ふきだまりスケッチ

@heynetsu

第1話

 終着駅についた時には、乗客はわたし一人だけだった。荷物を抱えて席を立つ。

 かつて環状線だったこの路線は、視力検査に用いるランドルト環のように、北部の一帯が廃線となっていた。

 それも当然、この先はこの国でも有数の貧民街なのだ。スラムの人々は都心部へ続く路線など利用しないし、その逆もしかりだ。

 この駅も実態は操車場扱いで、よほどの物好きだけがここで降りる。自分でそう思う。お忍びでスラムに行く為に薄汚れた服を用意し、顔に脂を浮かせるお嬢様などそうはいまい。

 駅は高台にあって、スラムの中心部は坂を十分ほど下りたところにある。周囲に立つ建造物に人が生活している気配はない。この辺りは『一等市民』とそうでない者を分つ境界線なのだ。

 この無人区域を抜けると、前時代は商業地区として名を馳せた街になる。この国が未曾有の混乱に陥り、再建の過程で見棄てられた場所、というのが建前。

 曰く裏世界の重鎮が取り仕切る暗黒街でありおいそれと手が出せない。曰く土壌が汚染された事実を隠蔽するために放置されている。曰く人間を商品として捌くための人身売買市場である。

 曰くつきの街。

 だから、見棄てられたといってもゴーストタウンではない。むしろ、幽霊扱いされた人間で溢れかえっているような街だ。街の入り口に当たるアーケード通りには商店と人がひしめき合い、看板には公用語よりも外国の言葉の方が多かった。

 死んでしまった街と呼ばれているが、ほこり一つないほどに整備された都市部よりよほど生きた街であるように思えた。

 通りに入ると雑踏に阻まれまっすぐには歩けない。隙間を縫うように進む。ここいらの軒先に並んでいるのは、紙のふやけた古い週刊誌だったり、何の肉だかよく分からない串焼きなどで、売り物としてはこれでもマシといえる方だ。

 押し売りのように食事を勧めてくる親父も、売り方はともかく人間としては真っ当に生きている部類といえる。顔に笑みをはりつけ断りながら、雑踏を観察して歩く。

 よれたスーツ姿の男が案内役に引き連れられて裏路地に消えていくのが見えた。法に抵触する買い物だろう。あの身なりなら違法薬物が本命か。いや分からない。わたしのように変装した富豪層で、マニア垂涎のリボルバーや、マニア向けのプレイをする為の少女を買いにやってきたのかも知れない。

 型落ちのデジタルカメラを法外な値段で売っている電器屋の角を曲がると、陽の当たらない路地に入る。

 この通りは雑居ビルに挟まれている割に広く、また、ちょっとした更地がぽつんとあって、子供の遊び場にもなっていた。

 わたしは更地の向かい側にあるビル、その閉じたシャッターに背を預け腰を下ろした。そして、ヨレヨレの布カバンからスケッチブックと鉛筆を取り出す。

 このスラムで、わたしは時々スケッチをしていた。

 特にモチーフがあるわけではないし、とりわけ描きたい風景があるわけでもない。それでも、ふと足が運んで、昼寝するホームレスやがちゃがちゃした商店の風景を鉛筆で切り取りたくなるのだ。

 ここのところは定点観測でスラムの子供を描いていた。前回来た時は、缶蹴りをしている姿のクロッキー。スラムに出かけるとき口裏を合わせてくれる女学校の友人たちは缶蹴りを知らなかったので、おみやげついでに描いて見せてみようと思ったのだ。

 けれど、途中で物盗りか、はたまた強姦目的の男が気配を殺したつもりになって近づいてきた。

 やむなく肥後守を素早く相手の首筋に押し当てて追い払い、再開しようと思った時には、子供たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまっていた。今日はその雪辱戦といったところだった。

 幸いにも子供たちは今日も缶を蹴って走り回っていた。何人かは、ポートレートの題材になってもらったから知っている顔だ。

 このスラムには不法滞在の外国人も数多く住み、結果として混血の子供も生まれる。モデルとしては稀有な存在だ。彼らの顔立ちは、時として非常に個性的で魅力のあるものになる。少年は線が細いのに精悍で。少女はあどけないのになまめかしい。それを確かに美しいと認めてしまう自分が、悔しくなるほどに。

 思考を中断して、意識を画面と風景とに集中させる。絵を描くのではなく、彼らを切り抜いて詳細を保存しようというように。フィクションであってはならない。自分の色を出してはならない。ただ、ありのままを残すように鉛筆を走らせる。

 本当は、大雑把なラフスケッチよりも写真におさめた方が合理的なのだろう。もちろん、こんな場所で『父』からもらった骨董品のライカなんて構えてしまえば、ハイエナの鼻先に餌をぶら提げるようなものだけれど。それを抜きにしても、子供たちの嬌声やいろいろの表情まで抜き出せたらと考えてしまう自分には、本当ならば絵を描くという選択肢は相応しくないだろうと思う。

