箱庭の中で私たちは踊る。

日向満月

箱庭の中で私たちは踊る。

 放課後になった教室のあちこちで、クラスメイトが『さよなら』と挨拶を交わし合う。


さよならごきげんよう

さよならごきげんよう。また明日」


 私の通う女子校は、都会や住宅地から離れた、閑静な高台の上に立っていた。

 春になると色とりどりの花が咲き誇り、いつも鳥のさえずりが聞こえてくる、そんな学び舎。


(……さて、そろそろ帰らないと)


 このまま机に突っ伏していても仕方がない。私は帰り支度をはじめるため、置きっぱなしにしていた鞄を手に取り、立ち上がった。


 ──入学したての頃は、世俗の喧騒から切り離された、まるで楽園のような場所だと思ったけれど。


 私は教室の光景に首を巡らせた。上品な所作で歩き、優美に微笑むクラスメイトたち。見慣れた環境。見飽きた景色。高等部の二年生にまで進級すると、『楽園』というものは、ただ綺麗な物をかき集めただけの、窮屈な『箱庭』のことをいうのだと気が付いてしまった。


 今は二月。真冬。美しい花なんて、校舎のどこにも咲いていない。鳥のさえずりだって聞こえてこない。


さよならごきげんよう


 近くを通り掛かったクラスメイトが『さよなら』と私に告げてくる。


「うん。またね」


 私も挨拶を返し、笑顔で手を振った。


 あと一年経てば、私たちは高等部を卒業する。大学に進学するか、就職するかは人それぞれだけど、きっとこの空間から広い世界に飛び立てば、こんなふうに挨拶を交わし合う機会は永遠になくなってしまうはずだ。


 だって外の世界では、『さよなら』のことを『ごきげんよう』とは言わない。生粋のお嬢様ならともかく、少なくとも一般庶民の私は学園以外でこの挨拶を口にしたことはない。


 窓の向こうを見遣ると、真っ白な雪の結晶が宙を舞っていた。ただでさえ寒いのに、最悪……。私はコートを羽織って、暖房のかかっていない教室の外へと脚を踏み出す。


 廊下は底冷えしていて、あまりの寒さに教室に引き返したくなった。他の学校みたいに、スカートの下に何か履けたら良いのに。校則で禁止されているから無理だけど。


「ごきげんよう、お姉さま」


 寒さを意識しないよう、無心で廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返るとそこにいたのは、最近仲良くなった下級生の女の子で。


「うん。ごきげんよう」


 挨拶を返すと彼女はそれだけで嬉しそうに笑ってくれた。よく見ると頬が薄く紅潮していて、耳まで赤い。


「今日って寒いよね」

「え?」

「ほら。耳、赤くなってるよ」


 ふと悪戯心が芽生えて、私は彼女に近寄った。その赤くなった耳元と柔らかな髪をそっと撫でる。


「えっ!? お、おね──」

「はい。取れた」


 まるで埃でも付いていたみたいに、彼女の髪を梳いてすぐに離れた。すると予想通り、彼女は途端に狼狽えて、目を泳がせて。

 頬はさっきよりも真っ赤になっていた。


「あ、あ……っ、ありがとうございます! でも、赤くなっていたのは多分、寒いからだけじゃなくて……」

「なに?」


 なんとなく予想は出来たけれど、気付かないふりをして首を傾げた。すると彼女は、はっとした顔をして。


「い、いえっ。なんでもありません! 失礼します!」


 慌てた様子でそう叫ぶと、彼女は廊下の向こうに走って行ってしまった。


 私はそれを黙って見送る。


 黙って見送ってから。


(また、からかっちゃった……。ほんと、何してるの、私)


 ものすごく、落ち込んだ。


(よくないとは、わかっているんだけど)


 ──自惚れじゃなければ、あの子はこんな私に恋心を抱いている。と、思う。多分。


 女生徒しかいないこの学園では、同性に恋をすることは、決して珍しいことではなかった。


 でも。


 私は俯いていた顔を上げて、彼女が去っていった廊下の先を見詰めた。


(その恋に似た感情も、一時的なものだよ)


 走り去っていった下級生の友人を想いながら、胸の内で呟く。


 だから。その気持ちは、早く手放したほうがいい。


 周りの人間が女性ばかりの環境に身を置いたせいで、少しばかり大人びて見える同性に強めの幻想を抱いているだけ。


 この箱庭で、私たちは、恋に似た感情に踊らされているにすぎない。


 外の世界に出れば、きっと、彼女も私への幻想を忘れて違う人を好きになるのかな……?


