第11話 道楽者の幼馴染①

 マーヴィン・ジラー伯爵の邸宅でパーティが開催されたのは、七月のある夜のことだった。

 ジラー伯爵の邸はバルドア区の一等地に建ち、近隣の住宅と比較すると豪奢な外観が目立つ。それでいながら下品な印象は与えず、建築家が持つ技術の粋が惜しみなく注ぎ込まれた造りとなっていた。

 かつては伯爵とその妻、四人の子供が住んでいたが、夫人は数年前に病でこの世を去り、子供たちも皆独り立ちした今、邸に住んでいるのは伯爵と使用人たちだけである。


 その邸は今、大勢の人間で賑わっていた。 


「うわあ、大物貴族の奥方や大企業の社長夫人が多いわね。流石化粧品会社の社長が主催するだけあるわ」


 マオ・ユーライデスは、グラスを片手に周囲を見回し感嘆した。隣にはリン・クレファーが立ち、同じように参加者の顔ぶれを眺めている。

 リンは白いレースのドレスに、マオは薄い緑のドレスに身を包んでいた。


「今日は新製品のお披露目を兼ねたパーティですからね。良い宣伝役になってくれると見込んでのことでしょう」

「アンタのところは特にはそうね。宣伝効果は抜群でしょう」


 二人の視線の先では、リンの母親にして帝国が誇る大女優アレッシア・ミュリーが複数の婦人に囲まれて歓談している。

 年齢は既に四十を超えているというのに、アレッシアは未だ二十代で通じるような外見だ。そして、リンにも受け継がれた美貌もまた衰える様子を見せていない。


「うーん、同じ女性として敗北感を覚えることすら烏滸がましいくらいの美人ね。アンタの母親なだけあるわ」

「家に帰ればただの過保護な親なんですけどね」


 リンの脳裏に、パール公園での死闘の後、アレッシアの抱擁から逃れるのに苦労した記憶が思い起こされた。あの事件から精々二ヶ月程度しか経っていないというのに、とても長い時間を過ごしたようだとリンは考える。

 そして、その濃密な時間を形成する中核ともいうべき人物が、彼女の前に現れた。


「やあリン、こんばんは」


 レイキシリス・ブラウエルは、普段通りの笑顔をリンへと向け声をかけた。道楽者と揶揄される男の呑気そうな笑みは、リンにとっては攻撃的に見えた。青みがかった灰色のスーツを着こなし、知性に溢れた瞳でリンを見据えるその姿は、アルトネリア帝国の歴史を築いてきたブラウエル侯爵家の血が流れている気高さを意識させた。


「こんばんは、レイクさん。お父様とご一緒だったんですか?」


 リンは高鳴る心臓の鼓動を悟られないよう、表情を取り繕った。


「うん、ちょうどそこでガーランド殿と逢ったから軽く世間話をね」

「いや、どうしてなかなか有意義な話だった。水属性の魔術への造詣が深いのは知っていたが、まさか今回お披露目される香水の開発にも携わっていたとは」

「開発に携わっていたわけではありませんよ。ジラー伯爵は水属性の魔術の使い手を探していて、昔アランデル道場を訪ねたことがあったんです。その際に知り合って、今回も少しばかり助言しただけです」


 ガーランド・クレファー伯爵は、この二ヶ月ですっかりレイクに信頼を置くようになっていた。ガーランドが自らの目で確かめたところ、レイクは血筋、教養、人格、人脈と加点すべき要素が凡そ揃っていた。何故、これほどの人材が今まで日の目を見なかったのか不思議なくらいだった。彼は最終的に娘を任せられる男は、レイクを置いて他にはいないと結論づけた。彼を逃してしまえば、この先リンを制御できる男が現れることは決してないだろうと。


「水属性は基本四属性の中でも特に応用の幅が広いですからね。魔導産業でも必須と言っていいほど重要です」

「だから、魔術師の育成において水属性は特に重点的に教えるんだよね。それでいて難易度が高く、習熟には時間がかかるから奥が深い」


 リンの説明に、レイクが補足した。


 産業界にとって綺麗な水は必要不可欠な存在である。それ故に、水属性の適性を持つ魔術師はどこにいっても重宝される。職人としても、研究者としても、水を操る能力が不要とされることはない。

 化粧品会社の代表であり研究者でもあるジラー伯爵は、新製品の開発に向けて水の魔術を扱える人間を広く募った。その過程で彼は水蓮流を知り、餅は餅屋とばかりにレスター・アランデルに有望な魔術師を紹介してもらえるよう頼み込んだ。そこでアランデルが紹介したのが、当時まだ中等学校に通っており、さらには既に道場を去っていたレイクであった。


