ささくれ

猿川西瓜

お題「ささくれ」

 指のささくれを剥いて、爪の奥まで引き剥がしたら、血が滲んできた。

 血が垂れそうになる指を口にくわえて舐めると、皮膚の味ばかりで血の味はしない。

 血は大量に飲まないと、その不味さは分からないのだ。鉄の味なんて、なかなかしない。

 ささくれを剥いた痛みは2、3日続いて、忘れた頃に治っている。


 私はこの一ヶ月間、手の肌荒れがひどく、自分の手に保湿クリームを塗って、綿手袋をして寝ている。


 落ち着け。必ず、精神の安定を貫いてみせる。

 明日で仕事を辞める。もうこれで終わりだ。


 寝る前のルーティンを私はしっかりと決めて、仕事よりも緊張感を持って意識的に行っていた。確実に日々が過ごせる方法を選んでいた。

 いつもは夜更かしするのに、ここ一ヶ月は、もう午後十時くらいから、読書もゲームもせずにただ寝ることだけに集中した。布団をきちんと敷いて、快眠サプリをきっちり一日分飲む。それから、お風呂にお湯をためてしっかり入る。それから白湯を飲んで、軽い体操と瞑想。そこからいよいよ最後に、手にハンドクリームを塗って、手袋をする。寝る前に、おそらく100回は聞いたであろうオールナイトニッポンのYouTubeにアップされた動画を再生する。そして、聞きながら眠るのだ。


 退職の一ヶ月前、毎日この習慣を守り続けた。


 これほど自分に緊張感を持って接したのは人生で初めてだった。

 私は社団法人という、決して潰れることのない組織で勤めていたが、辞めるまでの一ヶ月、仕事をみっちり入れられたのだ。最後の最後まで、怒濤のイベントが続いた。同僚と上司は、私が仕事を失敗することを今か今かと待ち受けていた。仕事を一切しないで、すべて私に押し付けた。私はそれを受け入れた。本気を出せばすべてこなすことができたからだ。ここからは、根気と根気の勝負だと思われた。

 上司やその取り巻きの目的は、すでに「私を辞めさせる」ことにはなかった。

 もう辞めることはとっくに伝えているからだ。

 彼らの目的は、私の精神を病ませて、うまく再就職させないことだった。辞めた後も、ずっと苦しみ続けること。これが上司らの狙いだった。

 事務職で10年以上も勤めた社団法人だ。働ければ働くほど、なぜか上司に疎まれる場所だった。立派な人間が嫌いなのだ。何も知らないイエスマンさえ居ればいいのであって、自分の意志で会社をよくしていこうとする人間は必要なかったし、この組織について、私は知り過ぎていた。


 この組織を去るときは、私の人格や心が粉々に壊れているように。

 仕事を大量に押し付けて、ほんの小さなミスしたらそれを大事おおごとにして、謝罪させる。その謝罪文を書かせたり、メンタルを削ることで、他の仕事にも影響がでる。他の仕事もそれでミスれば、さらに問題視する。そうしてパニックにさせるのだ。それで精神を破綻させ、二度と他のところでも仕事できないか、できるだけ惨めに今後生きていかせる作戦だ。その方法は退職日当日まで続いた。

 私は一ヶ月、まずは帰り道にストゼロを飲んで、疲弊して興奮状態にある神経を静め、それからしっかり食事を取り、ただひたすら体力の回復に努めた。家に帰ってからも集中力を絶やさないようにした。

 最後の最後までやり遂げて、退職の日。私は一番親しかった人だけに顔を向けて、挨拶を済ませて、逃げるように職場を去ろうとした。ロッカーにカバンを忘れていたことを指摘されて、あわてて苦笑いしながらロッカーにカバンを取りに行った。そして走って職場を出た。その立ち去る私の背中に「最後も失敗しやったわ」と上司が声を投げてきたのが分かった。お疲れ様の挨拶もなしだ。

 私は勝ったと思った。退職前の一ヶ月、一度も休まなかったし、病まなかった。完全勝利だった。あの上司が私の背中に向けた一言は、とうとう私を病気にできなかったことの悔し紛れの言葉だったと思う。


 退職後、福井と金沢に旅行して、旅館で思いっきり飲み食いした。帰宅後も、昼からビールを飲んで過ごした。自分の「守っていたもの」がどんどんと「守らなくていいもの」になっていった。時々、働いていたころの悪夢にうなされたけれども、昼から酒を飲むという行為以上に、私自身を慰め、心を治してくれる行為はなかった。

 あんな地獄みたいな職場で今ごろみんなは働いている。しかし私は昼からビールだ。最高の贅沢だった。


 残り一ヶ月の頃、手が荒れて、指と指の間も、皮膚が破けて血が出るくらいになっていて、手の裏もかゆくて掻きむしって、指はささくれだらけだった。しかし、昼からビールと、母の作ったうどんやラーメンや餅を食するうちに、手は信じられないほど美しくなった。ハンドクリームをつける必要はなくなり、綿手袋は引き出しの奥にしまわれたままで、取り出されることはなかった。


 誰か助けて欲しいという気持ちにならず、最後まで「負けない」気持ちで貫き通したから、回復できているのだと思う。

 それから、ずっと辞めていたタバコも吸うことにした。

 夜中に、外に出る。

 ライターに火を灯す。キャスターの1ミリを思いっきり吸う。

 喉に、煙が流れ込む。ぐっと全身に心地よいものが広がっていく。神経がおさまっていくのだ。しびれが身体中に行き渡り、眠気に誘われる。

 星空が自由だった。空をまともに見上げることもできていなかった。見上げても、明日どんな嫌がらせをされるか、その対策ばかり考えていた。

 けれども今は、夜空に向かって思いっきり煙を吐くことができる。

 全身にニコチンが行き渡ってクラクラする。明日も目覚ましアラームなしで眠気の底に落ち着ける。


 お疲れ様、自分。

 こんなにも乾燥した冬なのに、タバコを挟む私の指先は街灯で輝いて見えるほど綺麗だった。

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