「わっ」


 そんなことを考えながら、廊下の角を曲がろうとした時、誰かとぶつかりそうになった。


「なに……?」


 今は正直、胸の内が暗く淀んでいて、誰かと関わりたい気分じゃない。しかし私が口を開くより先に、相手が「あれ?」と、この場にそぐわない明るい声を上げた。


 その声にどきりとする。


「久しぶりじゃんー」


 そこには同じ部活に所属していた、三年生の先輩が立っていた。


「最後に会ったのひと月? いや、ふた月前だっけ? あたしと会わない間、元気だった?」


 久しぶりに会った先輩の笑顔は、相変わらず陽の光のように、溌剌としていた。


 胸の内のもやもやが、ほんのちょっとだけ晴れていく。


「いきなり現れたくせに、なんですか? それはこっちの台詞です」


 私が呆れた顔を作ると、先輩は「ごめんごめん」と苦笑して、抱えていた荷物を持ち直した。


 なぜか先輩はクッキーやお煎餅が入ってそうな、ブリキの缶箱を持っていた。


「追われてたからさー。ちょっと急いでて」

「……またですか?」


 この先輩は色々と面倒事を起こしては、先生に追いかけられるのが日常の人だった。じとっとした目で先輩を見下ろすと、彼女は「『また』って何さー」と、不満げに頬を膨らませる。


「今回は違うんだよ! ちょー重要な任務を任されてて、そのせいで追ってから逃げてたの」


 はあ? 何言ってんだこの人。


「はいはい。そういう阿保な言い訳は結構ですから。さっさと自首してください」

「あ、信じてない! なんだよー。他の子にはいつも優しいくせにー。なんでわたしにだけ塩対応なんだよー」

「先輩の日頃の行いです」

「くっ。なんも言い返せねぇ……!」


 ふざけた口調で歯噛みする先輩は、口ではそう言いながらも少し、楽しそうに見えた。


 彼女と話すのは本当に久しぶりだ。先輩が部活を卒業して以来、会う機会はそんなに多くはなかったから。


 もし先輩が楽しそうに笑う理由が、私と同じだったら──彼女と話しながら頭の片隅でそんなことを考える。だけど、すぐ、胸が苦しくなった。そんなわけないってわかってるから。


 この感情は、きっと勘違い。女性ばかりの環境に身を置いたせいで起こった勘違い。そう自分に言い聞かせる。


「というか、先輩。今日は登校してきたんですね」


 私は一人で勝手に気まずくなって、窓の外に視線を投げた。厚い灰色の雲間から、白い雪がちらちらと舞う。淡雪とはいえ、これだけ降っているのに、校庭には雪が積もっていなかった。


「たしか三年生はもう自由登校ですよね?」


 どうしてこの人は私より年上なんだろう。見た目も性格も子供っぽいくせに。心の中でそう毒づく。


 もうすぐ、この人は私の前からいなくなる。そんなこと、今だに私は信じていない。


「うん。だから、さっき学校に来たばかりなんだけど……」


 そこで先輩は言葉を切ると、なぜか私の顔を見詰めてきた。


 どうしたんだろ? 先輩を見詰め返すと、その大きな黒い瞳と目が合った。


「なんですか? 私の顔に何か付いてます?」


 なるべく不自然にならないよう、ぶっきらぼうに尋ねる。動揺していることを……頬の熱を、悟られないように。


「ううん。何か嫌なことでもあったのかなって」

「え?」

「落ち込んだ顔してたから」


 落ち込む? どうして私が。

 聞き返したいのに先輩の真面目な表情を見ていると、何も言えなくなった。この人はたまにこういう顔をする。


「落ち込んでません。先輩の勘違いじゃないですか?」

「そう?」


 私は咄嗟に先輩から視線を逸らした。このままじゃ心の奥底の、誰にも知られたくない感情に気付かれてしまいそうで。


 もし彼女に知られたらと思うと、怖かった。


「……あ、そうだ! 聞いて聞いて。話は変わるんだけどさ」


 しかし先輩はにかっと笑うと、本当に唐突に話題を変えた。どうしたんだろ。先輩のほうから聞いてきたのに。


 ……もしかして私が怯えてることを察してくれた?