「おっと、噂をすれば……始まるよ」


 レイクの言葉に応じるように、皆の視線が壇上へと向いた。


 マーヴィン・ジラー伯爵が壇上中央に立つところだった。


「皆様、ようこそお越しくださいました」


 風属性の魔術を応用した音響装置により、伯爵の声が会場全体へと行き渡る。演説に慣れた人間の話し方だった。


「当家は旧来より医薬品と化粧品産業を手掛けてきました。私の父も祖父も曾祖父も薬の研究に生涯を費やしてきました。私もそうです。ご存じの通り私は二十代で《クイーンビー》を設立し、独自の化粧品ブランドを確立させることに成功しました。“あなただけの香りを提供します”という宣伝文句で知られていますね。この国で化粧品を語らせれば右に出る者はいないでしょう。そして、魔導機関時代の到来とともに化粧品業界にも新たな波が生まれ、我々は新たな分野を開拓しました。それが魔導製品です」


 ジラー伯爵の視線がガーランドへと向けられる。その口元に一瞬微笑みが浮かんだ。


「物に魔力を込め様々な効果を生じさせる技術は古くから研究が進められてきましたが、その道程は苦難の数々でした。しかし、魔導機関の誕生によってそれが大きく変わりました。新たに発明された魔導製品の中で特に暮らしを変えたのが、魔導器具と呼ばれる装置の一種です。魔導器具は魔力を込める精密な作業を人間に代わって行い、安価かつ大量に魔力を封じ込めた商品を生産することを可能としました」

「まさに歴史を変えた発明だ」


 レイクが力強く頷いた。周囲の客たちの様子からも、伯爵の言葉に賛同しているのが窺えた。


「《クイーンビー》もまたその波に乗り、新たな時代に相応しい商品の開発に取り組みました。そうして生まれたのが今宵皆様に紹介する香水――七幻香しちげんこうです」


 その言葉とともに、会場脇の扉が開き数名の使用人がそれぞれワゴンを押して入場する。ワゴンの上には透明な小瓶が並んで置かれ、瓶の中の透明な液体がたぷたぷと揺れていた。客たちは不思議そうな表情で小瓶を見つめた。


「七幻香には特殊な魔力が封入されています。これは外部から別の魔力を注ぎ込むと反応を起こし、香りを放出する作用を持ちます。ですが、魔力の性質は人によって差異があります。異なる人間が異なる七幻香に魔力を注げば香りはどうなるのか? 答えは、まったく違う香りになる。即ち、七幻香とは人によって香りが変わる千差万別の香水。文字通り“あなただけの香り”をお届けできるのです」


 会場内に驚愕と興奮が入り混じったどよめきが走った。その反応が想定していた通りのものだったのか、ジラー伯爵は満足そうに口髭を撫でた。


「百聞は一見に如かず。実際に使ってみるとしましょう。アンネ、リリー」


 ワゴンを運んできたメイドのアンネとリリーの二人が、それぞれ小瓶を一つ手に取った。二人は客たちが良く見えるように小瓶を掲げると、その手に魔力を纏わせる。するとどうだろうか、小瓶の中の液体が徐々に色付いていく。アンネのものは薄い黄色へと変わり、リリーのものはやや濃い目の緑へ変わった。

 二人は自らの身体へと香水をかける。噴出された水の粒は、魔力を帯びたまま照明を浴びて煌めいていた。それらを浴びた二人のメイドの身体が、最初に纏っていたのとは異なる魔力に覆われだした。それと同時に、近くにいた客たちが声を上げた。


「これは……」


 彼らが戸惑うのも無理はなかった。彼らの鼻腔をくすぐる香りは、過去に経験したことがない未知のものだった。アンネから漂うのは果物のような甘い香りであるが、妙に脳が蕩けるような心地よい気分に見舞われる。リリーの方は軽く鼻につんとくるが、不快感は一切なく、頭の中が冷えて思考が冴えわたる感覚だった。


 付近にいた客が自分も嗅いでみたいと近づき、同じような反応を見せる。それを眺めながらジラー伯爵の表情は満足気だった。


「今回ご用意したのはこのパーティのために誂えた品です。あまり強い香りを出さず、立食の邪魔にはなりません。どうぞお気軽にお試しください。あなたの魔力で、あなただけの調香を実現できますよ」