 一通り描き終え、移動するかそれとも帰るか決めかねながら立ち上がる。

 すると、アーケード通りの反対側、集合住宅の密集する地区から少年がかけてくるのが見えた。これから空き地の仲間たちに加わるのだろうと思ったが、彼はそうではなく、一目散にわたしの方に近づいてきた。条件反射で身構えるが、間合いの少し手前で少年は立ち止まり、頭を下げて息を整えはじめた。

 どうやら、わたしに用があってきたらしい。わたしは彼が落ち着くまでの間、その浅黒く華奢な腕を眺めていた。おそらくは純血。そうでなくとも近い民族同士でしか血は混じっていないだろう。幸か、不幸か。

 顔を上げた少年は、見上げるようにしてわたしを見た。瞬間、彼の表情に動揺の色が浮かんだが、すぐに睨みつけるような顔になり、口を開いた。

「あんた絵描きだろう」

 その声は嗄れて、やや震えた響きを持っていた。変声期に特有の嗄声だ。

「まあ、一応」

「ここで子供の似顔絵を描いたな?」

「モデル料は払ったけれど」

 彼の問いには詰問の色が見えた。わたしは眉をひそめ、後ろに隠したナイフを握り直す。だが、彼は咎めようというのではなかった。

「じゃ、じゃあ! 女の子を描かなかったか? 髪は短い、目が緑がかってここにほくろがある」

 まくしたてるように言って、彼は自分の口元を指差した。色ぼくろとも呼ばれるような場所で、ある種のフェティシズムを刺激しそうだな、と思った。

「どうしてそんなことを訊くのかな?」

 我ながら、残酷な質問だと思った。少年は分かるように歯噛みし、それでも言った。

「その子がいなくなったからだ。誰も行方を知らない。探すのに顔を教えるものが必要だ。けど、写真なんてない。あんた、何度かここにきて絵を描いてたろう。もしかしたら、肖像を持ってるんじゃないかと思った」

 肖像なんて立派なものはわたしには描けないよ。そんな冗談は、しかし口をつかなかった。

 わたしは、彼のいう「その子」を知っていた。手に持っているスケッチブックの中には、素描ではあるけれど本人を判別するには十分な人物画もある。けれど、それを彼に渡してしまっていいものか、躊躇してしまったのだ。

 よく覚えている。よく整った顔立ちで、北欧系に由来するのか、色素の薄い髪と翡翠のような目が印象的な子だった。鉛筆画だから黒鉛の濃淡でしか残っていないけれど、その妖精めいた色彩は一度見たら忘れない。そして彼女の顔は、どこかわたしに似ている。

 心臓の鼓動が大きく聞こえる。ビルの影で涼しいくらいの場所なのに汗が頬を伝う。拭う気力すらなかった。

 ――スラム街には混血児が多い。彼らは、人を虜にする容姿を持つ者もいる。それに目をつけて、はした金で子供を買う物好きな富裕層がいることも知っていた。

 わたしは、その当事者だから。


 元々、わたしはこの街で生まれた。屋台の串焼きは好物だったし、高熱を出した時に母が買ってくれた薬も処方箋はついていなかった。教科書なんてものはなく、盗んだマンガ雑誌で文字を覚えた。

 ある日、ビル影で日の当たらない部屋で昼寝をしていたわたしは、母に「おでかけに行ってきなさい」と揺り起こされた。

 そして、スーツに身を包んだ綺麗な身なりのおじさんに手をひかれ、この街を出た。

 もちろん、知らない人間には警戒するのが無秩序な貧民街での数少ないルールだ。

 けれど、お嬢さんおいで、キャンディをあげようと言って取り出された瀟洒なお菓子の紙箱になけなしの猜疑心は吹き飛び、ころっとたぶらかされてしまったのだ。

 そうして、わたしは母に売られた。名目は養子だったが、実際のところは容姿を買われたのだ。混血のわたしの容貌は、やはり蠱惑的であった。

 買われた子供としては、相当に幸福だったと思う。

 自分の子供という事実に欲情する倒錯的な人物ではあるにせよ、『父』はわたしを我が子として愛してくれた。そして何より、清潔な環境と満足な教育を与えてくれた。

 絵を描くことも、学校で覚えた。綺麗なものを綺麗な色で描くことはわたしを夢中にした。

 しかし、物質的に満たされていたわたしは、何年か経ったある日、精神的な欠落があることに気付いた。

 わたしの過去を知っているのは、わたしと、傍らで眠る『父』だけ。貧民街での『わたし』は、いつの間にか風化してしまっていたのだ。

 自分のルーツはあの薄汚れたスラムにあって、それはひょっとすれば取り戻せるのかもしれない。

 そう考えたわたしは、『父』に内緒でスラムへ出かけた。スラム出身であることを知らない友人たちには、芸術の為だと大法螺を吹き込んで口裏を合わせてもらった。

 数年ぶりに訪れた故郷はわたしを拒絶した。上等な服に袖を通したわたしを見る視線は値踏みそのものだったし、実際に襲われかけもした。温かな食事と清潔なシーツでの睡眠をとっていたわたしは、この街のルールを忘れていたのだ。それでも護身の動きを身体は覚えていて、なんとか切り抜けられた。

