面食らいながらも、おずおずと白い空間に足を踏み入れる。スリッパの裏がにちゃっと床に張り付き、ぎょっとした。なんだか沈み込むような弾力がある。

 鳥肌が立つような感覚をこらえ、ドアを閉めた。にちゃにちゃと不快な足音を響かせながら部屋の中に入ってゆく。作業着の男は「そこでいったんお待ちください」と言っていた。きっとこの部屋から別の仕事場に移るのだろう。

 一体、何をさせられるのか。落ち着かない気持ちで立ち尽くした。

 しばらく待ったが、誰も呼びに来ることはなかった。

 退屈しのぎに壁を見つめた。真っ白な壁の一点をじっと見続けていると、やがて眼前にノイズのようなものが現れる。まばたきをすると消える、そんな手すさびを繰り返していたが、すぐに飽きてしまった。

 立っているのも疲れてきたので座り込みたかったが、このにちゃにちゃした床に尻をつける気には到底なれない。

 それにしても――この部屋に入ってからどれくらい経っただろうか。まだ数分のような気もしていたが、よくわからなくなっていた。何もないのっぺりとした空間にいると、時間感覚さえ麻痺してくる。

 どれだけ待たされるのか。まさか、忘れられてはいないだろうな。

(もしや、意図的に部屋に留められている……?)

 実は何らかの人体実験に被験者として参加させられている――そんな可能性はないだろうか。実験結果にバイアスがかかるのを防ぐために意図的虚偽ディセプションという方法をとることがあると聞いたことがあった。そう、伝えられていた仕事内容はぜんぶ嘘っぱちで――。

(――なんてな)

 深く溜め息を吐いた。そんなありえない妄想をしてしまうほどに、待ちくたびれていた。

 今、何時だろう。俺は腕時計に目をやり、ぎくりとした。

 針がとまっていたのだ。

(壊れた? どうして今……)

 やはりこの巨大な箱のような部屋は人体実験装置で、この腕時計が壊れたのは、その副次的な影響――例えば何か電磁波のようなものが出ているとか――なのでは。

 であればスマートフォンや装飾品を預けるよう言われたのも合点がいく。

 急速に膨らんでくる不信感に、心がざわついた。むしろ、そうとしか思えなくなってくる。だって時計が急に動かなくなるだなんて、普通ありえないではないか。しかもこんな奇妙な部屋に入った途端に。

 俺は生唾を飲み込むと、警戒もあらわにあたりを見回した。だが、監視カメラらしきものは見当たらず、覗き小窓もなかった。

 そこでふと違和感に気づいた。この部屋、電灯がないのだ。つまり、箱を閉めたような状態なのである。暗闇になっていなければおかしいはずなのに、四方から照明をあてられているかのように室内は明るかった。

 どうなっているんだ。言い知れぬ不安が込み上げてきた。

(……出よう。とても耐えられそうにない)

 あの飄々とした係員に体調が悪くなった等、適当に理由をでっちあげて家に帰るのだ。

 一度そう思ってしまうと、一刻も早くここから出て行きたくてたまらなくなった。

 焦燥にかられながら振り向き――思わずぽかんとしてしまった。

 ドアがなかったのだ。

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