 使用人たちが会場の各所へワゴンを押していく。客の中でも若い女性たちが期待を抑えきれぬような足取りで寄っていく。

 レイクたちの近くにも一台のワゴンが到着した。若い執事のウィルズが女性客たちへ微笑みかけ、丁寧にさばきつつ小瓶を手渡していった。


 マオが一つの小瓶を受け取り、しげしげと中の液体を観察する。


「これって一度魔力を注いだら香りは固定されるのかしら?」

「いいえ、新しく魔力を注げば上書きされますよ。上書きされるまでは香りは固定されたままです。同じ人が魔力を込めても、魔力の量や練り具合で香りが変化しますよ」


 ウィルズが質問に答えた。


 周囲には七幻香の効果が早速表れだしていた。複数の香りに囲まれ、令嬢や婦人が新たな香りを生み出している。その度に、香りが混じり合い、会場内へと広がっていった。


「いろいろな香りが漂ってますね。混ざっているのに不快感が全然ありません」

「化学的な香りじゃないからだろうね。厳密に言えば魔術に近い」


 レイクは冷静に分析した。七幻香が放つ匂いは、嗅覚という肉体の機能で知覚するものではなく、魔力を感知する脳の奥深くに直接作用するものだと、彼は判断した。


「七幻香が触媒になって香りを発する魔術が発動しているってこと?」

「大体そんな感じかな。七幻香と混ざって魔力自体も変質してるんだと思う」


 リンはレイクの解説を隣で聴きながら、じっと七幻香に魔力を注ぐ。香水は濃い青色へと変化した。

 早速香水を吹きかけると、爽やかな香りがリンの艶やかさを際立たせた。


「どうでしょう?」

「いいわね、すっきりする香り。アンタのイメージにぴったり」


 マオは親友の印象に合う調合を褒めた。

 しかし、レイクは納得のいかない顔だった。考え込む仕草をとりながらリンを見つめている。リンは恥ずかしくなって顔を背けた。


「ちょっと貸して」


 レイクはリンの持っていた香水を持つと、自分の魔力を注いだ。濃い青だった香水は、やや暗みを帯びた青になる。


「よし、上出来だ。イメージは“暗い夜の海”ってとこかな。これを使ってみて」


 レイクの言葉に、リンは思わず心臓が跳ね上がる気がした。“暗い夜の海”という言葉は、パール公園でクリフ・ダールと戦っていた時にレイクが現れた際、リンが彼を見て抱いた印象と同じだった。


 リンは顔を紅くしながら、レイクから香水を受け取った。

 そして、再び自分へ吹きかけ、彼が自分のために作った香りを堪能した。


「……良いですね。気に入りました」


 一連の様子を観ていたガーランドとマオは、リンの心情を推し量った。そして、ここで口を挟むのは野暮であると判断した。

 二人が選択したのは沈黙だった。


「おやおや、“道楽レイク”が女性を侍らしてるぞ」


 場の空気を壊す声が聞こえ、一同は声のする方向を見た。


 ニルス・バドックが、軽く手を挙げて歩いてくるところだった。マオが苦い顔をしたのを、リンは視界の端に捉えた。


 バドック子爵家の次男であるニルスは、社交界において色男として名を馳せている。柔らかな金髪と茶色の瞳で若い女性を魅了し、言葉巧みに骨抜きにするやり口は、彼を知る人間の間ではよく知られていた。また、女性の好みにもうるさく、程々に気の強い女性を特に好み、屈服させる趣味があった。そして、リン・クレファーは彼の好みに収まらないため、標的にすることは一度もなかった。