 そこからはがむしゃらにかつての我が家へ走った。あったはずの瓦葺きの木造住宅は更地になっていた。訊くところによると、不審火で全焼したのだそうだ。住んでいた女性は行方知れずになっていた。

 呆然としたわたしは、今度はかつての友人たちの所在を探ろうとした。けれど、元々流動的なスラムでの人探しは困難だ。誰一人消息を捉えられず、また、成長したわたしを覚えている者もいなかった。わたしは、自分がかつてこの街にいたことの痕跡を失ってしまったのだ。

 ああ、こんなもんか。会おうと思ったわけではない。母や友人を一目見て、今どうしているか、それだけ分かれば満たされたはずなのに。

 この幽霊の街に生きていた頃のわたしは死んでしまった。そう感じた。

 わたしはそれからこの街をたびたび訪れるようになった。ヨソ者であるという事実を突きつけられて、それでも諦め悪く、自らの原風景を拾い上げようと絵を描いた。

 絵の中に自分の居場所を描きたいという欲求に気付くと、耐えられずに今度は忘れる為に鉛筆を動かした。いつか見たあの風景は絵の中の世界で、現実のものではないのだと。過去を遠近法の彼方へ押しやるために。

 そうしているうちに、喪失感には慣れてきていたのだ。それなのに。

 かつて、我が家があったはずの更地の前で、少女を探したいという少年がいる。少女はわたしと同じように買われたのだろう。きっと、彼女はこの貧民街には戻ってこない。わたしのように自由な身分ではないかも知れない。生死だって定かではない。

 時間は記憶を風化させる。人との繋がりも。彼にポートレートを渡してしまえば、彼は少女を忘れないだろう。それはわたしがかつて求めたことであり、同時に、呪いにも似ている。

 どれくらい立ち尽くしていたのだろう。数秒と経っていないのかもしれない。少年は困惑の表情を浮かべて、どうしたとしきりに声をかけてきた。わたしはのろのろとスケッチブックをめくり、あるページを開いた。

 そこに描かれた少女を見せると、彼は驚愕で目をむき、そうだこの子だと光明を見出したかのように狂喜した。

 謝礼を出す、譲ってくれと言った少年を制して、わたしは二つの条件を出した。

 一つは、「決してこの少女を探してはいけない」。そんなわけにいくか、と目を剥いた彼に、わたしはこう続けた。

「君はこの子を探す。それは止められない。でも、この場では約束してほしい。彼女を探さないって。反故にしたっていいから」

 彼は真意を測りかねるといった表情を浮かべたが、それで済むならと承諾してくれた。

 提示したもう一つの条件には、彼は打って変わって快諾してくれた。「君の絵を描かせて欲しい」。

 わたしは彼に呪いをかける。変声期の少年はこれから大人になる。そのうちに少女を取り戻せないことにも気付くだろう。

 それは物理的な意味だけではない。少年の知っている彼女の姿が失われる、という意味でもある。このわたしがそうだったのだ。

 少女を永遠に失ったと気づく時、彼が持つあどけない笑顔の肖像は忘却を許さない。それは残酷なことだと思う。

 けれど、わたしは誰かに覚えていてもらいたかった。探してもらいたかった。少女に自分を重ねて、少年が覚えていてくれればそれはどんなにか救いだろうと。

 そして、少年のことをわたしだけは忘れない。少女を探す少年を、少年が探す少女を、このスケッチブックが証明するのだ。自分が救われたいだけだと理解して、それでも描いた。

 最後の線をひき、できあがったポートレートをひっくり返して少年の方へ向けた。それを見てはにかんでくれたことは素直に嬉しかった。

「長々と付き合わせてごめんなさい」

「こちらこそ、ありがとう。約束は守れないかもしれないけどね」

 それだけ言って、彼は踵を返して走り去った。

 わたしもスケッチブックをしまう。この街に来るのは今日でおしまいにしようと決めた。わたしと、少女。二人のことを覚えている少年がこの街にはいる。貧民街での思い出は、今のわたしにはそれだけで十分だった。

 帰ったら、缶蹴りの風景に好きなように好きな色を塗ってしまおう。少しぐらい、そこにいなかった人物を描き足したっていい。

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