掴まされた哀れな商人の持つ偽物ばかりであった。

そんな最後の幻想めいた話を持ち出すわけにもいかず、薬師は天を仰ぎ……呼吸を、とめる。






ドラゴン。






赤銅色に輝く鱗で全身を覆い、巨鳥ロックよりも大きい両の翼をはばたかせ。

名剣名槍のような鋭さの爪に、牙を持ち。

黄金色の瞳をたたえながら。

ドラゴンが静かに、大仰に、ゆっくりと。



尊大に。

雄大に。

雄弁に。




ズズン、とその巨体の割には酷く静かにドラゴンが村に降り立った。

そのドラゴンに最も近い場所に立つこととなった薬師の翁。そして赤ん坊を抱く両親の男女。さらに彼らの周囲で事態を見守っていた村人らも、皆が一様にぽかんと口を開け、ドラゴンを見つめる。

薬師の翁はその略歴の通り、勉学を学んできた自負がある。

それに、現地での治療を行うために各都市を回っていたのだ。当然、魔物モンスターに襲われたこともある。

だが今までの生涯で、このような怪物ドラゴンに出会ったことなど、ただの1度もない。

いわんや、開拓民など名前すら知らなくてもおかしくない。



だが、その身より発せられる威圧は、威風は。

無知なるものたちにすらも届く。


大地に降り立ったドラゴンは、静かに首を上げ、じっと此方に目を向ける。

黄金色の瞳により。

村人たちを、薬師の翁を、そして赤ん坊を抱く男女を睥睨する。



微かに、薬師の翁の身体が震える。

だがそれは、両親も、そしてその周囲の村人らもやはり同じであった。

悲鳴はあがらない。

あげられないのだ。



悲鳴をあげるときというのは、が相手であるときに限られるのだ。

例えば魔狼ジェヴォーダンか、ティタンか、あるいは野盗のようなならず者といった連中。

なるほど、前者らは身体能力で遥かに一般の人間に勝り、後者は武器や道具を扱い戦術をもって襲い掛かってくる脅威である。

しかし、全力で走ればひょっとしたら逃げおおせることができるかもしれない。たまたま運よく相手の体調が悪かったり、あるいは転んでしまったりすれば逃げることも難しくない。

言うなれば余裕がある相手なのだ。

そうでなければ、大きく息を吸い、空気を肺にため込み、それらを一気に押しやって声帯を震わせ、力の限りに声を張り上げる。

そんな平時では行うことも出来ない時間も体力も必要な重労働を行ってでも、周囲に危険を知らせる必要があるから、みな悲鳴を上げて逃げるのである。



本当に恐怖しているときは、そんなことすら行う余裕もない。

それが、今である。



あるいは、さらに恐れているのかもしれない。

ドラゴンがただ降り立ち、何事をするわけでもなく、飛び立ちこの場を後にするなど考えられない。

今はゆっくりと村人らを睥睨している。

が、ともすれば。

ここで悲鳴を上げてしまえば。


それを呼び水に……が起きてしまいそう、だろう?


それ故に、その場に居る人間たちは皆、ただを恐れ、カラカラに乾いた喉を無視し、悲鳴もあげられず……可能ならば、呼吸の音も、心音すらも止めて、ただドラゴンの様子を窺うことしかできないのだ。

ただ一人を、のぞいては。




「ぎゃぁぁぁ~~~~~~!!」


赤ん坊が泣きだす。

ぐったりしていた赤ん坊だが、しかし目の前の怪物ドラゴンがただならぬ者であることは分かる。無知蒙昧であろうとも、目の前の怪物ドラゴンが捨て置けぬ存在であることは分かる。

しかし、何をどうすればいいのかまでは判断ができない。赤ん坊にできることは泣くこと、それだけなのだから。



はっと、弾かれたように母親が赤ん坊を抱きとめる。

どうか、どうか泣き止んで。どうか、どうか許して。と必死に願う母親であったが。

しかしドラゴンはその首をもたげ、ゆっくりと足を地につけ、赤ん坊らの近くへと動きその頭蓋を近づけていく。


母親らを守るべき自警団の面々もその場にはいたが、しかし彼らは手にした槍を握りしめ、あるいは剣を引き抜くまでが精々であり、とてもドラゴンに向かい刃を向けることはできない。

母親に寄り添っていた父親は、そのまま腰を抜かして倒れこんでしまい、がたがたと震えて立ち上がることすらままならない。

母親はしかし、赤ん坊をきつく硬く抱きしめ、その場で座り込む。

……意味のない行動だろう、ドラゴンの頭を視よ。あのあぎとを。ほんの少し開けるだけで母親ごと赤ん坊を丸呑みにできるであろう。


誰もが、この後に訪れる惨劇に身を震わせる。

そして、ドラゴンが小さく唸った。



グルル……




そして、瞬く間に世界が輝き始める。

光の粒が周囲から沸き上がり、それが母親の周囲を旋回して、大きな竜巻のような姿を形成し始める。

驚き顔を上げる母親だが、しかし竜巻に見えるそれは実際には無風であるのか、何の痛痒も抵抗もその身が感じることもなければ、輝く粒子が身体に触れようとも何もない。

そうして粒子が合わさりやがて一つの光の柱に変貌していく……その御柱の中心にいるのは母親の、腕の中にいる赤ん坊。

見る見る間に、異常な赤みを湛えていた顔が本来の自然な赤さへと変化し、ぐったりしていた身体は赤ん坊らしい瑞々しい生命の息吹を備え、目は開き輝きをその双眸に映す。



どれほどの時間が経ったのかもわからない。

一瞬であったとも、数刻であったのかもしれない。

しかし気が付けば光はなくなり、そこには、不安そうに見守る村人らに、きょとんとした表情の母親と、元気そうにきゃっきゃと笑う赤ん坊。

そして赤ん坊の顔をのぞき込むドラゴンが残される。




グルルルルル!


ドラゴンは赤ん坊が声を上げ笑うのを見て、一声唸ると翼をはばたかせる。

軽やかに。

嬉しそうに。


そうして、村人らが事態を飲み込めずにただただ、ぽかんと口を開けて、ドラゴンが飛び去るのを見つめるに任せて。

ぶーぶー、と唇を震わせて楽しそうにしている赤ん坊の声だけが、しばらく村に響いていた。

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