 しかし、そのリンが他の男と――それも道楽者と呼ばれるレイキシリス・ブラウエルと仲睦まじくしている場面に、ちょっかいを出すことには愉しみを見出していた。


「しかも相手はリン・クレファーときたか! なんだ、お前の好みだったのか?」


 視界にリンの父親たるガーランドの姿が映っているにも関わらず、ニルスは絡んでくる。片方の手にはグラスがあった。


「酔うには早いよニルス。まだ始まって間もないんだ」


 レイクは溜息を吐いて窘めるが、ニルスは意に介さなかった。


「マオ、こんな奴といるより俺と一緒に呑まないか? 面白い話を仕入れたんだ。退屈はさせないぜ」


 ニルスは白い手袋に覆われた手を、マオの肩に乗せる。

 その手は鼻を鳴らすような声とともに、あっさりと払われた。


「生憎だけど御免被るわ。女なら誰彼構わず声をかけるような男は趣味じゃないの」

「つれないな。俺より道楽者の方が良いのか?」

「その辺にしておけ。色男を名乗るなら、和やかな場で面倒事を起こすな」


 レイクはマオを庇うように、彼女の前に出た。

 ニルスはむっとして睨みつけた。

 二人の間に険悪な空気が流れる。


 だが、そこへ投げかけられた女性の声が一瞬にしてその空気を霧散させた。


「相変わらず女性には紳士的だね。是非私もエスコートしてもらいたいな」


 レイクがはっとした様子で声の主を見た。

 長く艶やかな黒髪をたなびかせた背の高い女が、レイクに微笑む。その笑みは妖艶さを放ち、強烈な存在感をその場にいる全員に浴びせてきた。

 彼女が着ている濃紺のドレスは豊満な体型を際立て、目にすれば思わず惹かれてしまうようだった。


「フラシア、君も来てたのか」

「随分素っ気ないね。仮にも幼馴染に対する反応かい?」


 幼馴染という単語を耳にして、リンの瞼が動いた。

 しかし、それよりもレイクが口にした名がリンの関心を惹いた。


「……フラシア? もしやフラシア・ティンメル?」


 リンが呟くと、現れた女は笑みをリンへ向けた。


「ああ、自己紹介がまだだったね。私の名はフラシア・ティンメル。ティンメル公爵家の当主・・を務めている。よろしく」


 フラシア・ティンメルの名に、マオが目を見開いた。既に面識があったガーランドは、軽く挨拶した。

 そして、リンはティンメル公爵の名に反射的に警戒心を覚えた。


(フラシア・ティンメル……彼女があの・・


 一方、突然現れたフラシアにニルスはあからさまに動揺した。


「こ、これはティンメル公爵。御無沙汰しております」

「ああ、そんなに固くならないでくれ。今夜は親しい友人知人と語り合いたい気分なんだ。同年代から距離を置かれるのは寂しいからね」

「そうですか。ああ、そうだ。他に挨拶しないといけない人がいるのを忘れていました。では、私はこれで」


 ニルスはさっさと話しを切り上げると、蒼い顔でそそくさと離れていった。その背中を見送り、フラシアは嘲笑した。


「まったく肝の小さい男だ」

「君に睨まれたら誰でもああなると思うけど」

「脅したつもりはないがね。まあ、勝手に思い込みたいなら好きにすればいい。君も私のことをそう思っているのかい?」

「……冗談はよせ」


 悪くないという態度のフラシアに、レイクは顔を顰めた。皆が彼女にどう接するべきか迷っている中、リンは一歩前に踏み出してレイクに訊ねた。


「……あの、レイクさんはティンメル公爵と――」

「フラシアでいいよ」

「失礼、フラシアさんと幼馴染というのは本当ですか?」

「うん、そういえば言ったことはなかったね。俺とフラシアは幼稚舎から高等学校までずっと一緒だったんだ。ティンメル公爵家の邸もオーリン区の北部にあって、ブラウエル侯爵家もそれなりに付き合いがあったんだ」


 フラシアはリンの顔を真正面から見た。黒い瞳がまるで心の内を見透かすように、リンの姿を捉える。


「少し見ない間に新しい友達ができたようだね。それもあの・・クレファー伯爵令嬢とは驚きだ」

「ちょっと縁があってね。最近は俺の仕事を手伝ってもらっているよ」

「ああ、君のフィールドワークか。帝都一の女傑と謳われる彼女を連れて遊び歩けるなんて、さぞ楽しいことだろうね」


 ふふ、とフラシアが笑う。リンは無意識にフラシアが醸し出す空気に呑まれそうになった。

 彼女の妖艶さはリンとは異なる方向性で、極限の美を表していた。リンの美が静かで透明感のあるものと例えるなら、フラシアの美は攻撃的で人の心を不安にさせるものだった。


「レイクは道楽者なんて小馬鹿にされているけど私の大切な幼馴染だ。これからも仲良くしてやってほしい」

「ええ、言われずとも」

「それじゃあ私はジラー伯爵に挨拶してくるよ。また後で」

「ああ」


 フラシアは手をひらひらと振りながら、ジラー伯爵のいる場所へと去っていった。その足取りは、確かな自信に溢れているように見えた。


 マオが緊張を解いて、息を吐いた。


「意外ねえ。アンタ顔が広いとは知ってたけど“破滅の魔女”とも仲良かったのね。それも幼馴染なんて」


 レイクの瞳に僅かな憂いが見えた。彼は何か言いたそうに口を開いたが、すぐに閉じてしまった。リンはそんなレイクの様子を目にするのは初めてだった。


(“破滅の魔女”――)


 リンはフラシアの異名を頭の中で反芻する。彼女が知る限り、ティンメル公爵ほど帝都で怖れられている人間はいなかった。その悪名は“暴れ馬”より轟き、誰もが彼女を帝都の闇の象徴として語った。