「実はね、昨日友達と夜なべして考えた、とある計画があるんだけど」

「えーと……」


 とか思っていたら、こっちの心情なんかお構いなしに、先輩はよくわからない話をはじめる。


 もしかしたら、その計画とやらを誰かに話したくてうずうずしていただけなのかもしれない。彼女は手に持った箱をちらりと見て、あからさまに悪い顔をした。


 どうやらこれは話を聞くまで、他の話題を振っても無視されるパターンだ。


「なんですか、その碌でもない計画って」


 嫌そうな顔をして尋ねると、先輩は「なんで碌でもないって決め付けるの?」とまたむっとした顔をした。先輩の動きに合わせて、彼女のショートの髪がふわふわと揺れる。


 ちょっと撫でてみたいかも。ふとそんなことを思った。

 そんな勇気、私にはないけれど。


 先輩は「まあ、良いだろう」と、なぜか偉そうに言うと、その計画とやらを、私に打ち明けようとした。


「実はね。このタイム──」


 その瞬間。


「あっ。やっと見付けた!」

「げ」


 私から見えない廊下の向こうで、大人の女性の声がした。この声は……おそらく生徒指導の先生かな?


「そこを動くな! 本当に、今日という今日は……!」


(ああ。やっぱり、先生だ。ほんとに追われてたんだ……)


 私は先輩と出会ってから今日まで、何度向けたかわからない呆れた視線を彼女に向けようとして。


「というわけで、この箱は任せた!」

「え!?」


 その前に彼女が、手に持っていた缶箱を私に押し付けてきた。


 なんでこのタイミングで私に、これを?


「この箱はみんなの想いが詰まった大事なもの。何があっても死守するのじゃぞ!」


 そう告げた先輩の言葉に先生の声が被さる。


「また学校の敷地に変な物埋めようとして、どうせ碌でもないものでしょ!? いい加減それを渡しなさいっ」

「やばい。追っ手が来る。じゃ!」

「え? ええ?」

「あ。良かったら、君もその中に何か入れていいからねー!」


 私が引き留めるよりも早く、先輩はそれだけ言うと全速力で逃げてしまった。


「ちょ──」


 私、この箱の中身がなんなのかも知らないのに……!


 どうしたらいいかわからず慌てた。しかし先生の脚音は容赦なくこちらに迫ってくる。


 私は咄嗟に缶箱を抱き締めて、くるっと回れ右をした。


「待ちなさいって言ったでしょ!?」


 壁のほうを向きながらじっとしていると、先生の苛立った気配が私の後ろを通り過ぎていく。


 脚音が過ぎるのを待ってから、先生と先輩が走っていった方向をちらりと確認した。私が箱を受け取ったことはバレなかったみたい?


 胸に抱いていた箱を離して、改めてまじまじと眺めた。


(というか、まんまと共犯にされてしまった……)


 いったいこれはなに? 友人と夜なべして考えた計画がどうとか、先輩は言っていたけれど。この箱がその計画とやらと関係があるのだろうか?


(いや、まあ、これでなんの関係もない箱でしたー、ってオチはないだろうし)


 固いブリキの質感を指でなぞった。ざらっとした感触に気付いて手のひらを見てみると、そこには僅かに土が付いていた。なぜ?