 『ティンメル公爵家の醜聞』――フラシア・ティンメルの名を知らしめたその事件は、今なお人々の記憶に新しい。


「有名な女性が多く招待されてるとは思ったけど、まさかフラシア・ティンメルもいたとはねえ。そりゃ名の知れた女公爵だし招待されても不思議じゃないけど」

「有名な女性といえばアデレイド・シアソンもいるね。ほら、あそこで他家の御令嬢方に囲まれてる」


 レイクが示した先には、シアソン侯爵の三女アデレイド・シアソンの姿があった。アデレイドは複数の令嬢に囲まれて、七幻香の効果を試していた。


「アデレイド様、こちらの香りは如何でしょう?」

「あら、アデレイド様にはこちらの方がよろしいのでは? 高貴さを表していてぴったりですわ」

「ふふ、どれにしようか迷ってしまうわ」


 アデレイドは取り巻きの令嬢たちに愛想を振った。彼女の顔には、実家の社会的地位に裏付けされた強者特有の高慢さが滲み出ていた。彼女が黒髪をかき上げる仕草は、そんな印象を強調しているように見えた。


「あっちもあっちで性格悪いことで有名よね。他人の粗探ししてマウント取りたがるし、自己中心的だし。リンの悪い噂流してた一人なのよ」

「シアソン侯爵は第二皇子の派閥で、第一皇子派と第三皇子派双方に繋がりのあるクレファー伯爵家は警戒対象だ。アデレイドにとっても帝室に近いリンは自分が目立つのに邪魔なんだろうな」

「それにシアソン侯爵って魔導機関を馬鹿にしていた頭の古い貴族なのよね。魔導機関なんて金がかかるし割に合わないから普及しないって。でも、魔導結晶の採掘手法が発見されて一気に広まって、シアソン侯爵が馬鹿にされる羽目になったの。後から参入しようとしたけど、主要な鉱山はみんな第一皇子派と第三皇子派の貴族に取られていて、分け前に与れなかったのね。それでクレファー伯爵家を妬んでいるのよ」


 ガーランドが溜息を吐いた。


「最近は焦っているのか手当たり次第に事業を拡張していると聞くな」

「アデレイド嬢も人脈を広げようと、あちこちに顔を出しているわ。お金もかかるのに、いろいろ着飾って。確か変成魔術を使った美容整形にも手を出したそうよ」

「ああ、前に見た時より目元と鼻が変わって見えたのはそのせいか」


 リンは満悦しているアデレイドを見やって、無関心そうに言った。


「権力闘争に関わる気は父共々ありません。勝手にすればいいでしょう」


 リンのシアソン侯爵家に対する印象は、良くも悪くもフラットだ。囀る程度であれば、とやかく言うつもりはない。しかし、何か手出ししてこようものなら受けて立つと決めていた。言うなれば、歯牙にもかけていない。


「ま、つまらない話は止めよう。折角のパーティなんだから楽しもうよ」

「そうですね」




 開会の挨拶直後には七幻香への興味から会場のそこかしこが賑わっていたが、時間が経つと徐々に熱気も冷め、客たちは談笑へ興じるようになっていた。

 ガーランドは妻の元へ行き、親交のある貴族や実業家たちと最近の景気や財界の動向について語り合っている。レイクは他に参加している知人たちを探しに出向いていた。


 リンは二階のバルコニーに出て、奥に広がる夜の帝都を眺めていた。


「どうしたの、ぼーっとして」

「ああ……少し考え事を」


 背後から聞こえたマオの声に、リンは少し間を置いて振り向いた。


「なんか憂鬱って感じ?」

「ティンメル公爵――フラシアさんのことを考えていました」

「あの人がどうかしたの?」


 マオは居心地が悪そうに身体を揺すった。

 親友がフラシア・ティンメルの話題を出したことに、警戒の色が浮かんだ。


「彼女が“破滅の魔女”と呼ばれるに至った原因は知っていますよね?」

「そりゃ一時期大騒ぎだったでしょ。ブラウエル侯爵家と同じく帝国黎明期から国を支えてきた『ティンメル公爵家の醜聞』は連日報道されてたもの。アンタの話じゃ帝室も大騒ぎだったんでしょ?」


 リンは頷いた。

 ティンメル公爵家は代々武器商人として財を築いた名家であり、政治、経済への影響力はとてつもなく大きい。

 少数民族に魔獣、敵性国家とアルトネリア帝国は長らく内憂外患に悩まされ続け、安定した平穏が維持できるようになったのはここ五十年ほどの間だ。その間、軍事面においてティンメル公爵家は多大な貢献をしてきた事実は誰もが知る。故に、公爵家は帝国の舵取りに対して圧倒的な発言力を誇る。皇帝であっても蔑ろにすることは許されず、公爵家を味方につけられるかどうかで趨勢が決まるとまで云われていた。敵に回せば単なる敗北では済まされない。過去には、ティンメル公爵の一声があっただけで一夜にして百人が首を吊ったという話もあったというが、真偽は定かではない。


 帝国不可侵の領域、それがティンメル公爵家であった。

 だが、その考えがあまりにも呆気ない形で覆されたのが『ティンメル公爵家の醜聞』だった。


「先代ティンメル公爵が主導した違法な魔導兵器の製造と外国への密輸、その製造施設で起きた死亡事故の隠蔽。この事実が皇帝陛下や帝都警察へ密告され、すぐさま捜査が開始されました。結果は真っ黒。先代公爵は警察の手から逃れるため、小型の魔導飛行船で海外へ逃亡を図ろうとしましたが、飛行船が海上に墜落して死亡。公爵が死んだことで兵器密造に関わった会社は頭を失った状態になり、為すすべなく壊滅しました」

「あれは帝国史上最大級の出来事よね。しばらく経済も混乱してたし、煽りを食らった人も多かったわ」

「先代公爵の死後、残った家族にも捜査の手が及びました。公爵夫人は実家の権力を使って関係者の口止めを図ろうとしたことが発覚して逮捕。次に、兵器の開発に携わっていた次男も逮捕されました。長女は陸路で南部へ逃亡を図り、追跡を逃れようとして魔獣の生息域に侵入したため魔獣に襲われ死亡。最後に残った長男は逃げ場がないことを悟り、公爵邸の自室で毒を呷って命を絶ちました」


 思い返すだけで顔を顰めたくなるような有様だと、リンは思った。栄華を極めたティンメル公爵家は隠された罪を白日の下に晒されたことで、凋落の一途を辿った。


「こうして公爵家の人間は消えました。当時十五歳だった末娘のフラシアさんただ一人を除いて」


 リンは一旦話を切り、目を細めた。


「フラシアさんは先代の公爵と愛人との間に生まれた子で、本来公爵家の継承権を持ちませんでした。貴族の非嫡出子は家を継ぐことができないと貴族法で定められていますからね。しかし、皇帝陛下は公爵位の剥奪をせず、フラシアさんが公爵家を継ぐことを認めました。理由としては、公爵家の断絶による混乱を防ぐための超法規的措置とされています。公爵家が潰れると影響が大きすぎますからね」

「でも、違法な魔導兵器の製造と隠匿、密輸はどう考えても反乱の準備と見做されるわ。それで爵位剥奪にならないとか温情にも程がない?」


 リンもマオと同意見だった。

 ティンメル公爵家が製造していた魔導兵器は人道的観点から製造、所持及び使用が固く禁じられている代物であり、禁忌の中の禁忌ともいうべき存在だった。

 そのうえ、兵器の密輸先はアルトネリア帝国と外交関係が悪化しているエラリス共和国だった。エラリス共和国は帝国本土から東へ海を渡った先に位置する大国であり、国境を接する他の国々との戦争が絶えないことで知られる。帝国はエラリスへの武器等軍用品の販売を禁止しており、破れば厳罰に処される。

 これだけの罪状が揃った状態で爵位剥奪を逃れる道などあり得ないと、誰もが思っていた。しかし、皇帝エリシャ・レヴィノスは公爵家存続の方針を表明した。

 当然貴族たちからは反対意見が出た。たとえティンメル公爵家が消滅することで不利益を被るとしても、帝国貴族の誇りを汚した公爵家を赦すわけにはいかないと。


「しかし、そこで待ったをかけたのがブラウエル侯爵とアルケイン侯爵、それにゼルフィア公爵でした。具体的な経緯は分かりませんが、彼らは反対する貴族たちを説得して公爵家存続とフラシアさんの継承を認めさせたそうです。彼女は年齢的にも立場的にも公爵家の犯罪に関与していないのは明らかでした。加えて、彼女は博識で頭の回転も良く、公爵家を立て直すだけの才覚も持っていた。これらの理由により陛下はフラシアさんの公爵家継承を認めたというのが一般的な見解となっています。こうしてフラシア・ティンメル公爵が誕生したわけですが――」


 リンは渋い表情を作った。


「彼女が公爵となってから不審な事件が相次ぐようになりました」

「フラシア・ティンメルに関わった人間が次々に死を遂げたり行方不明になったって話ね」


 最初の事件は、フラシアが家督を継承してから半年後に起きた。フラシアと同い年のある貴族の令嬢が、突然自ら命を絶ったのだ。その令嬢はフラシアを“公爵家を乗っ取った卑しい娘”と陰口を叩いていた。

 次に、公爵家の周辺を嗅ぎ回っていた新聞記者が殺害された。彼はフラシアをつけ回し、彼女もまた先代公爵らの犯罪に関与していたという与太話を記事にしていた。

 さらに、公爵家に勤めていたメイドが一人行方不明になった。彼女は友人や知人に対し、このままではフラシアに殺されると漏らし、酷く怯えていたという。


 それ以外にも、フラシアの知人や公爵家に関わる人間に、奇妙な死を遂げる者が相次いだ。その全員に共通していたのは、フラシアと何かしらのトラブルを抱えていたということ。彼女の不興を買った人間に、誰一人として無事に済んだ人間はいない。