 金属で出来た箱は軽く、先輩の体温が残っているのか、僅かに温かい。


「って、早くここを離れないと」


 先生が戻ってくるかもしれない。適当な物陰にでも移動しよう。


 私は歩きながら、耳元に箱を近付けて振ってみた。紙と紙が擦れる軽い音が聞こえてくる。


(勝手に巻き込まれたんだし、中を見ても良いよね)


 私は柱の陰に隠れると、一応周りに誰もいないことを確認して、えいっと箱の蓋を開けた。


 先輩のことだから、どうせ碌でもない物が入っている。そう思っていたのに、中にあったのは桜色や薄黄色、水色の愛らしい封筒だった。


「これって……」


 一番上の封筒に書かれた文字を読む。


『十年後の自分へ』


 その一文で、この缶箱の正体がすぐにわかった。


 ああ。これは……タイムカプセルだ。


 先輩の、あの溌剌とした笑顔が頭に浮かぶ。


 いつも自信満々で、阿保で、はた迷惑な先輩。


 箱庭の中に閉じ込められても、蹴破って出てきそうなほど、太々しくて強かで、しなやかな先輩。


 私の気持ちなんてまったくわからないくせに、落ち込んでる時だけ、なぜだか真っ先に気が付く先輩。


 きっと先輩は友人たちと、想い出作りと称して集まりたかっただけだろう。そのためにブリキの缶箱を用意して、十年後の自分に手紙を書いた。


 先輩のことだから、うっかり先生の許可を取らず、タイムカプセルを学校の敷地内に埋めようとしたのだろう。それが見付かって、先生に追いかけられていた、と。


(まったく……)


 缶箱に土が付いていたということは、箱をそのまま地中に埋めようとしたんだろう。中に土の湿気が入っていかないように対策しないと、紙なんてすぐ劣化してしまうのに。


(それに)


 それに──十年後にまた友達同士で集まれるかもわからないのに。


 大人になったら、タイムカプセルを埋めたことなんて忘れてしまうかもしれない。……ううん。覚えていたとしても、高校時代の友人と連絡を取りあって、わざわざ学校の敷地内に埋めた想い出を掘り起こしに行こうだなんて思わないかもしれない。


(いや、でも──)


 先輩は、いちいちそんなこと、気にしないんだろうな。


 十年後、本当にタイムカプセルを掘り返すかどうかは問題じゃなくて、友人たちと今、楽しい想い出が作れたら、それで良いと。そう思っただけなのかも。


(でも、私は)


 ──そんなふうに思えない。


 先輩が本当はどう考えたかなんて、もちろん、わからないけれど。


 それでも。


 それでも、私は。


(私は、先輩がこのまま卒業してしまうのは)


 やだ、な。


(いや……そんなこと、私が思ったところで、どうしようもないんだけど……)


 時間なんて、勝手に流れていくんだし……。


 そんなの私にはどうすることも出来ないし。


 先輩はもうすぐ、ここからいなくなる。


 それだけ、だ。


(知ってる。わかってる。わかってるよ……でも)


 ──本当は、ずっとこのままでいたい。


 この見飽きた景色ばかりの学園で。閉じた世界の中で、ずっと一緒に……いたかった。


 『ごきげんよう』の挨拶と同じ。


 外の世界に飛び立てば、今のこの気持ちなんて、きっと学園生活で経験したささやかなやりとりの一つとして、記憶の彼方に埋没してしまう。


 大勢の人と接して、多くの価値観と触れ合えば、私も、先輩も、みんな変わっていく。


 私が胸の内に抱いている心は。感情は。色褪せていく。


 忘れたくない。この気持ちを。ずっと。ずっと。ずっと。


 なのに──


 私は泣きたくなるのを堪えて、手紙の文字を、指でそっと撫でた。桜色の封筒に青いインク。意外と綺麗な、あの人の字。


 この箱庭で、私たちは恋に似た感情に踊らされているだけ。


 どうせ忘れてしまうなら。


(先輩を、この中に、閉じ込めておけたらいいのに)


 そんなことをしても、先輩はこんな箱庭なんか蹴破って、自力で広い世界に飛び立つんだろうけど。


 それなら。


 それなら、ここには私の気持ちをしまっておこう。


 先輩が卒業して、私が忘れてしまう前に。


 この箱の中に、貴女への想いを。


さよならごきげんよう、先輩」


 そう呟くと、水滴が手紙の上に落ちた。


 青いインクが滲んでいく。


 箱庭の世界が滲んでいく。


 そして私はそっと、箱に蓋をした。

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箱庭の中で私たちは踊る。 日向満月 @vividvivid

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