 やがて、人々は彼女を“破滅の魔女”と呼ぶようになった。


「今ではフラシアが自分にとって邪魔な人間を闇に葬ってるって専らの噂よ。『ティンメル公爵家の醜聞』も彼女が裏で糸を引いていたんじゃないかとも云われてる」


 実際『ティンメル公爵家の醜聞』を巡る騒動には、腑に落ちない点が多かった。

 公爵位を剥奪しなかったこと、公爵家の親類ではなく本来継承権のないフラシアに家督継承を認めたこと、公爵家存続に反対していた貴族たちをどうやって説得したのか。

 さらに、フラシアに付き纏う新たな噂について、エリシャ帝は何ら行動を起こしていない。ティンメル公爵家へは不審と警戒が寄せられ、その動向は監視されている。当然フラシアの周囲で起きている死も掴んでいるはずだ。しかし、フラシアが追及されたという話は一切聞かない。

 リンはこれらについてソルとも話し合い、ソルは母エリシャに直接問い質した。その時返ってきた回答は“詮索無用”の一言だった。


 それ以来、リンの中にフラシア・ティンメルへの疑念がこびりついたままだ。


「先程のフラシアさんのどこか嘲るような、見下しているような態度が気になっていて……この噂を思い出してしまったんです」

「まあ……私も初めて会ったけど、噂が本当でも不思議じゃないとは思ったわ。幼馴染だっていうレイクも珍しく厳しいような態度だったし」


 マオがそう言うと、リンの顔に影が差した。


(確かにレイクさんの様子もどこか暗いように見えました。やはり何か確執でもあるのでしょうか?)


 そこまで考えて、リンは己の思考に違和感を覚えた。確かな証拠もなく人を悪し様に語るなどあってはならない。だが、今の自分はどうだろうか。他者への悪意を饒舌に語っているではないか。

 リンははっとして、頭を振った。


(いけませんね。私らしくない)


 それから間もなく、リンとマオは邸の中へと戻った。

 一階へ下りると、若い執事とメイドが話している姿が見えた。


「ねえ、ウィルズを見てない? 料理とお酒の追加があるから手伝ってほしいんだけど」

「ウィルズは……またサボりか。さてはまたどこかで一服やってるな」

「もう! 仕事中は煙草吸わないでって言ったのに! 七幻香のサンプル貰ってから匂い消しに使ってるのよ!」

「ウィルズは俺の方で探しとくよ。アンネとリリーは見てないか? さっきのお披露目の後から見えないんだ」

「確か今は休憩に入ってるんじゃなかった? もうすぐ終わると思うわ」


 執事とメイドが廊下へ消えていくのを見届けたリンは、別の場所で騒いでいる令嬢たちに気づいた。


「アデレイド様はどこに行かれたの?」

「会場内にはいませんわ。恐らく外だと思われます」

「夜風に当たっているのかしら?」


 令嬢たちは先程アデレイド・シアソンと一緒にいた者たちだった。リンは彼女たちの言葉でアデレイドが会場内にいないことに気づいた。レイクとガーランドもまだ戻っていなかった。

 そんなことを考えていると、今まで婦人方と談笑していた母親のアレッシアがやって来た。


「リンちゃん楽しんでる~?」


 大女優はリンと同じ銀髪と美貌を見せつけつつ、のんびりとした口調で訊ねてきた。


「お母様、公の場で“リンちゃん”は止めてください」

「え~」


 恥ずかしさを悶えそうになるのを抑えて、リンは母親を小声で叱った。


「ほら、しっかりしてください。そんなに気の抜けた顔を人様に見せる気ですか」

「いいでしょ~、今は皆見てないし。家族で語り合ってる間に割り込む人もいないわよ~」

「マオがいますが」

「マオちゃんは仲良くしてるから別よ~」


 リンは呆れて溜息を吐いた。


「こんなにふわふわした人が舞台に立つと観客を魅了する名演技を見せるなんて信じられますか?」


 マオはその問いには答えず、曖昧な笑みを返すだけだった。


「おや、お母様の七幻香も良い香りですね。蜂蜜のようです」

「さっきガーランドさんが調香してくれたのよ~。素敵でしょ~」


 アレッシアは真剣な表情で調香していた夫の顔を思い出し、にこにこと笑った。甘く柔らかな香りが、緩んだ顔のアレッシアに合っていた。


「本当にどんな匂いにでもなるのね。でも、これってレイクの話じゃ魔術で匂いを出してるようなものなんでしょ。普通に洗って落ちるのかしら?」

「魔力はただの水洗いでは落ちないと思いますよ。水属性の魔術なら落とせるでしょう。普通の汚れを落とすには洗剤を使う必要がありますが」

「水の魔術だけじゃ洗濯は難しいのよね~。魔力でぱぱっと汚れが落とせたらいいのに~」


 その時、ニルス・バドックが会場へ戻ってきた。足取りが早く、リンの前を急ぐように通り過ぎていった。フラシアから逃げた時よりも顔色が悪く、妙に落ち着かない様子だった。彼は壁に背中を預けると、そわそわして辺りを見回す。まるで視線を気にしているようだった。


「……あら?」


 アレッシアが窓の外を見て、声を上げた。


「あの辺り妙に明るいわね~。ライトアップされてるのかしら~?」


 窓の外を見ると、敷地内の東側が明々としているのが見えた。建物に阻まれて光源は見えないが、光は橙色に輝き、夜の闇に邸の輪郭を映し出している。

 リンはその光景に不審を抱いた。照明にしては妙に明るすぎ、また不自然に明滅しているように見えた。その疑問は建物の上方に立ち上がる黒煙を見たことで解消された。


「待って、煙出てない?」


 マオがぎょっとして叫んだ。彼女の言葉を聴いた客たちが一斉に騒ぎ出す。


「お、おい! あれ火事じゃないか?」

「え、どこ? どこで燃えているの?」

「庭園の方だ!」

「まずいぞ! 避難しなくていいのか?」


 困惑と恐怖の声が広まる中、血相を変えた使用人たちがどたばたと外で出ていく。リンは無意識に駆けだしていた。


「あ、ちょっとリン!」


 マオが制止しようとする声も無視して、リンは火元と思わしき場所へ向かっていく。その途中で同じように火元へ向かおうとする使用人や数人の客と合流した。

 ジラー伯爵邸の敷地内の東一帯はすべて庭園となっている。庭園へ繋がる大きな扉は開け放たれており、庭園には人だかりができていた。リンはその面々の中にレイクの姿を見つけた。


「レイクさん!」

「ああ、リンも来たのか。もう火は消したから安心していいよ」


 レイクが顎で示した先には、使用人たちが黒く焼けた生垣の一角の傍に立っていた。水の魔術を使って火を消したのだろう。足元には大量の水溜りができ、彼らのズボンや靴が塗れていた。


「ただ――別の厄介事が起きたけどね」


 レイクの声は硬かった。彼の視線は庭園へ続く大扉から真っすぐ進んだ先の四阿あずまやへ向けられていた。

 リンは四阿の中に倒れている誰かの身体を目にした。四阿の中で輝いている照明が、倒れている人物の青いドレスと、赤黒く滲んだ箇所を照らしている。その身体を抱えている男性客が声をかけているが反応はない。

 女性が倒れている場所の反対側でも、二人の使用人が足元へ向かって声をかけている。位置的に見えないが、そこにも誰かが倒れていることは容易に推測できた。


「倒れているのはアデレイド・シアソンと執事だ。ほら、俺たちに七幻香を運んできたあの若い執事がいただろう?」

「ああ、あの……」

「二人とも血を流している。アデレイド嬢はまだ息があるが意識はない。執事の方はもう駄目だ」


 彼の言葉から察するに、既に二人に駆け寄り状態を確認したのだろうとリンは考えた。レイクの表情は探偵として活動する時のそれに変わっていた。


 遅れて駆けつけてきたアデレイドの友人の令嬢たちが、四阿へと脇目も振らずに走っていった。


「アデレイド様、しっかりしてください!」

「血が……血が……」

「だ、誰かお医者様を!」

「落ち着け、まだ息はある。それに出血はもう止まってるみたいだ」


 動揺する令嬢たちをレイクが強い口調で制した。普段のレイクを知る令嬢が今まで見せたこともない道楽者の凄味に若干怯えた。


「とにかく、すぐに警察と消防に連絡を――」


 レイクがそう言おうとした時だった。


「一体何の騒ぎだい?」


 どこか面白がるような、興味本位で訊ねたような、そんな声にレイクの動きが止まった。


 フラシア・ティンメルは、四阿から離れた生垣の迷路から優雅に現れた。相も変わらず妖艶さを漂わせる美女は、自身の存在を皆に刻みつけるようにヒールの音を立ててやって来る。

 だが、何よりも皆の目を釘付けにしたのは彼女の右手に握られた一艇の拳銃だった。


「“破滅の魔女”……」


 誰かがそう呟いた。


 フラシアは笑った。


「どうやら面倒事のようだね。まったく、今夜は退屈しない」

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